第9場 覚悟
「咄嗟によい判断をすることは、難しいと思いませんか」
「思います。どうすればいいんですか?」
「前もって危険を想定して、策を用意しておきます。前にお渡しした煙幕玉はどうしましたか?」
「あ……机の引き出しに入ってます」
「あれを投げれば、アリアちゃんには危険なく撃退できたでしょう。家主を殴って押し入ろうとしている相手に遠慮はいりません」
「はい」
「行動を起こす勇気があるなら、あとはいかにうまく立ち回れるかです」
なぜか始まってしまったアンの防犯講座。具体的な危機的状況とその対処法を淡々と挙げていく。言っていることは間違っていないものの、一抹の不安を覚えなくもない。
「我が家の果てしなく面倒くさい妹が、よそ様の妹まで面倒くさくしようとしてる気がする」
「ぎゅわ」
「え、引く」
面倒くさい女こそ可愛いだなんて、私には理解しがたい主張だ。私だって面倒くさいくらいでルカウドを嫌いになったりはしないけれど、別にルカウドの面倒くさいところが好きなわけではない。面倒くさいものは面倒くさいし、そう思うことになんら痛痒は感じていない。
密やかに、しかし遠慮のない雑談をしていると、突然ヘンダフーの声が途絶えた。急いで状態を確認するも、壊れたわけではなく、通信を切られただけのようだった。
「この状況で切る?」
意味がわからず、私はぼやいた。
そもそも今は明確な死亡要因の排除を優先すべきで、いつか遭遇するかもしれない危険の話なんてまた今度ゆっくりすればいい。
しかしながら私は待ち続けるしかなく、ようやくアンが家を出てきた頃には、空はすっかり薄紫に染まっていた。
「お待たせしました」
遅いという言葉は、魔力を節約するため飲み込む。ノアはきゅうきゅうと嬉しそうだ。
「姉さん」
小さく息を吐く気配がした。
『今度こそ終わらそ』
「そうね」
静かな決意表明に、思わず返事をしていた。
私の声はルカウドへ届いていないはずだけれど、まあ構わないだろう。
アンはゆっくりとした足取りで進み、件の路地へ差しかかる。また小さな吐息が聞こえて、
『私を信じて。お願い……信じて』
まるで極寒の中、かろうじて囁くかのような震える声で懇願された。
私がその意味を理解する前にアンは踏み出し、そして判明する。男がしていたのは、仲間との待ち合わせなどではなかった。
「さっきはどうも」
路地に引きずり込まれたアンの眼前で銀色の刃が光る。
「怖くて声も出ないか」
男は一人納得し、アンの肩を抱いて歩き出した。
アンの様子に目を凝らしてみるも、やはりこの距離と暗さでは判然としない。
先ほどのお願いからいって、この事態を予想していたと見て間違いないだろう。考えがあってのことだろうし、すぐどうこうされる様子でもない。
胸元を見下ろせば、ノアがじぃっとアンを見ていた。
「あんたは信じるの」
「ぎゅ」
ノアは愛想も迷いもなかった。
「見失わないでよ」
「ぎゅわ」
ノアを下ろす。あと一時間もしない内に日が落ち切る。安全な距離を保って追跡するなら、夜目と鼻の利くノアに頼るしかない。
「ほんと、頼むからね……」
小さな背中からもう返事はなかった。
「グズのくせに生意気なんだよ」
この一言に、男の思考が凝縮されている気がする。
想い人に尽くすいじらしい少女の姿は、チフリーさんだけでなく、市場で働く他の女性達の心をも掴んだ。
そうなればお相手のグレンさんにも注目が集まるわけで、その結果病弱な妹を養う勤労青年という美談も加わり、噂は更なる求心力を得た。今では市場全体に彼の存在が知れ渡っており、気にかける人も増えた。長年に渡ってグレンさんを苛めていたらしいこの男は、それがとにかく癇に障るらしい。
アンを拉致してから延々、男は自分より下と信じる青年への蔑み、そして妬み嫉みを絶えず垂れ流し続けている。
