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第8場 アリアの涙

「あんたとこうして出かけるのも、今日で最後かあ」

「ぎゅーう」

 横を歩くノアは今にも跳ね回りそうなくらい機嫌がいい。一日中ルカウドに張りついていられる生活をようやく取り戻せるのだから当然か。

「でもまあ、あと一月ちょっともしたら――」

「ぎゅ……」

 この国の人間は成人と認められる十六歳を過ぎれば、この国最大の学び舎であるメルクレア・ロフの入学試験に挑戦するものだ。ルカウドも約一年遅れながら試験を受けて無事合格し、ロフへ通うことがすでに決まっている。もちろん勉学にまったく無関係の犬を連れて行ける場所ではない。

 かくいう私はロフを一年前に卒業しており、同じ敷地内にあり、より専門的な知識の探究と技術の研鑚を掲げるメルクレア・マフに通いながら、本当にやりたいことを探している最中だ。

「ぎゅあ、ぎゅわあっ」

「もう手続き全部済んじゃってるし、大体その後どうすんの」

 ロフの卒業生とそうでない人間では、就職先の待遇がかなり変わる。特に魔法関連は雲泥の差なので、ルカウドの現状を鑑みれば、今はこれといった希望がなくてもとりあえず行っておくべきだ。

 そのあたり当人とは話が着いているのに、ノアときたらいまだに不満たらたらで、しかも私に噛みついてくる。

 いいかげんうんざりしていることもあって、足を速めつつヘンダフーへ耳を傾けてみると、アンとアリアちゃんが仲良くお菓子を作る様子が聞き取れた。

 そう、二人の声だけだ。耳を澄ましてみても、グレンさんの声はほとんど聞こえず、その場にいるのかいないのかさえよくわからない。ここ最近ずっとそんな調子なのだけれど、自分を好きだと告げた女を妹に宛がい、肝心の彼は何をしているのだろうか。

 今日に限って言えば、その疑問はすぐに解けた。

 張り込み予定の場所へ到着すれば、玄関に立つグレンさんが見えた。同い年くらいの青年と一緒で、何か話しているようだ。

 友人にしては、グレンさんがずいぶん迷惑そうに見える。相手の顔を見た私は、そこでようやく気が付いた。あの小屋の前で見た男だった。

 結局来るのかとげんなりして、いや、だからこそ来たのかもしれないと気を引き締め直す。グレンさんを引き入れることができれば、減った人員を補充できるだけでなく、新たな隠れ家も手に入る。

 とはいえ、彼らの思惑なんてこの際どうでもいいことだろう。私が考えるべきは、この好機をいかに生かすかだ。

 一走りして、通報してくるか。目を離すのは不安だけれど、家の中にはアンがいるのだから問題は……あちらになくても、こちらにはあった。

 今家の中にいる人間は、もれなく関係者として詰所へ連行される可能性がある。聴取だけで済めばいいけれど、たぶん身元の確認もされる。いくら調べたところで身元の割れないアンは、真実を明かさなければ解放してもらうことは難しいだろう。

 この場合の真実――貴族の嫡男が女のふりをして、事件関係者の男に通い妻をしていたなんて知れたら、ルカウドがどんな誹謗中傷を受けるか。父さんの仕事にも影響が出るかもしれないし、他にも……とにかく厄介な問題がいろいろと噴出する。

 仕方がない。消耗の心配はあるけれど、連絡を入れて家から出てもらうか。

 そうしてこちらからヘンダフーを使おうとした矢先、

「あ」

 男の拳がグレンさんのみぞおちにめり込んだ。

 密着状態からの一撃。足運びからいってたいした威力はなさそうだけれど、まったく喧嘩慣れしてない人間ならそれでもきついはずだ。事実グレンさんは膝をついてしまった。

 嘲笑を浮かべた男は、グレンさんの横を通り抜けようとして、しかし叶わなかった。

「中に入れてくれないか?」

 ヘンダフーから男の猫撫で声が聞こえた。

「お断りします」

 アンが男と対峙する。

「退けよ」

「お断りします」

 今度はすごんで見せるも、アンは変わらぬ調子できっぱりと返した。

 痺れを切らした男の手がアンへ伸びる。

「触らないで!」

 アンの横からにゅっと何かが伸びた。その棒らしき物の先が、男のみぞおちを突く。

「帰って! 二度と来ないで! 兄さんに近付かないで!」

 次に現れたのはアリアちゃんだった。がつがつと男を突き回しながら前に出てくる。

 これはどうするべきだろう。アンへ視線を向ければ、そんなアリアちゃんを止めるでもなくただ見つめていた。

「やめろアリア!」

 グレンさんは妹の蛮勇を止めたいようだけど、本気で荒ぶる相手を止めるのは難しい。手荒に扱えない相手なら尚更だろう。

 そうこうしている内に様子を窺うような気配が現れ、増えていく。

「っくそ!」

 とうとう一軒挟んだ隣りの扉が開いたあたりで、男は忌々しげに踵を返した。

 よし、と私は男を追いかける。しかし男はグレンさんの家からあまり離れていない路地に入った所で立ち止まってしまった。

 このまま仲間の所まで案内してくれることを期待したのに、つくづく焦らしてくれる。

 やはり通報かとも思うけれど、ここを離れている間に移動されてしまっては元も子もない。思案しつつ、足許へ視線を向ける。

「ぎゅ!」

 男の方へ向かおうとしたノアを、すかさず掴んで止める。

「任せろじゃない。あんたに何かあったら血の雨よ。わかってんの?」

「ぎゅーうぅ」

 そもそもあの男一人を捕まえるだけでいいなら、こうも悩んでいない。グレンさんへの一撃から判断するに実力は私より下、しかも人気のない路地に入ってくれたおかげで他人を巻き込む心配もない。

