18. 第二王子が書いた小説
玄関にはその日から第二王子の書庫に住んでよいという正式な許可が下りて、通行許可札という木札がもらえた。これを持っていると、宮廷のどこにでも行けるし、食堂に食べに行くこともできた。
生きていると予想もしないことが起こるというけれど、それは本当だ。
クビをはねられるかと思ったのに、今は第二王子の宮殿に住めることになったのだから。
読みたいだけ本が読めて、おいしい食事もあり、宮殿の庭を散歩もできる。本当に、ここは天国ではないかと玄関は思った。この先の人生で、これ以上の楽ちんな日があるだろうか。
でも、楽ちんでなくてもいい。ジャミルと一緒なら、楽な日々でなくてよいと思う。
毎日、午後になると、第二王子が来て、自分の小説についての質問に答えてくれた。
しかし、玄関の知識のあまりの少なさに嘆いて、家庭教師がつけられることになった。
14歳になった玄関には、本が与えられただけではなく、教育が受けられるチャンスが降ってきたのだった。
ディランスという老教師が訪れた朝は雨が降っていた。
「空が泣いている」と玄関が言ったので、この子には「詩の才能」があるかもしれないと内心喜んだ。たくさんの生徒を教えていると飽きてきて、たまには輝く才能に出会いたくなるのだ。
しかし、少女が本気で言っていると知って、力が抜けた。
14歳にしてこの知識では基礎の基礎から教えなくてはならないから面倒くさい。
できることなら辞退したかったが、妻のリタが6ヶ月の前金で家の修理を始めさせてしまったので、続けるしかない。
ディランスは世の中の難しいことについてはたくさん知っているが、妻の小言は苦手なのだ。やれやれ。
けれど、この玄関という子のやる気と進歩の速さには目を見張るものがあった。喉が渇いた馬が水を飲むように、日々に知識を増やしていく。よほど勉強したかったのだろう。
その日、ディランス先生が帰る時間になっても、雨は止まなかった。
「やれやれ」
と先生はため息をついて頭を掻いた。
「どうかしましたか」
見送りのために入口までついて来た玄関が言った。
「雨期は苦手じゃ」
「どうしてですか」
「跳ねを上げるんじゃ。どんなに気をつけてもズボンを汚してしまうから、家内に叱られる」
「へー、奥さんが先生を叱るんですか」
と玄関が驚いた。
「がみがみ、うるさいもんじゃ」
ディランス先生は傘をさして、おそるおそる歩いて行った。
「せんせー」
と玄関が後を追いかけてきた。
「先生の歩き方を見ていたところ、先生は足と足との間が狭いから、右の泥が左の足に、左の泥が右の足に跳んでいることがわかりました」
「問題は、歩幅か」
「はい。だから、足幅を開いて、大股で歩けばいいと思います」
玄関が手本歩き方を示した。
ディランス先生がその通りにすると、跳ねを上げずに済んだ。
この子には知識はなくても知恵がある、とディランスは感心した。
半年が過ぎた頃、玄関はついに第二王子の小説を4冊全部を読み終えた。
「ルシアン第二王子の書かれる物語はどれも美しいですが、どうしてこんなに悲しいのですか」
と玄関が訊いた。
第二王子はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「そなたが最初に読んだ物語を覚えているかい」
「はい」
「ハリムとニルミンのニルミンは私なのだよ」
「体験ということですか」
「そうだよ」
あの泣いてばかりいたのは王子だったのか。
趣味のよい屋敷に住み、ほしいもの何でも手にはいる王子にも、悲しいことがあるのだ。どこに住んでも、悲しみはあるのだと思った。
「私が書いた本は、大体が私の物語だ。妄想も、希望もいれてあるけれどね」
王子の物語に共通して出てくる登場人物は、年上の主人公と美しい少年で、少年はあまりしゃべらない。
「ホンモノの彼はもっと美しくて、もっとしゃべらないよ」
主人公はこの少年に思いを寄せ、いろいろと努力工夫をするのだが、少年は心を開いてくれない。少年はどこか哀しげで、その心がなかなか読めないのだ。しかし、主人公はこの少年なしの人生を考えることができない。
「その少年はどこにいるのですか」
「奥にいるよ」
「この宮殿の奥にいるのですか」
「そうだ。隠れて暮らしているから、彼も辛いだろう。早く、ここから出してやりたいと思っている」
玄関も塀の中で13年も暮らしていたから、その少年の気持ちが少しはわかる気がした。
「私はもう29歳になるんだよ」
「そんなになるんですか」
「そうだ。もっと若いと思っていたかい」
王子は笑ったが、目玉が動揺していた。
「兄のラフトル王太子は33歳でもう結婚されている。やんちゃだが兄思いの弟のロニロイだって女友達はいる。そのうちに婚約するだろう。というわけで、私の結婚については、周囲がとてもうるさいのだよ。早く結婚せよとか、どうして結婚しないのとかね。人間というのは、噂が好きな動物なのだねぇ」
「はい」
「私が大切に思う人はいるのだけれど、女性でないから、そのことは誰にも言えないのだ。兄弟だけは知っているけれどね。こんな前例が、この王宮にはないのだよ」
「だから、小説に書いたのですね。だから、あんなに悲しいのですね」
「私だってこのしがらみから解放されて、あの子とふたりで、海の見えるところへ行って、詩を作ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたりして、静かに暮らしたいのだよ」
「どうして海なのですか」
「その子が、海が好きなのでね。海の話になると、笑顔になる。だから、海の近くに宮殿を建てれば、彼はよろこんで来て、ともに住んでくれるのではないかと思っている。そうなったら、どんなによいだろうか」
第二王子は眉を寄せて、外を見た。そして、たまっていた悲しみを吐き出すかのように、細く嘆息した。
「それで、ひとつ考えが浮かんだのだけれど、笑わずに聞いてくれるかい。私は真剣なのだから」
「はい」
「玄関よ、私と結婚してくれないかい」
ひえっ。
「結婚ですか。それは困ります。わたしは結婚がいやで、ジュマ村を飛び出してきたのですから……。わたし、本当は思っている男の子がいるのです。結婚したいのは、そのジャミルだけです。今、ジャミルを追いかけて、西に行く途中なのです」
「玄関、結婚といっても、みんなの前で、式をあげるだけでよいのだよ。そうやって、周囲を安心させるだけでよいのだ。そなたは式の後は、自由にするがよい」
「わたしは孤児で、教養もないのですが、式だけでとしても、王子と釣り合うのでしょうか」
「それはどうにでもなる」
「わたしは宮廷のしきたりも知らないし、正装の服を着たこともありません」
「それもどうにかなるよ。式をあげて、みんなの前を私と一緒に歩くだけでよいのだ」
「みんなって、大人数ですか」
「そうだ」
「そんなことが、できるのですか」
「できるよ。どうか、私の幸せのために、この願いを聞き入れてはくれないか。玄関は西に行きたいのだから、結婚式をあげてくれたら、ありあまるほどの褒美をあげよう」
「王子には大変お世話になっていますから、できるかぎり、お手伝いしたてのですが、でも、少し考えさせてください」
「どこが問題なのだい」
「よくはわかりませんが、心にひっかかるものがあります」
「それは何だい」
それは何だろうと玄関は考えた。
「結婚式というのはただの式かもしれませんが、もっと重いものだと思っているので」
玄関はジャミル以外の人との結婚式は考えられないのだ。それがたとえ、ホンモノでないとしても。
「わかったよ。そこはじっくりと考えて、返事をくれればよい」




