三十一 奥底
俺はドロシーのはにかんだ笑みを思いだす。まだ満面の笑みを見ていない。
「エイジ様。魄は念と戦っています。私が松本へとどめを刺します」
「ドイメに任せてやる。手柄を立てろ」
うるさい!
俺は瞳を閉ざした顔を思いだしていたのに。そこへ顔を近づける期待と緊張と至福を。
それより先を何もしていない。これから何度でも何度でも……。
「お、俺はドロシーオンリーだ」
俺はまだ生きている。「だから俺は死なない」
ドイメは陽動。エイジはひそやかに。
油汗がとめどない俺は急いで背中のリュックサックをおろす。やはりデモニオ・アドラドに貫かれた傷はない。……念だけで殺されかけた。魂だけを裂かれかけた。
救ってくれたのは。
「まだ呆けてる?」全裸の女性であるコウモリの化け物が微笑む。
ドイメは陽動でエイジはひそよかだろ! 勢いよく落ちていくだけなのだから、前後左右のどれかだろ!
俺はリュックサックのファスナーを開く。二度は引っかからなくても。
「来いよ!」
一度で充分。後ろへ向けたリュックへエイジの靴底が吸いこまれる。
へへへへへ……
魔女の残虐な罠が発動する。
「ぐわあああ」
片足が溶けたエイジが姿を現す。
「くそ、くそ」
さすろうが戻らない。
「アンヘラに治してもらえ。地上へ戻れたならな」
俺は目の前の化け物に顔を向ける。
「ドイメもかかってこいよ。奥底で誰が待っているか知っているよな」
口の裂けた顔がさらに歪むのも青く照らされる。怯えも感じた。
「ここであの魔女に勝てない。奥まで行ったらなおさら……。松本を倒せばひずみが生じる。私は脱出できる可能性がある」
奥底へ向かわぬために誰もが可能性にしがみつく。人と魔物が殺しあう。だけど俺は逃げない。奥底へ望んで落ちてやる。
「死んで羽虫になってもいい」巨体化したコウモリドイメが襲いかかる。
「羽虫にもなれず消滅だ」俺は琥珀がロタマモへ告げたセリフを口にする。
手にする護符はなおも青く輝く。おのれでおのれを守るため……弱い。
「喰らえ!」それでもドイメに突き刺す。「ぐえっ」
払いのけられて、腕が後ろへ90度曲がる。
「ぐわっ」ドイメものけぞる。「さっきよりか細い光なのに……冥界だと松本も強い。恐怖が薄いから、奥へ向かうほど強くなる。そういう敵には」
その体がしぼんでいく。
「ふふふ、この姿のが戦いやすいかも」
ワンピース姿の十代白人少女が闇に浮かぶ。
「エイジが言っていただろ。どんな姿だろうと化け物に変わらない」
俺は華奢な姿に戻ったドイメをにらむ。
「さきほどの姿のが俺は好きだ」
つらそうなエイジの声が背後でした。
「片足が溶けて消えやがった……。ドイメ! 松本を殺すぞ。それ以外に生き延びる可能性がない」
背中を白銀に照らされる。俺の青をしのぐかも。
なおも俺達は憎しみあいながら奈落へ落ちていく。
「松本、耐えるでなく勝て。もうすぐ底じゃ。そこではデモニオ・アドラドの念が実体するかもしれぬ」
「百歳程度の若造め、ようやく気づいたか。俺がのらりくらりとした理由にな」
遠くはない闇から聞こえてこようと、ドイメとエイジに挟まれてどうしろと言う?
