Seis カゲソエのミコ
白昼の東京湾でも戦いが続く。
ちがうな。龍とワームの追いかけっこ。チコの頭から落ちなければいいだけ。それと杖を向けられぬように。
「悪い夢すぎる。アンヘラどうにかしてよ」
私の足もとで白猫が騒ぐ。こいつは三回小突いたら、自分が人であったことを思いだした。
「ヒューゴ冷静でいろ。あの杖の仕業だ」
「だからヒューゴって誰だ? この猫はなんだ」
エイジまで動揺している。こちらは足を失い、さすってもらうため私のもとへ逃げてきた。たいしたことない男であったのが判明したが(二度ほど体を重ねているが、そちらはまずまずだった)、異形になった人を忘れるようでは使い物にならない。
しかもドイメのことも忘れている。あのサキュバスは死んでなく、人に変えられたってことか。
ハカとサンドは捕らえられた。まともに残るのは私とチコと役立たずのエイジ。それと役立たずに懐く真忌。こいつが盾になってくれているが。
もう一匹いたか。
「あれも魔女だった」役立たずの魔物がまたささやく。「夜まで耐えろ。新月まで」
「大口だけで力が足りなかった魔物は失せろ」
「来る!」
白猫がひげを立てた。こいつの敵への勘は、龍の勘をしのぐ。
「チコ避けろ!」
「うん」
黒い渦がぼんやり宙に浮かび、ミミズが冥界経由で現れる。枯葉色のドラゴンが羽根を強め、誰の目にも見えないおぞましい呪術から逃れる。
「いまのは助けられた」
この猫はヒューゴより使える。
「マドレ。尻尾に当たったけど平気だった」
「チコは別格だからだ。頭に直撃したら分からないぞ」
そのときは、かわいい男の子になるかもな。そしたら私が抱きしめながら落下してやる。もう頼るものはないのだから、一緒に命を断とう。
「マドレおなかがすきすぎ。ワシを食べたい」
「我慢しろ。もう少しだ」
あの大鷲はおとりだ。捕らえるのは難しい。ミミズも襲えば冥界へ逃げられる。……ひと段落したら、人の顔をした水竜を無理やりにでも食べさせるのに。好き嫌いはさせない。
「い、いいいい……」
その真忌が騒ぐ。また陸を目指そうとする。
「まだ松本は我慢しろ。奴の隣で魔女が待っているぞ」
エイジがなだめ、真忌が海上にとどまる。カゲソエのミコはこいつに杖を向けない。この顔を見たら、人に変える気は失せるだろう。
なんであれ私は猫になりたくない。ライオンだろうとだ。
「ヒューゴである白猫の心を読ませてもらったが」
デモニオ・アドラドなんて大層な名だった魔物がささやく。
「アンヘラ達がこの湾から離れぬ理由も、新月を待っているのだな。それは正解だ。龍を餌とみなして、必ず鬼神が現れる」
そいつはうまそうなチコに刺激されて何百年ぶりに現れる。そして逆にチコの餌にするつもりだったが、役立たずの悪魔に褒められると不吉が裏打ちされる。提案したエイジも無能が判明したしな。
役立たずだらけ。使えないのはドイメだけではなかった。……だったら人になった淫魔を救ってやるか。なにも覚えていない人間として処刑されるのは忍びない。
「あの鬼を復活させるのはやめるべきかもな。流れは連中にある。天竺鬼畜大鼠も奪われた」
エイジが弱音を吐いた。ならば逆をすべきか。やはり鬼神の復活をluna nuevaに試そう。完食すればきっとチコは強くなる。だとしてもだ。
「いつまでもperro come perroをしてられるか。勝ちで終われるアイデアを誰か教えろ」
サンドが捕らえられたのが痛すぎる。あの蛇に頼った自分に気づいてしまう。
「僕が所有したもので消えなかったのはこれだけ。僕でなく魔女のものだからだ」
白猫がポーチをくわえなおす。「この中身は何だろう?」
「さあな」
開けられぬものを詮索してもどうにもならない。また私は腕を消したくない。あれは激痛だった。
「天竺鬼畜大鼠は護衛として松本のもとだろう。おそらく松本は夏梓群とともにいる。屍術士を影添の巫女の狩りに付き合わせて、二人はベッドかもな」
「エイジ。なにが言いたい」
「つけ入る可能性があるってことだ。今ではないが、うまくいけばルビーを味方にできる」
「今を打開する方法を知りたい」
サンドに戻ってほしい。重要な情報を伝えてほしい。だが頼るな。私にはチコがいるだろ。