 しかし捕まえなければいけない相手は、少なくともあと一人いて、もしも近くに潜んでいた場合、騒ぎを起こせば逃げられてしまう懸念がある。かといって周囲を探ろうにも、肝心の顔がわからない。

「ここは待ちましょ」

 もしかしたら仲間と待ち合わせをしているのかもしれないし、そうでなくてもこんな場所に長居はしないだろう。じっとりと不満を滲ませるノアを抱き上げる。

「ほら、ルカの声でも聞いて落ち着きなさい」

「ぎゅ……」

 抑えていたヘンダフーの音量をそうっと戻す。

「どうしてあんなことしたんだ?」

 聞こえてきた第一声はグレンさんだった。明らかに苛立っている様子だ。

「だって……」

「はっきり言え」

「グレンさん」

「なんだよ」

「気持ちはわかりますが、落ち着いてください。頭ごなしでは、話したくても話せません」

「悪いのはアリアだろ!」

「グレンさん」

「なんだよ!?」

「では、グレンさんはどうすべきだったとお考えでしょうか?」

「っ少し家に入れるくらい……それより、あんな真似する方が危ないだろう!」

「……わかりました。失礼します」

 しゅっと何かを引き抜くような音がした。

「何――?」

 詳細はわからないけれど、グレンさんが何かを言う間に終わったらしく、アンがよしと小さく呟いた。

「お部屋へ行きましょう」

「え、でも兄さん……」

「大丈夫です」

「ちょっと待て、ふざけんな! これ外せ! 外せよ!」

 グレンさんの怒声が遠ざかっていき、扉の開閉音の後、ついに聞こえなくなった。

「大丈夫かな……」

「催さなければ大丈夫でしょう」

 心配そうなアリアちゃんとは逆に、アンはさっぱりとしたものだった。

 アリアちゃんの部屋に入ったのだろう、ご丁寧に施錠音もした。そしてアリアちゃんに休むよう促す。

「……あの」

「はい」

「その……」

 アリアちゃんは何か言いたげにしながらも、言葉を詰まらせ続ける。とうとう、

「私……ごめんなさい……」

 消え入りそうな謝罪で言葉を切った。

「何に対しての謝罪でしょうか」

 アンが穏やかに返した。 

「ホウキについてなら、私は受け取れません。アリアちゃんがしていなかったら、私が叩き出していました」

「え……」

「あんな人を家に入れてはいけません。アリアちゃんもそう思ったのでしょう?」

「でも兄さんが……」

「問題があったとすれば、そのために選んだ方法が最善であったかどうかでしょう」

「じゃ、じゃあ私はどうすればよかったんですか?」

「意見のひとつとして聞いてください……グレンさんが殴られた時に、すぐ大きな声で周囲に助けを求めます。後は全力で外へ逃げて衛視さんを呼んできてはいかがでしょうか。その間に、破壊や盗難はあるかもしれませんが、住めない状態にまでされるとは考えづらいです。二人の安全を一番にして、腕力は屋内へ引きずり込まれそうになった場合の、最後の……アリアちゃん?」

「すごいですね……」

 アリアちゃんの呆然とする顔が目に浮かぶようだ。

「……私も今ようやく思いつきました。実際は何もしていません。口先だけです。すごくなんて、ないです」

 アンは取り繕ったけれど、今の提案はグレンさん達の視点から見た最善策であって、含むところのある私達にとっては具合が悪い。私が通報をためらったように、アンもあえて静観したのだろう。

「でもそれなら、私のしたことは……」

「アリアちゃん」

 穏やかな呼びかけが、震える声を止める。

「危険が迫っていて、一番よくないことはなんだと思いますか?」

 すぐに答えはなかった。

「私は、怖くて動けないことだと思います。動かない方がいいこともあるでしょう。抵抗が逆上を招き、殺される場合だってあります。グレンさんが怒った理由は、心配だと思います。でも……私は、嬉しかったです」

 今のアンは、とても優しい目でアリアちゃんを見つめているのだろう。声だけでそれがわかる。

「他人を叩くなんて怖かったでしょう。私のために立ち向かってくれました」

「っ……アンひゃ、う……」

 アリアちゃんが言葉を詰まらせ、ついに嗚咽が漏れた。

「私、アンさんを守れましたか……?」

「はい。この上なく」

 嗚咽は次第に号泣へと変わり、彼女が落ち着くまでアンは優しく慰め続けたのだった。

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