19. 月のきみ
王宮の夜空には、くっきりと月が見えている。
月はサラフの工房の庭からも、よく見ていた。みんなが一緒の時は、月を見てさみしいと思ったことがなかった。
でも今は月が昇ってきたほうが西で、あそこにはジャミルがいるはずだと思うと、玄関の心には悲しい寒さみたいなものが忍び込んできて、泣きたい気持ちになる。
こんなに会いたいし、顔は見えているのに、どうして会うことができないのだろうか。
ジャミルはどこで、何をしているのだろうか。わたしのことを忘れてしまったということはあるのだろうか。玄関はちょっと涙ぐんだ。
玄関は第二王子の書いた「月のきみ」を思い出し、書棚からその本を取ってきた。
その物語には、宮廷の門前に捨てられていた幼児のことが書いてあった。
ある国の王子、アンドレアはその夜中、馬車で月見に出かけた。彼は月を見ながら、詩を書くのが好きなのだ。
宮廷に帰ってくると、門の前に小さな男の子が身体を丸めて座り、小さな声で泣いていた。アンドレアは馬車から下りて、子供を見た。子供は足に怪我をして血が流れていた。
子供の透き通った灰色の目には涙がたまり、目の中の月は、夜空の月よりも美しかった。
「いくつ」
アンドレアが訊くと、彼は3本の小さな指で示した。
「3歳なのかい。名前は」
「ジョナン」
「ジョナンというのかい。どこから来たんだい」
ジョナンはわからないと首を振ったら、涙で濡れた髪は額にはりついていたが、それ以外の髪はさらさらと風の日の野草のように揺れた。
「お兄さんのところへ来るかい。怪我の手当をして、おいしいものをあげよう」
アンドレアがそう言うと、ジョナンはこっくりと頷いた。かわいらしすぎて、心が風に揺れる小さな花のようにぴくんと揺れた。
その時、アンドレアは16歳、ジョナンを手元において大切に育てた。着るもの、食べるもの、すべて一流のものを与え、勉強はアンドレアが自ら教えた。
しかし、アンドレアが自分の好みを彼に押しつけたというのではない。
ジョナンがオリーブが好きだというので、庭に4種類のオリーブの木を植えさせ、羊と山羊と白うさぎがほしいというので、それも飼った。
彼がフクロウが大嫌いだというので、子供の頃から大事にしていたフクロウは森に捨てた。
笛が得意だとわかったので、国一番の師匠につけ、すばらしい音を奏でる横笛を手にいれて贈った。
しかし、ジョナンはいつも悲しげで、大きく笑うことがなかった。
アンドレア王子が20歳になった頃からは、世界各国の数々の姫たちが彼の花嫁になりたがっていた。ある大国のひとり娘からは申し出があった。その姫と結婚すれば、国王にもなれた。
しかし、王子はどんな美しい姫にも、どんなおいしい話にも、興味が湧いてこないのだった。
王子は一回りも違う少年の反応に一喜一憂している自分を情けなく思い、腹を立てることもあった。もう彼のことは諦めて、普通の男になるのだと決めた日もあった。
やればできる、そんな気がした日もあった。
美しい姫方とも会う努力をした。しかしいくら努力をしても、喜びが湧いてこないどころか、どんどんと暗い沼に落ちていく自分を感じるのだ。苦しくてならない。
そんなある日、久しぶりにジョナンに会ったら、彼が白い百合がぱっと咲いたように微笑んだ。自分を待っていてくれたのだと思うと涙が出てしまった。
「アンドレアはどこへ行ってたの?」
とジョナンが睨むような目をして言った。
「お仕事だよ」
「ぼくはさみしかったよ」
王子はその言葉を聞いて、胸が震えた。
「ジョナン、私がいなくてさみしかったのかい」
「そうだよ。うさぎの赤ちゃんが生まれたから呼びに行ったのに、いなかったじゃないか」
「そうか。ごめんね」
王子はこの子をもっと喜ばせて、抱きしめたいと思うのだった。
玄関は「月のきみ」を読みながら、第二王子と結婚式をあげてもよいかなと思った。
これで、王子が世の中の噂から解き放たれて自由になるのなら、協力してもよい気がした。きれいな服を着て、ただ歩けばよいのだから。上品に歩く方法を練習しなければならないけれど。
ただ第二王子は結婚した後は、その少年と海の近くに宮殿を建てて住みたいと願っている。けれど、その少年の気持ちはどうなのだろうか。
あの蜂おじさんだって、家を建ててくれて、本を買ってくれて、学校に行かせると言ってくれた。でも、玄関はいやだった。
その無口な少年は、第二王子とのことをどう思っているのだろうか。