「エイジ様。白銀に照らさないでください。私にお任せを」
エイジは深手を負った。司命星剣は人である俺にはただの刃物。殺傷能力は充分だろうけど、俺ならば避けられる(根拠はない)。奪いとってもいい。
いま怖いのは、ワンピースの裾を両手でつまみちょこんとお辞儀をしたドイメ。こいつから覚悟を感じる。闇のなかを抱きつくように駆けてくる。
「うおりゃ!」俺は天宮の護符を突く。
「い、痛い。やっぱり」
それを右胸に刺したままドイメが俺にしがみつく。顔をあげて俺へと微笑む。
「だ、だけどやっぱり捕まえられた。ようやく吸える」
かわいい犬歯が俺の首へ。
かぷっ
「や、やめ……」脳がすっとした。即座に貧血。「やめろ!」
俺は胸に刺したままの護符をえぐる。
「ひっ」ドイメが俺の首を噛んだままでうめく。「や、やめない。エイジ様はやく……」
俺はくらくら。弱まる腕力。それでもえぐる。化け物のくせに肋骨があるのか。避けて下へとおろす。
ドイメが口を離す。薄らいでいる。微笑んでいる。口もとから俺の赤い血とこいつの黒い血が垂れている。
「松本の血は強い。体に入れれば、わ、私は消滅しない」
また咥えなおす。
「魔女にルビーに史乃だっけ? 松本みたいにたらしこむのは性に合わねえ」
またも背後が白銀で照らされた。
「確実に終わらせる。一緒に首が落ちたら恨め」
「ひっ」ドイメが俺から離れる。
ドイメに逃げる機会を与えたやさしいエイジ。俺も逃げろよ……。かすむ目で天を見る。紅色に照らされないかなと。
避けろよ俺。
「うわああ!」
俺は頭を下げる。同時に後頭部に激しい衝撃。頭蓋骨へ水平に剣がめり込んだ。
ここが死地だろ俺。振り向けよ。
「エイジめ」
奪えよ剣を。
「おっと」こいつも離れる。「片脚だと死にぞこないの相手でもきついな。――ドイメ、あと一度だ。それで終わる」
「は、はい」ドイメが健気に答える。「わ、私はきっと大丈夫よ。ま、松本の血を全部吸えば、か、かならず回復する」
「……ドロシー」
俺はつぶやいてしまう。なんで来ないんだよ。見捨てたの?
「ドロシー……、ドロシー! ドロシー!!!!!」
叫んでも上空は紅く照らされない。でも見えた。うっすらとラベンダー色。
俺の手で天宮の護符が破裂するほど紫に輝きだす。なんでこの人が……。
「まいったな」エイジがつぶやいた。
「哲人さん!」上空から聞こえた。
なんで戻ってくるんだよ。あなたも守らねばならなくなった。ほら見ろ、天宮の護符にブルーが上塗りされた。
「ひ、光……」
浴びたドイメが溶けながら逃げていく。俺は異形の最後を何度も見ているからわかる。もう手遅れだよ。あがくために本性をさらせよ。この姿での最後を見たくない。
「ルビーはやく来い」
なおも落ちながら叫ぶ。俺は上へ迎えにいけない。めまいがする。意識がきつい。
「キャンドル……うわ」
ルビーはロケット花火の速度だ。一直線に俺のもとへ。
「きゃっ」
「ぐえっ」
「いたた、キャンドルはいません」
彼女は激突したままで俺にしがみつく。「上で敵を牽制したいそうです。私だけでも送りかえせと命じました。私達のあらゆる敵に対して自己判断で対処しろとも命じてます」
そのままの勢いで俺達二人は落下していく。……青と紫の光は弱まらない。なのに闇へ呑まれていく。
「冥界奥底へようこそ」
デモニオ・アドラドの声がした。「ルビーよ。ただの人がここまで来たのなら、神と呼ばれたことある俺が罰を与えないとな」
息苦しいほどに、闇の密度が濃密になっていく。落ちるスピードがゆるんでいく。
「楊偉天は?」誰にともなくつぶやく。
「奥底へ押しつけた」
デモニオ・アドラドが答える。「奴は罰を受けた身だ。もう逃れられまい」
こいつは邪悪に姑息だ。九尾狐の珠に妨げられ心を読めないふりをしていた。だから何も考えるな。
「逃げられないって私達もかな……哲人さんの首に傷が。ドイメに噛まれましたね」
