Cinco 鬼路
0.7ーtune
主に去られたクジラの屍は、腐敗して崩れながら私へ襲いかかってきた。
「チコ。練習だ」
「うん」
金色のブレスで憐れな存在を消してやった。
いまは酸素ボンベを捨て海に一人浮かぶ。照りつける午後の太陽……。死力をしぼり潜ったのに、またも松本とルビーに逃げられた。
ルビーと珠を回収するためクジラに並んで泳いだが、二人はおぼれだした瞬間に消えた。魔女でない第三者のせいだろう。
しかも奴が追ってきた。覚悟はしていた。
――魔女の伴侶。ネクロマンサー。知恵ある魄。アジアの悪魔。あっという間にアンヘラの陣営に追いついたな
「器? 悪魔?」聞きかえしてしまった。
――ああ。どちらもじきにネクロマンサーが従える。ネクロマンサーは松本に盲従する。見限ろうとした相棒に得るものなく、すごすごと逃げかえる。アンヘラのもとへ
エイジのことか。何度も裏切り、くっつきなおす仲だ。驚くことではない。魄も悪魔も先見の明あれば、いずれ魔女となるルビーに服従する。あの娘が私に従わない理由でもあるか。
私は心を閉ざす。もう会話しない。それでも声だけは届く。
――松本は心が強く、すでにアンヘラより経験が豊富。仲間を呼び、死に場で何度も生き延びたから
私も立川で経験させてもらった。魔女の股を舐められるだけはある。私はごめんだ。
――切り札が手に戻れば、反撃を開始する。そしたらアンヘラ達は終わりだ。陰陽士、中国、教会。どの前へ首に縄かけて引きずられたい?
選ぶなら中国か。松本を南へ追撃したサンド達から報告は来ている。東洋一の魔道士組織である上海不夜会は、日本の外へ災いをださぬ名目で、近海で私らの邪魔するだけらしい。電波を乱すぐらいで私とチコには関わってこない臆病でやさしい連中。
実態がそうでないことは知っている。屠殺の東洋。日本だろうと香港だろうと、捕らえられれば二度と日の目を見ることない。それでも教会に送りかえされるよりは、やさしく殺してもらえる。
エイジを見ろ。匿われるため犬となり、処分される間際に逃げだした。人を信じる癖があるエイジは、また繰り返そうとしている。
私らよりあくどく腐った奴らにすがるにはどうすればいい?
案ずるな。私にはチコがいる。
――心を閉ざすな。俺を受け入れろ
ふっ、太平洋を渡る長旅で疲れたのか単刀直入だな。箱に詰められたデーモンめ、誰が開けるものか。私が欲しいのは、松本のポケットにある聖なる珠。叩き割り、隠された龍の破片をチコに食わせる。
――アンヘラよ。お前達は追いつめられている。俺とともにアフリカへ行くのが正解だった。いまからでも遅くない
選択肢に入ってもなかった。笑いを漏らしてしまう。
――よい笑みだ。どうせお前は俺にすがる。だがな、魔女が現れてからでは手遅れかもしれない
惑わしにもなってない。聞いてやるか。
「貴様だけでは夏梓群に勝てないようだな」
――どうかな。アンヘラの小さな息子より強いのは確かだ。おっと戻ってきた。よく考えておけ
邪悪な気配が去っていく。人見知りであるはずない。
また海原に私だけ。陸地はどこにも見えないが見当はつく。泳ぐつもりは更々ない……。
私は愚かだが馬鹿ではない。箱入り悪魔の狙いは私とチコを侍らかすこと。ミレニアムの魔女に立ち向かうため。
ペガサスを従える夏梓群。ならば白だが、会ったことない私は黒く感じる。視覚を消されたサンドは「なんであれ別次元」を懸命に伝えた……。なぜそんな奴と同じ時間に生まれた。魔物よ何故、こんな時間に復活しようとする。
「マドレ。魚をたくさん食べた。大きいのも小さいのも」
チコが海から巨大な顔をのぞかせた。おおきな目。あどけないままの瞳。
「おなかいっぱいにならない。おっきくなってブレスしたからかな」
