第5場 意外な接点
「お怪我はありませんか?」
「見ての通り、おかげさまで無事ですよ。いやあーありがとうございました」
ルカウドが担いでいたもの――地面に下ろされた青年が頭を下げる。
満面の笑みを浮かべるその顔には見覚えがあった。プリハで遭遇した、ルカウドを描きたいと言ってきた画家だ。彼はディナン・ローパと名乗った。
「ノーベス伯爵家のルカウド様とアナベル様ですよね?」
ディナン・ローパはルカウドの薄い青の瞳を見つめ、笑みを深くする。他人と遭遇なんて滅多にしない森の中、ルカウドは前髪を上げていた。
「調べたの?」
その気になれば難しいことではない。名前くらいなら簡単な聞き込みでわかるだろうし、後はそれなりの伝手があれば芋づる式で調べられる。
「調べたなら、私の悪評も聞いたでしょう?」
「そうですね。でも所詮噂ですから、自分の目ほどあてにはしませんよ」
「本当にそう思いますか?」
言外にそうでもないと告げたルカウドだったけれど、
「はい。知り合いとも言えないような相手でも、襲われていたら躊躇なく助けへ入る程度にはいい人ですよね?」
いい笑顔を向けられ、ルカウドの口許が引きつった。
「それは……熊くらいなら、どうにかできると思ったからで……」
「さすが勇名を馳せるノーベス伯爵のご子息。熊ごとき脅威ではないということですか。さっきも僕を担いでのあの走り、誰でもできることじゃありませんよ」
元々の健脚に加えて、魔法で身体能力を強化していたからこその荒業だ。
「っそもそも、この子が教えてくれなければ、気付きませんでした……」
熱い視線を遮るように、ルカウドはノアを顔の前に掲げる。
「ぎゅ!」
崇めろとふんぞり返るノア。
「はは、ありが――」
彼が伸ばした手を、ノアが細長い尻尾で叩いて止めた。
それを見て、今度は背後に隠すルカウドだった。
「すみません。人見知りです」
「いえいえ。こちらこそ、驚かせてしまったみたいですね」
気を悪くした様子もなく、ディナン・ローパは叩かれた手を振った。
「ところで、どうしてこんな所にいるの?」
「この時期にだけ咲く花が描きたくて来たんです。フレミュレスっていう白い花なんですけど、すごく綺麗なんですよ」
どこかで聞いた覚えのある名前だ。
「でも今日はもう諦めて、日を改めた方がよさそうですね」
熊に襲われても手放さなかった画材を見下ろし、ディナン・ローパは初めて残念そうな顔を見せた。
そんな彼へ、ルカウドがぼそりと問いかける。
「描くのは、時間がかかりますか?」
「半刻もあれば」
ディナン・ローパの返答に、ルカウドは思案げな素振りを見せる。そして上着の下から掌大の瓶を取り出すと、蓋を開けた。
「ああ、道理で聞き覚えがあると思った。フレミュレカの材料ね」
我が家の常備薬のひとつで、清涼感の中に甘さも感じる香りが印象深い逸品だ。
「フレミュレカ?」
「解熱剤なんだけど結構万能で、肌に塗れば炎症を抑える効果もあるの」
「化粧品の材料になるのは知ってましたけど、薬にもなるんですね」
素直に感心するディナン・ローパの整った顔を見て思う。
「あなた、金のある年上にモテそうね」
「よくわかりましたね」
そんな私達を一瞥もせず、ルカウドは話を進める。
「加工しても匂いが残りますから、犬の鼻なら探せます。ノア、お願いできますか?」
ノアは差し出された瓶の口に鼻を近づけ、ふんふんと匂いを嗅ぐ。
「きゅっ」
一撫でされ、地面に下ろさたノアが張り切って歩き出した。
それからほどなく花は見つかり、今度はディナン・ローパの作業が終わるのを待つ。絵を描く彼は真剣そのもので、私とルカウドが後ろから覗いても気付いてさえいないようだった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
デッサンを終えたディナン・ローパへ、ルカウドが水筒から注いだ水を差し出す。
彼は掠れた声で感謝を述べ、受け取った水を一気に呷り飲んだ。
「お二人のおかげで、すごく集中できました」
「あなたの集中力に、私達は関係ないと思います」
「いえいえ。いつ熊に襲われるかもしれない森の中で、周りを一切気にせず描けたのはお二人の存在があってこそです」
「熊が冬ごもりしているはずの季節に、日に二回も襲われるなら、日頃の行いを見直すべきです」
「手厳しい!」
ディナン・ローパを送り届ける道中、彼はずっとルカウドに絡んでいた。
本気で嫌だったら私に助けを求めるか、当たり障りのない反応で受け流すだろうから、毒を吐けるなら大丈夫そうだ。
やや後方から、並んで歩く二人の背中を眺める。
送るのは森の外までと思っていたけれど、森を出てからもルカウドは彼の話に付き合っている。時間からいって、彼を送って今日はお開きだろう。疲れているから異論はない。
今になって胸がざわめいている。迫りくる姿や生臭い匂いを思い出し、我ながらよく冷静に対処できたものだとこっそり自賛した。
「是非お礼をさせてください。とはいってもお金はありませんし、僕にできるのは絵を描くことだけなので……ルカウド様を描かせていただくなんていかがでしょうか?」
