二十 魂魄
「もう操られない」
大蔵司の手に神楽鈴が現れる。
「なんて宣言できないって。こいつは人? 魄? ……何者?」
俺に分かるはずない。楊偉天は実体を持ち、地面へ引きずられなくなっている。黙ったままで冥府大蚯蚓から数十センチ上に浮かび、俺達を見つめている。百歳を過ぎた老人の姿をした得体しれない存在が、俺の反応を味わっている。
「心を強く持て。それだけで傀儡にならない」
「松本のようにね。わかった」
大蔵司が率直に言ってくれた。……楊偉天の狙いは俺。その目的は不明のまま。土彦は楊偉天に従っている。頼りにすべき大蔵司はフォローにまわってこそ無敵。だとしても神楽鈴が楊聡民の杖を上回るはずない。そして生身の俺が楊偉天に勝てるはずない。手にする木札は生前の妖術士に通用しなかった。
ドロシーはもう回復しただろうか。頼らざるを得ないか。……ちょっと待て。
「冥界に誰もいない。いまのうちに思玲をサルベージしよう」
そしたら逃げる。
「わかった。私の手を握って」
素直なだけで何も考えてないような返答に、言っておいて躊躇してしまう。
俺達がいなくなれば、楊偉天はドロシーを襲うかもしれない……。でも賢い白馬は、俺と離れることを危惧しなかった。俺の身を案じただけ。結界をまとい気配を消し空を羽ばたけるハーブには、ドロシーだけなら守りきれる自負がある。
ならば俺は潜水夫となる……やっぱり真の闇を紅色に照らす人がいてほしいような。
「即断できぬのは松本の長所であり短所。冥界へ向かいたいなら手助けしてやる」
楊偉天が杖を上げる。
「思玲に合わせてやろう。幼い姿に戻った我が愛弟子にな、ひひひ」
そして下ろす。
俺達と楊偉天を挟んで土彦の頭上に闇の穴が現れた。……不吉すぎるワームホールを見ながら思う。楊偉天は冥界送りもできたのか?
おそらくだけど、より忌むべき姿となり可能になった。
大蔵司が俺の手を握る。
「ラッキー。ホールインしようぜ」
飛びこもうとするではないか。
「やめ、やめろ」俺は手を払いのける。
「ひどくね?」大蔵司だけインツゥーザホール。
黒い穴が塞がる……。俺と楊偉天だけになる。土彦もいるけど無言。空中でのたうち回りもしない。
「ひひひ、いまのは冥界の奥底への直行便だ。異端の力をもつあの巫女でも、戻るのは至難だろう」
仲間は誰もいない。ドロシーも大蔵司も史乃もいない。九郎も陳佳蘭もいない。魂が削れて幼い姿に戻った人がいるはずない。
「そこに思玲がいるのか?」
怒るなよ俺。こいつにかなわないのだろ。
「もう一度開けろ。俺も向かう」
思玲を人質にした奴へ心震わせずにいられるか。だけどこいつは感情を見せない。初見を思いださせるほど不気味。
「儂の邪魔した罰として思玲を送った」
楊偉天が更に浮かぶ。
「公平を保つため松本こそ送らねばならぬ。だが梓群の意識はまだ戻らぬ。もう少しだけここにいられる。儂も松本も」
俺を見おろす。そして杖を上げる。
「この野郎!」
術を発動させるな。飛びかかれ。空へ。ただの人が?