「チコはどうしたい?」
だから私達を乗せる坊やへ聞いてみる。
「おなかいっぱいになって寝たい。それかヒューゴ様だけでなく、マドレも僕らの仲間になる。きっと強くてきれいな龍になる」
東京湾上空に沈黙が漂ってしまった。
「ははは、だったら俺も陰辜諸の杖を受けてみるか。俺は何になる?」
「エイジ様は亀か蛇になって弱くなる」
「……四神獣だな。四方を守る東洋の聖獣だ」
エイジが私に顔を向ける。「レイモンドに聞いた。楊偉天は妖術で人からそれらを作りだす研究をしたらしい」
「狂ってるけどすげえ。その術を逆に応用すれば、僕は人間に戻れるミャー」
白猫が笑う。異形の猫だからか感情が伝わり気色悪い。
「チコは龍になった私を恋人にしたいのか?」
「マドレはマドレのまま。でも人の目に見える姿だから僕より強くなる」
決断の刻だ。
「わかった。日本のシャーマンから術を受けてみる」
異形になってやる。それなら夏梓群と対抗できる。
「……やっぱり狂っていた」白猫が私を見上げている。
「好きにしていいが、俺はアンヘラの存在を忘れる。アンヘラも記憶が消えて俺や猫を喰おうとするかもしれない。なので俺らは冥界へ逃げる」
「エイジこそ好きにしろ」
人をやめると決めたら心が浮き立ちだした。なんだって食い殺してやる。だが気色悪い真忌は食べない。もちろんチコも食べない。
「その覚悟で突撃するのなら、これを返してやりなよ」
白猫はまだ夏梓群のポーチの紐をくわえていた。「お二人がやられたことをやり返す。ワームに乗ったオリエンタル女優に開けさせよう」
「なるほど。片方だけであろうと、あの巫女の腕を封じられるな」
ワームの主も強い。エイジと同じく――おそらくそれ以上に妖術をつかえる。落雷のTの直撃を受けたのに、エイジどころかサザンクロスより手軽に回復し、ヒューゴへお返しをした。
「馬鹿でなければアンヘラを異形に変えないかもな」
エイジがシニカルに笑う。
「真忌と同じに扱われたなら、この袋を口に突っ込んでやる。結果を見届けてから冥界へ行け」
「本当にやるのか……。真忌、俺と猫を乗せろ」
「い、いいい」
エイジ達が真忌の頭上へ移動する。その化け物と触れ合えるエイジこそ、私はおぞましいけどな。
「チコ反撃だ。喰らうなよ」
「わかった」
私だけを乗せたチコが海上の高い空で反転する。ミミズの化け物と離れて向かいあう。乗っているのは普段着の東洋美女。それとルビー・ハユン・クーパー。
カゲソエのミコが杖を向けてくる。
「マドレ。遠いから届かないよ」
「ああ。威嚇だけだ」
ミミズはチコを待ち構えている。私らも脅してやりたいが、チコを今以上に腹を減らせるわけにはいかない。
「チコ。口だけ開けてみろ」
「うん」
チコがブレスを吐く真似をする。同時にミミズが黒くかすんで消える。冥界を瞬時に行き来するトリッキーな敵。しかも自分の敵も送れるらしい。接近戦こそ危険だが。
右か左か。上か下か。振りかえれば。
「ちっ」真忌の前に現れやがった。
「逆さ人封!」日本語の忌むべき叫びが伝わる。
「いいいい!」真忌の顔面に太いロープが巻かれ悶えだした。
黒い閃光が幾つも見えた。エイジが役立たずでないのは、掛け声をせず術を発せられることだけ。鯨骸扇から呪いを飛ばした。
「いてえ!」巫女がわめく。ミミズも悶える。「凶状持ちのオヤジめ。貴様も亀にして折坂さんの前に引きずってやる!」
「真忌、逃げろ!」
「土彦、追え!」
主達を乗せた化け物が消える。東京湾は私とチコだけになる。真上の光が海面で反射している。陽の光は南米よりえげつない。
「マドレ、僕らも追う?」
「いや。ここで待機しよう」
チコは冥界へ行かせない。この隙にまたクジラを喰わせるか。私は地上で休みたい。
「太陽が強すぎて俺にはきつい」
デモニオ・アドラドの声がした。「俺の捕まえた娘をつかわないのか。王思玲と言い三十近い歳らしいが、前年の戦いで死に、魔女が今の齢でよみがえらせた」
「夏梓群でもできるわけない。別の力によるだろ」
暇つぶしに話の相手をしてやる。「その娘は切り札で使わしてもらう。魔女に追い詰められた際だな」
もしくはおびき寄せるために使う。耳を削いで送るか。眼球でもいい。メッセンジャーのサンドがいない。
