~漫画の中に入れるトローチ~ 薬師奇譚
病は気から――。
私は正にその言葉の通りだと思います。
ここは私が営む『すこやか薬師堂』、現代社会に病んでしまった皆様を健やかにするお手伝いをしております。
私が治す病は体でなく心の方。
しかし誤解なさらぬよう。
私は免許を持った医師ではありませんし、資格を持った薬剤師でもありません。
ですので、処方する薬は医療用ではありません。少し不思議な効果を持った特別なお薬です。
カウセリングをした後で、それぞれに合ったお薬を処方して健やかになってもらう、それが私の仕事です。
すこやか薬師堂は一切の広告を出していません。いらっしゃる患者さんは紹介や口コミで訪れます。
今日の患者さんは、三十代のワタナベさんという男性でした。
勤める会社の上司同僚部下に対してストレスが大変溜まっており、カウンセリングの結果、私は彼をイエロー(要治療群)と診断いたしました。
「先生、なにかスカッとする薬はありませんか? 俺、このままじゃむしゃくしゃして上司をぶん殴ってしまいそうなんです」
ここを訪れる会社員の患者さんは、皆さんこのようにおっしゃいます。
「スカッとですか?」
「はい、嫌なことを忘れたいんです」
「なるほど、どのくらい忘れたいですか?」
「嫌なこと全てです! 何もかも忘れたい!」
「ワタナベさんは何をしているときが一番至福ですか?」
「俺は漫画喫茶で漫画を読んでいるときが一番幸せですね」
「ほう?」
「漫画を読んでいる時間だけは、その世界にどっぷり浸かって全てを忘れることができます」
「なるほど。ちなみにワタナベさんは、どんな漫画がお好きなんですか?」
「今は週間チャンプのマジLOVEエマージェンシーに嵌っています」
「マジLOVEエマージェンシー? ふむ、その漫画は一体どのような内容なのでしょうか?」
「一言で言うとラッキースケベ満載のハーレム漫画です」
「ふむふむ、それがワタナベさんの理想なのですね?」
「当たり前ですよ! 美少女に囲まれて嫌がる男なんているはずがありません!」
「分かりました。それではワタナベさんにはこれを処方いたしましょう」
机の引き出しを開けた私は、トローチの入ったビンを取り出しました。
「それはなんですか? ただのトローチに見えますが……」
「これは漫画の中に入れるトローチです」
「ま、漫画の中に入れるトローチ!?」
ビンの中のトローチを食い入るように見つめるワタナベさんに私は言います。
「はい、このトローチを口に含み、中に入りたい漫画のことを想いながら寝りに付けば、その世界に入ることができます」
「本当ですか!?」
「初回は無料で差し上げます。騙されたと思って使ってみてください」
私はビンからトローチを一粒取り出してワタナベさんに渡しました。
「わ、分かりました。今夜、試してみます」
翌日、彼は大喜びでした。仕事が終わった後に急いで薬師堂に来るくらいです。お礼のケーキも頂きました。
漫画の世界に入った彼はマジLOVEエマージェンシーの主人公となり、憧れのヒロインたちと直に会ってラッキースケベな体験をたっぷり堪能できたと興奮気味に語っていました。
これでワタナベさんはより一層仕事に精を出して、すこやかな日々を送ることができるでしょう。
それから一週間後のことです。
「先生、処方する薬の量を増やしてください」
私は首を振ります。
「週に三つが上限です」
「お願いします! お金ならいくらでも払いますから!」
「ダメですよ、ワタナベさん。これ以上は危険です」
「……」
納得いかない顔をして診察室からワタナベさんは出て行きました。
そのとき、私は彼の表情の変化にもっと注意を払うべきでした。昼食を取って診察室に戻ると、机の上に置いてあったトローチのビンがなくなっていたのです。
犯人はワタナベさんでしょう。私の留守を狙って空き巣に入ったのです。困ったものですね。
それから一ヶ月が経ちました。ビンに入ったトローチがなくなる頃ですが、ワタナベさんは薬師堂にやってきません。
ひょっとしたら薬に頼らずとも折り合いを付けられるようになったのかもしれん。それが一番良いことですから。
私は診察室の椅子に座り、本日発売の週間チャンプのページをパラパラと捲ります。ワタナベさんがオススメするマジLOVEエマージェンシーを読んでみようと思ったからです。
するとこう綴られていた。
『休載のお知らせ。マジLOVEエマージェンシーは作者急病のため、しばらく休載となります』
私は悟りました。
おそらくこれが来ない原因でしょう。
トローチのオーバードーズ(多量服用)は次元乖離症候群を引き起こします。
そして、漫画の中ではこの世界と同じように時間は一方向で流れています。現実世界とは違い捲ったページは戻せません。
今頃、ワタナベさんは世界の果てともいえる真っ白な世界で叫んでいるのでしょう。
彼が助かる術があるとすれば作者が続きを描くしかありません。
私は作者さんの回復を願うばかりです。