楊偉天が杖をおろす。俺の体がぴたり止まる。……たぶん香港のシノが使った他人の筋肉を制御する術かな。全身へと完璧。でも呼吸はできる。熟達者のなせる技。
「ひひひ、儂への恐れが怒りを上回っている。……よいか、儂は単なるかすれた実体じゃ。まずは聞け。生前の儂が恐れたのは劉昇と沈桂栄。復活した儂が恐怖するのは、目覚めてしまった梁勲の孫娘」
そんで俺はたやすく殺される存在。だけど生かされている。ドロシーの推測とおりに雑魚だから。
「梓群は滅茶苦茶だ。冥界だろうと追ってくる」
心の声で告げる。ドロシーは俺に教えてなかったけど、どうやら生きた人間のままで土彦を躾けに冥界へ向かったらしい。でもサルベージできる大蔵司が必要。
「教えろ。貴様はどうやってその姿になった?」
いまから何が起きるにせよ、それだけは知らなればいけない。そしてこいつは教えてくれる。
「齢が百を越えようと自己顕示の欲求が絶えることない。死して魄だけになろうと、むしろ聞かせたい。聞いてもらいたい」
露泥無みたいにくどくどうざい。もったいぶるうちに、お前の怖れる存在が回復するよ。俺の頼る人が、おのれの鼓動の停止を怖れることなく戦いだすぞ。
「その目。松本は儂を卑下する。だが儂の発明を教えてやる。ひひひ」
楊偉天がしわがれた笑い声を立てる。杖を持たぬ左手をひろげる。
「魂が霊ならば、魄は異形。ならば逆をすればいい」
その手に現れたのは木箱……。
「二度とそれを開けるな」
俺は人の声をだす。筋肉への呪縛を解く。
「恐怖を上回る怒り。これぞ松本哲人」
老人がうなずく。「儂は四玉の器を九箱こしらえた。梁勲の孫が持つ以外に残るは、これが最後」
「それはこの世にいらない」
俺は土彦の頭上を歩む。浮かぶ奴へと近づく。
人を異形に変える箱。俺達を苦しめた器。……ドロシーと逢わせてくれた箱。なおもドロシーが持ち続ける壊れた器。
泥まみれの木箱が楊偉天の手を離れ、俺の前へ近づく。
「それから忌むべき気配が伝わるか?」
俺を見つめる。
「儂はその箱に大蔵司の体を借りて呪文をかけ直した。ゆえに中の四玉は人を四神獣に変えられぬ」
「……ならば何を起こす?」
浮かぶ箱越しに尋ねる。答えはおおよそ分かっている。それで生じた存在が目の前にいるのだから。
日差しが強い。全身に汗を感じる。リュックサックは俺の背にあるのだから、後で着替えよう。口の中には土。うがいしてさっぱりしたい。同意の上の間接キスこそ至福。ドロシーの飲みかけのミネラルウォーターを横取りしちゃおう。妖術士の実体ある魄との対峙が終わったら。
大丈夫。この場この時間を凌いでみせる。
「蘇生」
間を開けて楊偉天が言う。
「だが叶わなかった。魂は戻らず肉体だけが来た。儂は中途半端なものになった」
狂った妖術士め。百歳を過ぎて弟子達もいなくなり、なおも今の世に現れたいのか?
その理由を聞くことはない。それを楊偉天が待ち望んでいると感じるから。……殺さぬ理由を尋ねられるのも、奴は待っている。俺の生死を握っている余裕。それこそを感じる。だけど恐れている。俺でない人を……。
俺を愛してくれる人を怒らせたくない。それだけが、ちっぽけな俺が生かされている理由なのか?
「ひひひ、質問は終わりか? ならば儂の番だな」
「まだある。なぜここに来た?」
「昇の遺品を漁るためだが、死を持ってしか外せぬ罠にあきらめた。代わりに幼い少女を見かけた。面影は残っていた」
思玲はこいつの存在に気づき、劉師傅の離れに逃げた。……ここにドロシーが現れると、陳佳蘭でも言ったのかな? それで楊偉天に不安がよぎった。
「ドロシーへ電話したのは、賢い彼女の所在を探るためだ。お前はまだ大蔵司のなかにいた。ドロシーが俺と合流したことを知り、ここへすぐ現れると感づいた。慌てて四玉の箱を試した」
そして魂なき人になった。だとしても知恵も感情もたずさえた魄。……魂が霊であり心ならば、魄は乗り物であり異形。いまの楊偉天は魔物だ。本当の忌むべき存在。冥界を行き来できるように、人でなき力を更に手にしたのだろう。その余裕も感じられる。
「ひひひ、たしかに賢かった」
やはり余裕の笑みをこぼす。「だがあの娘は、儂の貴重な書物をかすめた盗っ人だ」
「それは梓群ではない」
間違いなく犯人だけど当然かばう。