「ちいさくなって肩に乗れ。もうじきハカが迎えにくる」
「ハカおじさんはエイジ様を乗せてあげるの?」
「私が命令すればな。チコは意識を集中しろ。松本どもを探せ」
「もっとおなかがすく」
「我慢しろ」
チコから切なげな気配が漂う。甘やかせたい。ずっと大きくなるために、たらふく食べさせてあげたい。
「……僕のブレスはどうだった?」
「海のなかではまったく駄目だ。だが飛行機を壊したのはまずまずだった。もっと練習して、鋭い吐息にしよう」
目前の敵だけ一撃で倒せ。虐殺のブレスはいらない。
「マドレに誉められるとうれしい。だからがんばる」
「尻尾が海水につかっているぞ。私の頭に乗れ」
「うん」
半裸の私に海水は冷たい。でも波に漂うだけで、私には贅沢すぎる揺りかごだ。
「見つけた」チコが尻尾を震わせた。舌なめずりした気配。
「でかしたぞ。松本とルビーのどちらだ?」
「ルビーの血の匂い。ほかは分からない」
チコが断言してくれた。これは勘ではない。龍による狩りが始まる。難敵との戦いを経験して頼りになりだしたチコ。
「結界を張ってないのか」
「うーん……ごめんなさい」
怠慢か疲労かおびき寄せる罠か。ずる賢い松本がいるなら肉弾戦を選べない。
「さっきより細く丁寧に強く放て。かつ素早くだ」
「珠があったら消えちゃう」
「案ずるな。昼間のチコでは一定以上を一発で消せない」
それに松本も加わる。だが喰らうことはできる……。
「……チコ」
「マドレなに?」
「私のまわりに巨大な力があったことに気づかぬか? メキシコでチコがおびえた力」
「ううん」
追いつめられた私の作った妄想か。そんなはずないが、そうであってくれ。
「またチコは大きくなれ。腹が減ると不平はこぼすな」
「マドレにおでこを叩かれたくない。でもおなかはすく」
「はやく私を乗せろ。この五秒のロスを取り返せなくなることもある」
「わかった。ふん!」
チコが海原に飛び降り体をふくらませる。私は飛び乗る。サンドが戻ってきて、荒れた道の終点でタクシーを降りたエイジを伝える。
「そっちは手伝わない」
奴の言葉通りなら嫌でも合流する。
***
結界が張ってあったとしても、及第点を与えてよいブレスで部屋ごと消した。惜しむらくはホテルを貫通したこと。銃弾が体内に留まり深刻なダメージを与えるように、エナジーを一点に集中させろ。教えるのが難しい。
……銃か。ヒューゴのスペル――live ammunitionのLとA。どうせルビーの結界に砲弾も効果ない。松本の護符にも。チコのブレスもあの二人に致命傷は……のはずだったが、予想以上の吐息。さすがにあの娘も終わったかな。私達とパーティーするよりは結末として及第点だろうか。
二次被害を恐れて人はしばらく現れない。私は直線に溶けた室内へおりる。火災は発生しなかったので煙もなく、空が向こうに見える。十秒前の面影が残らぬ廃墟。素足が焼ける。サザンクロスを握る。
「死んだかな」チコが肩におりる。
「どうだろう」
ルビーの護りがかかった衣服が残っていた。誤爆ではなかったが、これを消せぬでは金色の龍の吐息とは言えない。
「裸で抱きあっていたなら跡形もない。そうでなければ反対側まで飛ばされた。ルビーの匂いは?」
「おびえた人の気配が多くて近すぎて難しい」
「珠も見当たらず……チコは建物の裏を見てこい」
「うん」金色の翼を震わせて向こうの空へ飛んでいく。
……ここにいたのは間違いないが。
「ヒヒヒ、激しすぎまっせ」
「アンヘラもエイジさんも単独しすぎ」
「私が服と靴を手配しましょうか」
役立たずの主従トリオがやってきた。
「ドイメは聞く前に用意しておけ。ハカはチコを手伝え。ヒューゴはこっちへ来い」
「のんびりはやめようね。さすがにこれは、陰陽士もチャイニーズも怒りだす」