ルビーが顔をあげる。蒼白な顔。
「ならば癒しを授けないと」
拒否できるはずない。俺のためにこんな場所へ戻ってくれた人の唇を。
これは生き延びるためだ。ドロシーに謝る必要ない……。
「まだいらない」
重度の貧血だろうと。頭蓋骨の後ろがやばかろうと。ドロシーオンリー伝えなくても。
「もうルビーは力をつかうな」
来てくれただけで力になるから。そんな言葉も口にしないけど。
「ふふ、強がる先輩。いつでも求めてください」
ルビーがそのまま俺にもたれる。
「さもないと二人とも終わっちゃう。……やっぱり疲れたままです」
またラベンダーの輝きが薄らいでいく。だったらなんのために戻ってきたんだよ。
「ルビーがんばれ、反撃の始まりだよ」
冷や汗がべとつく俺にすべきことが増えただけ。思玲、大蔵司、ルビーを地上へ連れ戻す。そして。
「楊老師もだ。五人で地上へ帰るぞ!」
その先に何があろうと見捨てるはずがない……。体感的にも闇が重くなってきた。ここに闇が沈んでいる。蓄積している。その中へ俺とルビーは飲まれていく。……はは、たしかに二度と抜けでること無理かもな。
「その通り。だが仲間は多いから暇はしないだろ。エイジもじきに落ちてくる。死にかけのドイメもな」
またデモニオ・アドラドがささやく。
「お前の狙いは何だ?」
なんのため俺達を冥界の底へ送りこむ。
「アンヘラと契約を結ぶためでもあり」
目のまえでワシとジャガーのハイブリッドが実体化する。
「この姿を手にするためでもあった。関わるものなければ叶わぬことだった」
どこかに封じられているはずの邪神と呼ばれた魔物。なのに、もうひとつの体を手にいれたのか。……俺達を利用して。
「楊老師! 禊ぎの時間だ! 俺と一緒にこいつを倒せ!」
叫ぼうが返事は戻らない。ここは虚無ではない。闇が重い。ルビーを抱えるのさえしんどい。そもそも血が足りない。
「楊偉天! いるのだろ! 人に戻るのだろ! 楊……」
無駄だ。声が闇に吸われていくだけ。
「さて。松本とルビーにあらためて罰を与えよう。それは死」
デモニオ・アドラドの声だけは響く。脳へと、心へと。
「だが俺にすがれば、地上へ戻れるかもな」
やっぱり雑魚だった。
こいつも関わってもらえねば、ここにいるだけだ。
「なんとでも思え。まずはルビーを裁こうか。……おいおい松本よ、血が抜けたぐらいでまだ死ぬな。あと二分で意識はなくなる。それまでに決断しろ」
俺は窮地ならば魔物とでも取引する。ロタマモとサキトガを解放したように。思玲は拒もうと……。
「思玲! 思玲! 思玲!」
「関わらせたな」
「ひっ」
真横から声がした。同時に俺が手にする護符が激しく輝く。……ルビーを守る青。
どくん
マジで彼女を狙いやがったな。
「ルビー起きろ」
俺は彼女に声かける。
「起きろルビー!」
その頬を叩く。
「え、……ここは辛い。目を開けられない」
「それが常人だ。ここで尋常でいられる松本が異常」
デモニオ・アドラドが遠ざかった。「俺は雑魚らしいからな。時間をかけ、いたぶっていい」
「ルビー頑張れ。楊偉天の檻はここだった。なのに脱した。何度もだ」
どうせ心を読まれるから口にする。
「なので現れる。それまで頑張るために、やっぱり俺に癒しをくれ」
返事も待たず、彼女の唇へ重ねる。
「……はい。どうぞ」
重なったままで、ルビーは日本語で告げる。
彼女の吐息が飛びこむと同時に全回復。
ルビーはまた意識を失う。
「ありがとう」
俺を守る護符の紫はかすかだけど、そこまで頼るものか。
「あなたを必ず守る。そのためにデモニオ・アドラドを倒してみせる」
「おろかな松本。それを口にしたな」
デモニオ・アドラドから失笑が漏れた。
「俺は身を守るためお前を本気で殺せる」
「や、やめろ、やめてくれ」
本心を読まれぬまえに言葉をつなげろ。
「お前に頼る。なのでルビーを殺してくれ。目を覚まさぬまえに」