あまりにくだらないと呆れつつ、大抵はそんなものかとも思ってしまう。劇的な因縁による復讐とかそうはないし、もしそうだとしたら、私達も自分の正義に今一度相談しなければいけなくなる。この期に及んでそんな面倒がなくてよかったと、前向きに受け止めておこう。
男に見切りをつけた私は、暗闇の中小さな黒犬を見失わないよう追跡に集中する。罵詈雑言に対し、ひたすら無言を貫くアンの精神衛生は心配だけれど、ならば尚更私は自分の仕事をしっかり果たして報いるべきだろう。
決意も新たに黙々と追い続け、気が付けば郊外まで来てしまった。姿を隠せる建物も紛れる人気もなくなり、仕方なくアンと距離を取る。
一体どこに向かっているのか。この先にあるものなんて――思考を巡らせ、浮かんだ答えを自分で即座に否定した。まさか、そんなはずはないと願って。
だからそれを視界に捉えた時、私は頭を抱えたくなった。よりにもよって妖精の森だなんて、何を考えているのか。
名にも冠される妖精だけでなく、ただの獣とは違い、人に劣らぬ知性と人を凌ぐ魔力を持つ魔獣まで多く生息し、そして最深部には彼らを統べる“妖精王”がいると伝えられる深い森。聖域とも魔境とも称される、つまりはこの国屈指の危険地帯だ。
この時点でもう手に余るのだけれど、更に政治的な面倒くささまで加わってくる。
妖精王の不興を国王は酷く恐れる、貴族の間では有名な話だ。当然妖精王の関わる事柄は扱いが慎重になるし、妖精の森への立ち入りなんてその最たるものと言っていい。
こうなったら、残りは諦めて奇襲するか。それが常識的な判断というものだけれど――私は迷っている。
「信じてなんて言われたの、いつぶりだったかなあ……」
人によっては軽いその言葉も、ルカウドが口にすると途方もなく重い。渾身の願いだったと、長い付き合いなのでわかってしまう。
ただ一方でこうも思う。信じてとは言われたものの、あの子の何を信じればいいのだろう。
自分を切りつけるなんて選択肢をすぐに思いつき、あまつさえ簡単に実行してしまうような思考の子だ。最悪窃盗団と心中して事件解決も視野に入れて行動していないと、どうして言えるだろう。
信じてあげたいのは山々だけれど、前科がありすぎて素直に頷けないのもまた、付き合いの長さからだ。
そうして煩悶していたら、久しぶりにノアと目が合った。前方を気にしながらも、ちらちらとこちらを窺う。
「ノア、あんた当然ルカを追って、あの森に入るつもりなんでしょ?」
「ぎゅ!」
「私が止めたって、聞きゃしないんでしょうね」
「ぎゅ!」
「ならいいの。行きましょ」
「ぎゅう?」
「あの子言ってたでしょ。対処できないなら私達は巻き込まないし、ヘンダフーで止めるって。私はまだしも、あんたが付いて行っちゃうのはわかるだろうし、なのに何もないのは、どうにかできる自信があるからだと思う。あんたを死なせるような判断はしない。そこは信じられる。あんたを守って森を出るなら、自分も生きて森を出なきゃでしょ?」
国王に睨まれたくないのはもちろんだけれど、ルカウドを失うことに比べればたいした不幸ではない。それさえ避けられるなら、付き合ってあげることはできる。
「ぎゅわあ」
「あの切ろうとした件はね、私達を怪我させる可能性が少しでもあるなら実行しなかったでしょ。でも今回は少なくとも、私達が妖精の森に入る危険を飲んでもやり抜くべきって覚悟してるみたいだから。それに――一言だけど、一応あったしね。ちゃんと話してくれるなら、私だってもっと融通利かせてあげるのに、あの子はわかってないったら……て、ちょっと、置いてかないで」
無言で足を速めたノアを慌てて追う。森へ踏み入る直前は一瞬だけ躊躇して――ふんふんと鼻息荒く突き進む同行者の姿が目に入った。
ルカウドのためなら、この小さな犬は燃え盛る炎の中にでも飛び込んでいきそうだ。そう思ったら、身体の強張りが消えた。
「やだわー」
憎まれ口を叩きつつ、私は小さくも頼もしい背に続いた。