「ひひひ、蛇と交換せぬか」
「わあ」
いきなり声がして、チコが暴れた。
「楊偉天という魄だ。関わるな」
デモニオ・アドラドの声に嫌悪がにじむ。
悪魔に忌々しがられる存在か。ならば聞こう。
「器よ。サンドと王思玲を交換という意味だな」
「まずひとつはそうだ。ただし儂は封じられた悪魔も刀輪田もお前も信用せぬ。さきに王思玲を解放しろ」
「俺こそ貴様を信じぬ。アンヘラ聞け、こいつは松本も手玉にした。知恵ある魄なんてのはな、俺様どもより邪悪だ」
「デモニオは落ち着け」
長い名は面倒だからアドラドは省略してやれ。「もうひとつの交換条件は何だ?」
「デモニオ・アドラドを地の底へ向かわせて、儂の魂を終わらせてやってくれ」
「おお、そしてお前は人へ戻り、あらたに魂を所有するのか。……それはそれは協力してやりたい。アンヘラよ、そのために俺の箱を開けてくれ」
たいした交換条件だ……。
私だって悪人だ。人殺しだ。でもこいつらほど堕ちてない。地獄を行き来する連中などと関わりたくない。
「まずはサンドを返せ」
「ならば話は終わりなだけ。あの蛇は梓群に渡そうか。もしくは上海不夜会の頭領に。あの男は人の式神を奪える」
「好きにしろ。代わりに今夜王思玲は鬼神の生け贄だ」
「……睦を起こすのか? ひひひ、あの新月の鬼はデモニオ・アドラドより名前負けだぞ。また松本一味に奪われるか、倒されるだけ。夜になるまえに決断しておけ、ひひひ……」
その前にチコへ喰わせるのだよ。念のため心を閉ざしたまま心でつぶやく。
魄は去ったようだ。……交渉事は苦手だ。エイジの意見を聞こう。やっぱり奴は私よりは役立たずでない。
「デモニオ。王思玲はどこにいる?」
「教えられない。魄に聞かれたら、松本が奪還に向かうかもしれない」
冥界で何があったのか、こいつは松本を恐れている。巫女が持つ杖も恐れている。だから私にすがりつく――。
海面で黒い靄が膨らんでいく。ようやく戻ってきた。どっちだ?
「アンヘラ。聞こえるか?」
影添の巫女とミミズだった。巫女は縄でできた籠を持っていた。
「この中に刀輪田だった黒い蛇がいる。毒蛇みたいだから隔離した。私の足もとで裸で寝ている婆さんが真忌だ。化け物のときは若作りだったが、やはり近くで見るべき人相でない。……私と土彦を冥界で相手するなんて愚かなんだよ。おい白猫、そうだよな」
「そ、その通りです。アンヘラが降伏してくれたら、僕とエイジさんは人に戻してもらえる。助けてよ」
「劣勢だな」
役立たずの悪魔がささやく。「いまの俺は日中だと無力だ。箱から出さないなら立ち去るぜ」
ヒューゴもデモニオも頼れない。つまり、もしかしたら、人生最後の決断になるかもしれない。
「チコ、私達は決死で戦う」
「マドレわかった」
「巫女を終わらせて杖を奪う。そのために冥界まで追う。チコもだ」
「怖いけどわかった」
「私がドラゴンになりチコが人の坊やになったら、チコが私の主になれ」
「マドレはマドレのままだよ」
この子の言葉は勇気をくれる。
「だがチコは杖を受けるな。突撃だ!」
「うん」
ミミズは待ち構えている。乗る巫女は余裕の面。真忌を人に変えるという一線を越えた者の面。杖を向けてくる。
「チコ来るぞ」
「うん」
チコは避ける。大鷲は空高く傍観している。あの鳥は巫女の使い魔――式神ではない。
「マドレ、次は近すぎて避けられない」
「それでも避けろ」
そしたら私達の勝ちだ。
巫女は笑っている。ハリウッドより素で美人だ。それさえおぞましい。怖い。
チコの頭上にいる私へ杖を向けてくる。
変えろ。変えてくれ。私を異形にしろ。もっと力をよこせ。
「駄目です!」
存在感のなかったルビーが巫女へタックルした。
「わ、馬鹿……ひい!」
よろめいた先から、巨大な化け物が現れる。呆けた顔だろうが真忌。手先が狂い異形へ戻したか。
つまり私の勝ちだ。手に剣を現す。チコから跳躍する。
「えい!」
「空封そして地封!」
「オラッ!」重なった結界をまとめて切り裂く。
「ド、ドロシー以上だろ」
巫女は怯えても美しい。その顔から裂いてやる。
「土彦、逃げろ」
一度だけでいい。輝け、gran espada alada!