悪魔に屈服した姿を見せたくない。くそ、くそ、俺は人でなしだ。最低最悪の人間だ。誰にも顔向けできない。
それだけ考えろ。俺はくそだ。それにたかる虫だ。この闇に埋もれるべき人間だ。なのに逃げだしたい姑息で卑怯者だ。
「ふふ……、恥ずかしがることない。それが常人が持つ感情。ここまでよくぞ耐えた。エイジなど、とっくに気を失っている」
「ま、松本を見つけた……のに回復している。もうちょっとだったのに」
「消滅間際のドイメよ。一方的に契約を結ばれたか弱き魔物よ。俺の伴侶になるなら、主を倒して契約を消してやる。お前の真の姿は美しかった」
魔物め、俺の存在を忘れておぞましき会話をするな。
「やっぱり楊偉天にすがる。楊老師! 楊老師! 楊老師!」
「心を乱すな。ならば望みを叶えてやる。そしてお前は地上で俺の箱を開けろ。鍵は黒いサザンクロス。アンヘラから奪うぞ。さあルビーを差しだせ」
デモニオ・アドラドがくちばしを向けて飛んできた。馬鹿め。
抱く俺の手で天宮の護符がスパークする。激しく青く奥底を照らす。
ルビー・ハユン・クーパーを守る青。これを待っていた。
「喰らえ!」護符を突く。たしかな感触。
「ぐわああ」デモニオ・アドラドの悲鳴が響いた。「……謀ったな。契約を破った罪は重いぞ」
「はは、なんのことだ? 書面にしてサインもかわしておけよ」
俺は笑ってやる。「そんでなルビーが死なずに起きたなら、お前も契約違反だ。ルビー・夏潤・クーパー目を覚ませ!!!!!」
「ひ、は、はい。ごめんなさい」
彼女が瞳をぱっちり開ける。俺へと怯えた眼差し。
「ごめん。守るからまた眠っていい。ハンコも押さぬ間抜けを相手に悶着が発生してるから、また起こすかもしれないけど」
「私を護る青……。闇が軽くなった。耐えられる。私もあなたを守るために!」
か細かろうと再び護符へラベンダーの紫もやってきた。
「楊偉天、俺はここにいるぞ! はやく来い! 置いていくぞ!」
「楊先生、お願いします。あなたの力を見せてください」
ルビーが付け足したとおり、現実は妖術士の魄が頼り。抜けだす方法など見当たらない。でも返事がない。
「楊老師! 禊ぐのだろ! 生き返り、祖国の土を踏むのだろ! 百歳過ぎて死んでも甘えん坊か? そんなだから死者の書に負けるんだ! 俺に負けたんだ!」
怒鳴ろうと、ひひひと笑い声が聞こえてこない。青い光が照らすだけ。
「満足したか。力押ししてやる」
青く照らされたデモニオ・アドラドが姿を現す。
「そして二人とも食う。箱の中の俺は罰で消えるだろうが、この俺は強くなり生き延びる。魔女にも太刀打ちできる」
ドロシーに? ……できるはずねーだろ。俺が守るのだから!
「ひっ」炸裂した青にデモニオ・アドラドがひるむ。
「あの光はなんだ?」
大蔵司の素っ頓狂な声がした。
「しかも松本が怒っている……ようやく迎えに来てくれた! おーい、こっちこっち! 思玲がずっと気絶してヤバめなんだよ。はやく助けてよ!」
デモニオ・アドラドが舌打ちした。その意味は……思玲より強い心の持ち主であるはずなくとも、冥界を自在に行き来できる魔女と俺が合流するから。
ならば餌を撒け。大蔵司の本性を呼び起こせ。
「大蔵司、ドイメもいるぞ! ただし消滅しかけている」
「なに!」
即座に返事が戻ってきた。「すぐに行く。私以外の誰も手をつけるなよ」
「ひ、ひいいい、蹂躙される」
ドイメがか弱く悲鳴をあげた。「で、でもデモニオ・アドラドの性奴隷で何千年も過ごしたくない。エ、エイジ様助けて。どこにいるのですか?」
青い光はなおも照らしている。台湾での服のままの大蔵司が闇をクロールしてやってきた。血走った目まで照らされる。鼻息まで聞こえそう。
「あれ? かわいい子がもう一人いる」
大蔵司がルビーを見た。「だったら邪魔者消さないとね」
その手に楊聡民の杖が現れる。
次回「暗黒の魔なる白き女王」