愛する彼女は私の家に住んでいる。彼女に黙って仕事をサボり出来心で変装して家に帰ってみたら彼女は私の事に気づいてくれない。それどころか私を「不審者」と言って警戒してくる。
閑静な住宅街を友人に借りたスーツを着て歩く。スーツなんて着たのはいつぶりだろう。締めたネクタイが首を圧迫している気がする。肩が凝る。変装用の伊達メガネ、慣れるにはまだ時間がかかりそうだ。
本日の天気は晴天。冬の空ってどうしてこう高く感じるんだろう。水色を薄く塗り広げたような淡い空が私の上に広がっている。遠くの空ほど白っぽく見える。端っこまで行けば空は真っ白になってしまう気がする。夏の空も好きだが冬の青空が好きだ。
冷たく少し張りのある冬の空気は、いつもより視界が澄んでいる気がして楽しくなる。目的地に向かう足取りもなんだか軽くなってくる。
築10年のまだ新しい雰囲気の残る賃貸マンション。目的の部屋は3階角部屋の306号室。マンションを見上げると窓が開いているのが見えた。どうやら在宅のようだ。マンションに入る前に身なりを確認して深呼吸をする。靴も汚れていない。さあ行こう。
ピンポーン
インターホンを鳴らすとチェーンをかけたままドアが開く。中から20代ぐらいの女性の顔がこちらを覗く。
「こんにちは。私、市の職員の者です。現在この地区の方を対象に行政に関するアンケートを行っております。5分ほどなんですがご協力いただけませんか?」
営業スマイルで予め考えてきたセリフを話す。女性は一瞬怪しむような表情をしたが小さく一度頷いた。私はカバンからペンと手帳を取り出してアンケートを取る芝居の準備をする。
「ご協力ありがとうございます。それでは早速。こちらに住まれてどれぐらいになりますか?」
「そうですね、3年ぐらいです」
「もともとこの市にお住まいでしたか?」
「いえ、地元はこの辺りではありません。仕事の関係でこっちに来ました」
「この市に住んでみて地元と違うなって感じたことはありますか?」
「いえ、特にありません」
「廃品回収など何か市が行う事でお困り事やご要望はございませんか?」
「いえ、特にありません」
淡々と無意味な質問をする。会話能力はあり日本語も通じるようだ。質問に対してもちゃんとした返事が返ってくる。見た目も悪くない。160cmほどの身長。少し茶色みががった髪色、ボブ、とてもよく似合っている。スタイルは普通。さて、そんな事はどうでもいい。そろそろ本題に入らなければ。
「最後の質問です。ここはあなたの家ですか?」
「…………は?あの、何を言ってるんですか?」
女性の顔が急に暗くなる。かなりこちらを怪しんでいる。
「もう一度伺います。こちらのお家はあなたのお家ですか?」
「はい、私の家です」
「本当ですか?ここは私の家ではありませんか?」
「え、ちょっと言ってる意味がわからないんですけど。なんなんですか?気持ち悪い……帰ってください」
バタン
ドアを閉められてしまった。まあ今日はいいとしよう。顔は覚えた。今日、有給休暇を取っていた私は近くをふらふらして定時の時間まで時間を潰し、いつもと同じ時間に家に帰った。もちろんスーツは友人に返しに行った。1日しか着ないならそのまま返していいと言ってもらったのだ。でもやはりクリーニングに出してから返すべきだった気もする。今度酒でも奢ることにしよう。
本日も晴天。今日は風邪をひいた事にして会社を休んでいる。もちろん元気だ。だからこうして住宅街をのんびりと歩いている。2日連続で仕事をサボるなんて初めての経験だ。
服装はいつも通りダボダボのパーカーにこれまたダボダボのデニムというラフな感じ。ゲームアプリの制作会社だから私服でいつも出勤するため…………そんな理由が言い訳になるかどうかはわからないが私はラフなデザインの服しか持っていない。流行りとかおしゃれは苦手だ。
冬の空はやっぱり好きだ。漂う雲がすごく軽そうだから。もちろん夏の入道雲も好きだ。向こうに何かありそうだから。でも冬の薄い綿のような雲の方がちょっとだけ好きだ。
さて、今日も行くとしよう。目的地はもちろん決まっている。築10年のまだ古い感じがしない賃貸マンション。目的の部屋はやっぱり3階の角部屋306号室。マンションを見上げると窓が開いているのが見えた。どうやら今日も在宅のようだ。ちょっと緊張する自分がいる。深呼吸をする。さあ行こう。
ピンポーン
インターホンを鳴らすとチェーンをかけたままドアが開く。中から20代ぐらいの女性の顔がこちらを覗く。昨日と同じドアの開け方、出てきた女性も同じだ。私はなんだか嬉しくなる。