「いいや。おとなになった梓群だ。……あの子は暗かった。魔道具や書物に向ける目のみ輝いていた。読み解き妖術を探ろうとした。大量に人を殺める術を生みだそうとした」
「ざけんなよ……」
否定しきれない。でもいまのドロシーは違う。
「お前が知らないことを教えてやる。彼女は海神の玉を輝かせた」
「さもあらん。あの娘は魔女だ」
「違う! その考えは古い。夏梓群は慈悲深き英雄だ」
異形を従えるため珊瑚を輝かせたと言いたいのだろう。でもドロシーは慈しみの心で輝かせた。それを細かく説明できない。輝かせられなかった思玲が比較対象になってしまうから。生粋のソルジャーだからだろうけど、式神の扱いは傍目で見てもキツかった。それは琥珀にも……。
ぐちゃぐちゃダークストーリーの話題になりそうなのは避けよう。楊偉天こそ当事者だ。
「ひひひ、あの娘が何者であるか。それを知る必要ない」
楊偉天こそ避けてくれた。
「儂が知りたいのは、あの娘は儂の邪魔する敵か。もしくは協力しあえる仲間か。それだけじゃ」
俺は空を見てしまう。ハーブはなおも来ない。それに乗る人も現れない。大蔵司はどうなった? こいつに味方などいるものか。
「ひひひ。なかなか来ぬな。だが死んではいない。真の敵も現れていない。異形と化した儂には分かる」
「真の敵?」
「儂のではない。梓群の敵はここにいない。まだ」
「……ドロシーが来ようとお前の手助けにならない」
「松本を島に置き去りにしたからか? だが生き延びた。やはりお前は誰よりも丸茂史乃と相性よかった。夏梓群よりもな」
「救ってくれたのはその梓群だ! 俺と史乃は、毒もつ飛び蛇やはぐれ陰陽士、礒女にまで襲われてぎりぎりだった」
「刀輪田と真忌のことか」
楊偉天はなんでも知っている。「儂も湖に眠る忌むべき水竜を起こそうか悩んだことある。だがやめた。あれは知恵なく欲望の塊。なので暴走する。それでは松本や思玲に勝てぬ」
俺も評価されていたのか。……たしかに俺は真忌を倒した。でも復活する。というか議論がずれまくっている。本題はなんだったっけ?
「ひひひ、松本も知識欲の塊だな。死者の書はどうなった」
「南京に戻された」
あれ? ドロシーは書に囚われなかった。というか、楊偉天が論点をずらしまくっている。「もういい。俺を思玲と大蔵司のもとへ送れ。そしてお前はドロシーと関わるな」
俺が冥界へ向かうしかない。なんであれ俺の責任だ。
「闇の中で松本を説き伏せる手はずだった。だが光射す地で依頼しよう。――松本よ梓群を説得しろ。儂の協力をさせろ」
堂々巡りに見えて、徐々に核心へ近づいている。だけど、この無益な問答は打ち切りだ。怒って俺を冥界に送れ。
「断る」
きっぱり言おうが俺は殺されない。だってドロシーが目を覚ました。彼女の危険は過ぎたらしく、より危ない俺の手に火伏せの護符が現れた。また暗闇に行くとしても、かなり安心できる。
「しかし護符がよみがえるとは不可思議。あり得ぬことだ」
楊偉天が俺の左手を一瞥した。気づくなよ。
「ならばあの火伏せの札ではない……。松本のものではないな。やがて愛想を尽かし、お前の手に現れなくなる」
どきっ、びくっ、むかっ……
またも天宮の護符を思いだす。ドロシーがさりげなく言った、俺を守るのに弱まった紅色の光……。
もしかして様々な護りを授かったからですか? 目の前にいる智慧ある存在に尋ねたい。明白すぎて必要ない。
「木札が立ち去るのは知っている。でも俺に呆れてではない。そしてその日まで、俺と梓群を守ってくれる」
冥界奥底へ送ってもらうために、楊偉天と決別できないのが悔しい。だとしてもムカつくことを言われたから、ちょっとは言いかえしてやれ。
「お前は生前の罰として、知恵を持たされさすらう魄だ。そんな存在の手助けを、ドロシーはしない。儂に魂をくださいだと? 神の如きおぞましい行為に、彼女が手を染めるものか。お前が生命を持つことは二度とない。人でなきものとして過ごせ。冥界に引きこもれ」
……言い過ぎたかも。はやくドロシー来ないかな。
「ひひひ、争い少なく進めたかったが残念じゃ」
楊偉天は杖を掲げない。
「もはや儂は龍もいらぬ。ただただ温かい肌を持つ人に戻りたいだけ。そして祖国へ帰り、そこで静かにもう一度死にたいだけ」
「……それが赦されると思うか?」