掲げれば、血のごとき赤が冥界への黒を飲み込む。
「チコは来るな。私が落ちたら拾うだけにしろ」
私は巫女とルビーをにらむ。
「アンヘラを異形にしてはダメ。誰も勝てなくなる」
ルビーは怯えているのに。「メリオ、ビジナエク。ス、サムギ、ドハ、クレイシ。そしてエラス、ギフィオ、ノマレ!」
巫女へ屍術とドーピングの術をかけやがった。
「……ひひひ。アンヘラはよく見たら美人だ。胸もでかい」
巫女が下卑な顔を向けてくる……。しくじった。雌のくせに強く作用するのか。
「そうです。私よりずっといいですよ。エラス、ギフィオ、ノマレ!」
禁断のドーピング二段重ね。巫女の後遺症を気にすることなく、ルビーはその背に隠れる。……殺してもルビーに操られ更なる強敵。しかも目がイっている。会話は成り立たない。
「おらあ!」やはり私へと飛びかかってくる。
「オラッ」剣で両腕を――切り裂けない? 強化され過ぎだ、変態め。
「いてえな」鼻息荒い巫女が両手をさする。傷が消える。「お仕置きだ、ひひひ」
知らぬ間に白猫が私の背後に逃げている。真忌は腹を上にして空に浮かぶだけ。毒蛇の入ったロープの籠は薄らいでいく。
巫女は首へのクリティカルヒットだけ警戒している。落としたところで屍術を受けたゾンビは自分の首へ頭を乗せる。
「オラッ くそ」
至近での剣を避けられた。こいつは格闘能力も――「げはっ」
腹を蹴り上げられた。避けられない。
「まずは弱まらせる」巫女にマウントをとられた。「やっぱ顔はいらね。体だけでいい」
べし、べし、べし、べし、べし
鋭く重いパンチを振り降ろされる。
胸もとのサザンクロスを握れ……くそう。
「そのキショい十字架はなんだ?」
手をたやすく払い除けられた。私を反射神経で凌駕している。
「くっ」
指をまとめて折られた。そしてまた。
べし、べし、べし、べし、べし
べし、べし、べし、べし、べし
「京さんすごい。アンヘラを……。もっと頑張ってください。そして一週間は冥界へ籠ってください。さもないと犯罪者になりますよ。エラス、ギフィオ、ノマレ!」
「よせよ、鼻血がでてきた、ひひひ」
べし、べし、べし、べし、べし
べし、べし、べし、べし、べし
べし、べし、べし、べし、べし
「マドレ!」
「来るな……人へ変えられ……」
チコが泣いている。弱い私を見せてしまった。
「アンヘラ……」白猫がつぶやく。「夏梓群が隠すもの」
私は手にポーチを現す。
「ドロシーのだな」同時に奪われる。「下着が入っている。匂いでわかるが、トラップもかかっている。なのでアンヘラが出せ。手伝ってやる」
美形の巫女が嗜虐に顔をゆがませる。紐をゆるめ入り口をひろげ、私の右手を押し込む。
「ぐわあああああ」
「マドレ!」
ポーチのなかで手の先が焼けて溶ける。だとしても祈れ。チコのために願え。
魔女が隠し持つものよ、こいつに勝てる武器を我が手に!
「降伏しろよ。私にでっかいボーナスだ」
巫女が笑いながらポーチを引く。「パンツを手にしたか……なんだそりゃ?」
私は存在しなくなった右手に紅色の拳銃を握っていた。術の力を感じる。安全装置ははずれている。
「オ、オラッ!」
巫女へと引き金を四回引く。頭への一発は避けられた。一発ははずれた。だが胸と腹に当たった。銃がミミズの上に落ちる。
「なにこれ……」巫女が両手で胸と腹をさする。青ざめていく。「体の中が治らない。しかも辛い。やばいよこれ、すぐ死ぬよ」
私は左手で、存在しない右手へサザンクロスを当てる。復活していく。
「逆転だ」
言おうが立ちあがれない。ミミズの上で転がるだけ。
「アンヘラありがとう」
ルビーが私を見つめる。「京さん、はやく死んで」
屍との第2ラウンド。もう私は相手できない。
「終わってたまるか……」
うつぶせに倒れた巫女の手に杖が現れる。「異形になれば、とりあえず死なない」
自分へと向ける。見えない呪術が、消えかけの籠から抜けだした黒蛇にもかかる。
「……人に戻れた」エイジが復活する。「な、な……」
私達の目前で、巫女が人の目にさらされた化け物と化す。これぞオリエンタル。美しいが……。
「エイジ逃げるぞ。チコも真忌を起こしてすぐに追ってこい」
こんな奴とこれ以上戦えられない。離脱だ。
「猫も来い」エイジが手形を握る。「はは、ピストルをくわえてやがる。器用だな」
あの銃の形式なら、残る弾は2発か3発。
次章「0.9-tune」
次回「尸」