「やっぱり諦めてなかったか。いっそ感心するわあ」
「はい。一周回って面白いくらいです」
「なら――」
「お断りします」
「残念です」
さらりと断るルカウドに、ディナン・ローパもへらりと返した。この二人、意外と相性がいいのかもしれない。
流されるままにディナン・ローパと帰路へつき、ふと気づく。
目の前に見覚えのある景色が広がっている。
「このあたりは初めてですか?」
初めてどころか、最近は日参している。とうとう件の彼の家が見えて――彼も見えた。丁度家に入ろうかという場面に出くわしたらしい。
私はもちろん、ルカウドも無関係な通りすがりを装ったけれど、
「グレーン」
ディナン・ロ-パが軽く手を振る。
彼はこちらを一瞥するも、さっさと中へ入ってしまった。
無情に閉まった扉を見て、ディナン・ローパが腕を下ろす。
「……お知り合いですか?」
「幼なじみです。子供の頃は結構仲よかったんですけど、僕の爛れた生活を知られてしまって……もうかれこれ二年ほどろくに話していません」
そう語る顔と声は穏やかながら、どこか力がなかった。
「せめてお茶でも飲んでいきませんか?」
引き留めるディナン・ローパの自宅は、彼の家から一軒挟んで隣りだった。
「ご遠慮します」
「あなたも今日は早く休んだ方がいいんじゃない?」
「ありがとうございます。あはは、でもそうですよね。意外な再会につい興奮してしまって。すいません」
苦笑するディナン・ローパの顔を見つめ、ルカウドが硬い声で問う。
「……私にお礼がしたいなら、一つだけ頼みを聞いてくれませんか?」
ルカウドの申し出に、彼は一瞬意外そうな顔をするも、すぐ嬉しそうに頷く。
「僕にできることなら」
「当分の間は、あの森に近付かないでください。熊は一度獲物と認識したものに執着しますから、襲われるかもしれません」
「……それがお礼ですか?」
「はい。絶対に行かないと約束してくれるなら、私は安心できます」
「わかりました。絶対に行きません」
「ありがとうございます。ではこれで失礼します」
彼と再会してから一番晴れやかな声で、ルカウドは別れを告げた。
対するディナン・ローパもまた、とても綺麗な笑顔を作る。
「花を探してくれたのは、僕がまた森へ行かなくても済むようにですか?」
「はい」
「ずっと何か言いたそうにしていたのは、それなんですね?」
「まあ、はい」
「それならそうと、どうしてすぐ言ってくれなかったんですか?」
「聞きかじっただけの知識を押し付けていいか、わかりませんでした」
普段以上にたどたどしい口調が、ルカウドの困惑を表わしている。
仲裁に入るべきかと思ったあたりで、私より先に痺れを切らした者がいた。
「ぎゅー!」
ノアがルカウドの腕からすぽーんと飛び出し、そのままディナン・ローパの顎に頭突きを決めた。
顎だけでなく、背後の扉に頭までぶつけたディナン・ローパが呻く。
「はっ」
痛みに悶えるディナン・ローパを鼻で嗤うと、夕日に向かって駆け出すノア。
「すみません、大丈夫ですか?」
そう声をかけながらも、ルカウドの視線は遠ざかる黒い背中へちらちらと向けられている。
「はい……」
「よかったです。では失礼します!」
それだけ言い残し、ルカウドはノアを追いかける。身を翻す直前にもらった一瞥に、小さく頷き返した。
私はディナン・ローパに向き直る。
「うちの犬がごめんなさいね。本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
頭を擦りながら苦笑するディナン・ローパ。
「舌は噛んでいませんし、コブもできてません。僕は大丈夫ですから、追いかけてあげてください」
ルカウドへの迫り方から、腹を立てたものだとばかり思ったのに。
一転して気遣わしげな態度に毒気を抜かれてしまう。
「ならお言葉に甘えて、私も失礼させてもらおうかしら。お大事に」
「ありがとうございます。アナベル様もお気を付けて」
彼と別れてからほどなくして、元通りノアを抱きかかえるルカウドが見つかった。
先ほどの奇行が嘘みたいに、ノアは幸せそうにルカウドの胸でくつろいでいる。
「大丈夫でしたか?」
「特に怪我はなかったみたい」
「そうですか。よかった」
ルカウドはほっとした様子で息を吐く。
「そんなに心配なら、戻ってくればよかったじゃない」
「そう思ったのですが……ノアがとても嫌がりました」
「ぎゅーう、ぎゅううぅ」
怒れる背中を、ルカウドが宥めるように撫でる。
「あんな恩知らず、放っておけばよかったって」
「……そうなのですか?」
ルカウドが息巻く愛犬を見つめる。
「きゅ!」
「ノア……」
撫でる手を止めたルカウドをノアが見上げた。
「助けなければよかったなんて、言わないでください」
それは静かな声だった。
咎めるような響きはないけれど、
「きゅ……」
ノアがみるみると萎れていく。
「あなたが彼を見つけてくれたことに、私は心から感謝しています」
胸に顔を埋めてしょぼくれる愛犬を、再び優しく撫で出す。
「もう真っ暗だし、とりあえず帰りましょ」
ルカウドは頷いて、すっかり大人しくなったノアを抱え直した。