「こんにちは。天気がいいですね。私この近くに住む者です」
「……こんにちは。あの何か御用ですか?」
かなり怪しまれているようだ。もうまどろっこしいことが面倒になったので本題に入る事にした。
「この家はあなたの家ですか?」
「…………ん?いっ!?あなた昨日の。帰ってください。なんなんですか!」
「質問しているのは私です。この家はあなたの家ですか?」
「迷惑です。帰ってください。これ以上いるなら警察を呼びますよ」
「話を逸らさないでください。この家はあなたの家ですか?」
「だからそうって言ってるじゃないですか!気持ち悪い。この不審者!!」
バタン
今日もドアを閉められてしまった。どうしてダメなんだろう。彼女のことがもっと知りたいだけなのに。時計を見る。まだいつも家に帰る時間まで5時間はある。時間を潰すのも面倒だ。
「あら?佐藤さんどうしたの?家の前でぼけーっとしちゃって」
声のする方を向くと305号室の田中さんが家から出てきてこちらを見ていた。考え事をしていたからドアが開く音に気がつかなかった。
「ああ、いえ、家に忘れ物を取りに来たんですがなにを忘れたかど忘れしちゃって」
「あらおっちょこちょいね。今日も寒いわ、そんな所で立ってたら風邪ひくわよ。じゃあ私は失礼するわね」
「はい、いってらっしゃい。お気をつけて」
私はポケットから鍵を取り出した。一瞬躊躇ったが思い切って鍵を開けて家に入った。家には誰もいなかった。
いつからだろう。家の中に女性の気配を感じるようになったのは。部屋を移動する時、夜に部屋の電気をつける時、ふと視界の端に何かが見える気がした。ずっと気の所為だと思っていたがいつからか割とはっきり見えだした。
あとなんだろう、匂いというのだろうか、女性の気配を家の中で感じることが増えた。ずっと一人暮らしなのに、彼女もいないのに、排水溝には長い髪の毛が詰まるようになった。
いつからだろう。家の中のものの配置が勝手に変わっていることが増えた。テレビのリモコン、置き時計、ゴミ箱などちょっとした物が自分じゃ置かない場所に移動している事があった。ずっと気の所為だと思っていたが台所の調味料やフライパン、鍋などの配置が勝手に変わった時にこれはおかしいと思った。
あとなんだろう、絶対に使わない調味料が減っていた事だろうか。誰にもらったか思い出せないハーブソルト、普段絶対に使わないのにどんどんなくなっていった。
先週、出勤途中に忘れ物に気がつき家に戻った時窓が開いていた。窓を閉めた記憶はあった。開いた窓から家の中に人がいるのが見えた。なんとなくだが人に見えるだけで人ではない気がした。
その時は家に戻らなかった。家にいる人のようなものがどんな感じの人のようなものか知りたくなったのだ。昨日今日と会った時のリアクションを考えると私がこの家に住んでいる事は認識されていないようだ。
今、家の中には私以外誰もいない。だけど窓は開いたままだ。困ったものだ。寒いじゃないか。こんな寒い日に窓全開だなんて。
この家、事故物件とは書いてなかった。書いてなかったんだけどなあ。家賃は安いなとは思ったけど。前の住人が突然引っ越したみたいな話は本当だったのかも。後で田中さんに聞いてみようかな。
どうにかして彼女を手に入れたい。家で感じる気配。彼女の見た目。どれも好みだった。人でないものにアプローチをするのは初めてだ。さてどうやって口説き落とそうか。安い家賃に好みの人のようなもの。なんて素敵な物件だろう。
彼女は人ではない。人でなければどれだけ束縛しても問題ないだろう。だって人権なんて関係ないのだから。これまで何度も失敗してきたがそれは相手が人間だったからだと思う。彼女ならきっと私の愛を受け止めてくれるはずだ。
いや、絶対に受け止めさせてみせる。受け止められないはずがない。ああ、もう早く彼女に会いたい。部屋に漂う彼女の気配。もうそれだけでは我慢できない。
私は彼女を愛している。
続編ではございませんが同じ世界観でもう一つ短編を書いております。
タイトルは「娘が行方不明になった。残された日記の最後のページには娘ではない筆蹟の日記が書かれていて、それを見た私はもう二度と彼女に会うことができないと悟った。」です。
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もしよろしければ読んでいただけますと幸いでございます。