俺の生死にかかわる言葉だろうと、追加で発せずにはいられない。
「お前は何人殺した?」
「松本が殺したのは儂だけか?」
「……ああ」
「人の灯を消したことある松本に聞きたい。人を殺めた数多ければ赦されぬのか?」
楊偉天は俺を見ている。その目に恨みを感じない。ならば死が近づこうと正直に答えざるを得ない。
「刑罰は罪の重さと数で決まる。だが忌むべき世界で誰が律する?」
「敵味方にわかれ、おのれらで罰する」
さすがの回答だ。
なんで魔道士は仲間同士で争うのだろう
史乃の疑問を思いだす。
「韓国のキム先生がまさにそれを実践したよ。……それで俺が罰せられたか分からない。だけど俺は自分を赦した。なので悔やんでない。でも悲しい」
「悲しい?」
「ああ。自分を憐れむ。あなたはそんな感情を持ったか?」
鳥のさえずりが聞こえた。この林にいるのは、忌むべきものだけではなかったか。
「冥界の奥底の更に地の底で、儂の魂だったものは嘆いているかもしれぬ。だが魄である儂は、人を異形に変えたことに懺悔を覚えぬ」
楊偉天の魂の器であった存在は、俺を見つめたままだ。
「松本は、最愛の梓群の殺した数を知っているか? あの子はいまも悔やんでいるか?」
「俺が梓群の過去を知る必要ないし、梓群には今と未来しか存在しない」
きっぱりと言える。
「彼女の贖罪はとっくに終わっている。俺がそれに気づかせて、本当の笑顔を浮かばせる」
楊偉天はなおも俺を見ている。風を感じた。この林がずっと凪いでいたことに気づく。
「老祖師おひさしぶりです。そんで哲人に伝言」
九郎の声がした。「ドロシーはハーブのおかげで復活。俺はドロシーに祈ってもらって回復。だけど陳ばあやは、かなり重傷。『癒しをすべきかな? でも哲人さん以外にしたくない』とのこと。はやく返事を寄こせ」
なんなんだよ。貴重な時間がこんなことで……。俺もドロシーと同じだ。彼女のキスを独占したかった。だったらドライに告げろ。
「思玲と大蔵司が冥界に囚われた。俺は救出へ向かう。楊さんは命に別状ないのなら後回しにして、ドロシーは楊偉天と語れ。そして判断してと伝えて」
「あいよ」
風が立ち去る……。
老人が最後の時間を祖国でやり直したい。それがわずかであろうと事実ならば――それだけのために蘇生したいならば、俺には決断できない。
「ひひひ、その冷淡が松本の強さか? 違うな。無情になりきれぬのが強さ。それを殻のままの儂には見せぬか」
楊偉天が空を見上げた。
「儂と梓群の望みは近いかもしれぬ。だが協力せねばたどり着けまい」
「それこそがドロシーが決めることだ。彼女を怖がらず二人きりで語りあえ。そのために俺を冥界へ送れ」
ドライな俺を頼るな。
こいつに関わるなよ。はやく倒せよ。
そんな言葉しか言えないから。
「強き魂を持つ松本哲人。儂を倒せた者――儂をつなぐ者よ。だが貴様は冥界の奥底を知らない」
いきなり楊偉天が杖を掲げる。
「ただの人など片時も存在できぬ場所。松本でも心がくじけるだろう。忌むべき儂や大蚯蚓でなければな。……魄となって得た力など不要。人に戻るだけ」
そして杖をおろす。奴の体が暗くかすんでいく。
「ひひひ。だが儂を殺した者に再び嫌がらせをしよう。冷酷な松本を二度と梓群に会わせぬ」
どくん
俺の鼓動が青ざめた。
「やめろ。マジで怒る」
ドロシーと離れるものか。なのに木札は静かなまま。
「不釣り合い」
「はあ?」
「不均衡は始まっているのだからあきらめろ……。貴様と違い、あの子は儂の知と智を尊んでくれる。……梁勲などでなく儂の孫だったら、力になってやったのに。欲するもの全てを授けてあげたのに。そう思わせる子だった。
貴様に独占させるものか。儂を頼らせる」
俺の体もかすんでいく。また風を感じながら……。紫毒を浴びたみたいに具合悪い。
「『つい!』だとさ、多国語混ぜやがって混乱させられる。すぐ後ろにいるのに伝令させやがるし……チチ?」
巻きこまれた九郎も悲鳴をあげながらかすんでいく。それでも風となり逃げようとする。
その向こうに空に浮かぶ白馬が見えた。騎乗する人の右手が紅色に……天宮の護符だ。こっちへと投げる。俺を守るため激しく輝いているじゃないか。だけど遅い……。
「ド、ドロ――」
俺の実体は眩暈とともに台湾山中から消える。
次章「0.5ーtune」
次回「異境」