ヒューゴが杖でFをなぞり、浮かびながらハカから降りる。
「でもようやく日本におさらば……服が残っている?」
ヒューゴは困惑している。ハカとドイメは消える。サンドはエイジのもとへ向かったかもな。また不吉なイベントをするつもりだろうが、そちらの情報も大切だ。
「高度な護りの術ならブレスに耐える。だが身にまとった状態での話だ。こいつらは飛ばされもしない」
そうは言ってもぼろきれに近づいているが。
私は試しに剣で裂く。やはりルビーの堅固。だけど違和。
「しかもたっぷり全てに……。はは、意外に几帳面で衣装持ち。さすがに下着にはかけないから焼けて消えたのは残念。アンヘラも服に護りをかけるべき……カジュアルすぎる。あの子の好みのファッションでない。これはルビーの服ではない」
ヒューゴが私に顔を向ける。
「つまり魔女がいた。僕には勝てない。島で見たあの子はかわいすぎたけど、僕のスペルを笑いながら扇だけでかき消した。……意図的に残された視覚は、術なしで空に浮かび、白銀を所持し、覆いつくすほどの螺旋。あの真忌を瞬時に封じた。いまさらどうやれば逃げられる?」
ヒューゴがまくしたてる。もともと逃げ場ないこの子は、使い魔と一緒に私の影へ隠れてばかり。弱者を一方的に殺すだけ。
それでも仕方ない。ヒューゴにだけは命の取り合いを経験させてはいけない。
「おびえるな。夏梓群がいたなら反撃されたはず。松本だけがいた」
これらの服は、あの迷彩柄の小ぶりなリュックサックに入っていたものだ。
「そうか……。はは、ルビーに着替えさせようとして盛り上がり、二人とも裸になったところで消された。サンドはルビーの入浴シーンも保存してあるよね。当事者がいなくなったのだから僕に見させてよ」
「誰が貴様などに」ルビーが真顔で怒鳴り返してきた。
視覚が続く。茂みに潜むエイジ。森の中のスペースでしゃがんだまま抱き合うルビーと松本。目線の先には、東洋の老人が浮かんでいた。
「エナジーが杖を持っている……。加勢するの? 僕は嫌気が差してきた」
ヒューゴが首の後ろに両手をまわす。
「私もだ」
箱の中から言われたとおりに知性を宿す魄。
「ここで解散するか? ヒューゴは役立たずコンビを連れてアフリカにでも行くがいい」
「僕はマドレといる」
「私はヒューゴのマムでない」
「やさしくて強いママがどこかにいないかな。自分の息子におびえて子供部屋に火をつけないママが」
「昔話はやめろ……」
チェック柄の布袋だけが、きれいなままで焼け残っていた。魔女が術をかけたものに違いない。
「なにが入っていると思う?」
私は紐を剣の先にかけて持ち上げる。表面にトラップはなさそうだ。
「スキンかピルか宝物」
ヒューゴが自分へと杖をなぞる。
「エイジさんと合流しないとならなくなったね。ハカ達を呼んでくる」
その姿が消える。
呼びつける手段ならいくらでもあるのに。私の前でないなら埃でもコカインでも吸うがいい。私はお前のマドレではない。
龍が潜む珠は松本が持ち歩くとしても、この袋の中には匹敵するものがあるかもしれない。エイジなら解除できるだろうか。
――魔女の罠をか。できるはずない
一人になるなり声がした。また心を閉ざして……封じられた箱を自在に動かせる魔物へ聞きたいことがあった。
ルビーと夏梓群、どちらが強い?
――一対一なら夏梓群が蹂躙する。そうでなければ松本哲人が味方した者が勝つ
あり得るかもな。それでルビーは私から逃げおおせた……。
私と夏梓群、どちらが強い?
――まっとうな勝負で勝てるはずない
当然か。成獣になった龍を単身で倒した娘に太刀打ちできるわけない。
分かりきったことを何故聞いたのか。それは……まっとうでなければ勝てる可能性を知りたかったから。
――俺こそ知りたい。なぜアンヘラは魔女との戦いを欲する?
「貴様は消えろ。私に封を解くことできぬし、貴様を従えることもない」
忌むべき声で伝え、心を閉ざす。
救急隊のサイレンらしきが複数近づいてきた。酩酊中のヒューゴを一人にするのはうまくない。
「おい箱入り。ジャンキー坊やが罪を重ねるまえに呼びにいけ。そしたら契約を考えてやってもいい。虱の脳みそぐらいにはな、ははは」
――私がお前とだけ接触すると思ってないだろうな。チコを誘ってもいいのだぞ
勝手にしろ。あの子は私の言葉しか聞かない。
――私の力がどれほどあるか知ろうともしない
語り口が雑魚だ。夏梓群より弱そうだな。……連中よりはどうだろう。
「松本から珠を奪えるか? 魄を殺すでもいい。もしくはルビーを捕らえる」
――契約を結ぶなら、まとめて殺してみせよう
「いいや。箱に入ったままでできるかを聞いた」
沈黙が流れる。チコはまだ戻らない。
――契約の判断材料として俺の力を試したい。そういうことにしよう。お望みのどれかひとつを叶えてやる。たやすく、フフフフフ……
立ち去ってくれた。
封じられていようと念だけで戦えるというのか。それほど力ある魔物が私を望み媚びようと、契約するはずない。手柄は横取りしないから、勝手に連中を痛めろ。……だがな、龍の欠片をくれるなら考えてやってもいい。蠅の目玉ぐらいには。
私もここから立ち去らないとな。ようやくチコが戻ってきた。
「マドレ。ルビーは見つからなかった。でも雷が鳴った」
「スコールが来たら体を洗えるが、おそらく雷術だ」
「マドレも手から雷をだせる。でも使わない」
「チコも含めて役立たずが空をうろついているからな」
地烈雷も危険。強力な術者はおのれの使い魔も消してしまう。サンドを巻き添えにするわけにはいかない。
「再びエイジと合流する。役立たずのハカに乗ろう」
「わかった。眠いのに、おなかがすいて眠れない」
私は鬼になれない。この子の駄々を無視できない。
「チコも冥界へ行くか? 異形がたっぷりいる」
「いいの?」
「龍は幼いときはそこで育っているかもな」
本当の母親とともに。
チコのそいつは、はるか昔に成敗されたのだろう。残された卵は使い道ない宝として邪険に保管され続けた。私に逢うまでチコの命は生き続けてくれた。
「怖そうだから行きたくない。でも海のずっと向こうで大きい鳥が飛んでいた。そいつを食べたい」
「今後は海上で暴れるのは避ける。冥界より怖い人達が本気で怒りだすだろう」
一連のブレスを見て、真の脅威とみなしただろう。誰にも負けぬようにチコはもっと強くならないといけない。……あの魔物に聞き忘れたな。
私とチコが組めば、夏梓群とどちらが強い?
コカインが抜けただろう主を乗せてハカが戻ってきた。飛び乗れば、ドイメが愛想笑いを浮かべてメンズのブランドジャージ上下を差しだしてくる。
「かわいい魔女の怖いポーチは?」
まだヒューゴはハイだった。にやけた顔で聞いてくる。
「姿を隠せ。これはお前に預ける」
布袋をヒューゴへ放る。「サンドいるか?」
尻尾を立てたガラガラヘビが現れる。
「エイジの状況は?」
「天竺鬼畜大鼠の奪いあいの最中だが正直厳しくなってきた。仔細は省くが、ルビーに取られたらゲームエンドになる」
エイジ本人の聴覚を聞かせてきた。
アジアの悪魔がルビーに従う。箱詰め悪魔の予言が現実味を増してきた。ふふっ、そしたら私らもルビー・ハユン・クーパーの配下になるか。やがてあの子も鬼の道を歩む。
若い娘に頭を下げるなど、私とエイジの選択肢にない。私ら以外の誰も、ヒューゴを仲間に選ぶはずない。
「道案内しろ。来賓がいるかもしれぬが無視しろ」
「ゲスト? 味方なの」
ヒューゴが姿隠しのイニシャルをなぞりながら聞いてくる。
「さあな」と私は答える。いつでも仲間になってくれるらしいが、頼るはずがない。私にはおなかをすかしたチコがいる。いつの日か魔物を……。
私といるチコを怖がるうえに、チコといる私を恐れる魔物を、いつの日か箱ごとエルケ・フィナル・ヴェラノに食わせてやりたい。
サンドは姿をさらしハカの数メートル先にいる。その向こうの生い茂った山中で、邪悪な気配が爆発した。すぐに消える……。口先だけでなかったようだな。
つぎのプレイランドはまたも冥界か。戦いがあるならチコを連れていけない。
「アンヘラ様……」
ドイメがおずおずと手を挙げていた。失態を重ねていたな。挽回の最後の機会か。そんなものはない。
「追え」
私は命じてやる。どうせ箱入り魔物のティータイムだ。
「私だけですか?」
たしかにドイメが本性を晒そうと、松本とルビーが組めば勝てまい。松本の護符が完璧に穢れるでもしない限り、血も精も吸えない。
「二度言わせたいのか?」
「と、とんでもこざいません」
ドイメも冥界へ消える。けなげに戦ってもらうため、私はサザンクロスを握る。ハーフ淫魔への加護を消す。数百年もしたらよみがえるだろ。
新月前だから月は太陽にひれ伏している。夜はまだ先。明ける朝ははるか遠く。
次回「生きろ」
年明け再開予定です