第32場 若き画家ディナン・前
「あ、これこれ。ハイトラーさーん」
「ふむ……」
私の呼びかけに寄ってきたハイトラーさんが、興味深そうにそれを見つめる。
それは以前、プリハで見た青い花の絵だった。
ディナン・ローパの家へ行くと伝えれば、ハイトラーさんはかしこまりましたと出かける準備を始めた。やっぱりそうなるかと思いつつ、淡々と準備を進める背中へ話しかける。
「そういえば、彼の絵でルカウドがいいって言ってたのがあったよ」
「ルカウド様が、犬と珍味と武装以外にご興味を?」
ハイトラーさんは酷く驚いた顔をして、がぜん興味が湧いたらしく若干そわそわした様子でついてきた。
思えば、ハイトラーさんは昔より明るくなった。キース・テッフェンとの決闘より前は、もっと感情の起伏が少ない人だった気がする。執事としていいか悪いかはわからないけれど、私は今の方が好きだな。
「久しぶりね。いい話を持ってきたの。聞いてくれる?」
「それはそれは……もちろんお伺いします。中へどうぞ」
ハイトラーさんを連れた突然の訪問に慌てた様子もなく、ディナン・ローパは入室を促してきた。
「一人暮らしなんだよね」
「そうですね」
外壁と同じ漆喰の内壁に、木製の素朴な家具達。経年の跡こそあるものの、定期的に掃除をしているのだろう、積もったホコリなども見受けられない。
扉の向こうは、彼に抱いていた印象よりずっと家庭的で、なかなかに居心地のよさそうな空間が広がっていた。
勧められた椅子に座る。その斜め後ろにハイトラーさんが控えた。
「お茶を淹れてきますね」
「そんなに長い話でもないから。お気遣いなく」
本心から彼のことを疑っているわけではない。ただ、付き添いがいるとはいえ、出された物をそのまま口にしては、警戒心が足りないとまた叱られてしまいそう。
「わかりました。それで、いいお話というのは?」
こちらの意図に気付いているのかいないのか、彼は涼しい顔で私の正面に座った。
「仕事の紹介。二人いてね、一人は母の友人で、肖像画が欲しいそうなの。もう一人は私の師事してる教授が紹介してくれた植物学の教授。図鑑を作りたいから、挿し絵を描ける人を探してるって。あなたにその気があるなら場を設けるけど、どう? あ、一応言っておくけど、仲介してくれた母と教授の評判を落とすようなことは禁止ね?」
万が一にもマフの関係者にあの営業をかけられては、紹介した私の品位に関わる。
母の友人――サハリスさんについてはまあ、うん。あの女傑を、口説けるものなら口説いてみろといったところか。
「理由を訊いてもいいですか?」
「うん? ああ、あなたに仕事を紹介する理由?」
「はい」
「私はお金もコネも持ってる美人だから、施したっておかしくないでしょ」
かしこまって、らしくない――なんて言えるほど、彼を知っているわけでもないか。
硬い顔をしたディナン・ローパに、小さく手を振って答える。
「たいした理由なんて本当にないの。グレンさんにめいっぱい頑張れって言っちゃった手前、私も相応にできることはすべきかなって」
それに――、
「弟を守りたいって気持ちなら、少しはわかるし」
「……調べたんですか?」
探るような視線に頷き返す。
「グレンさんを調べたら、芋づるで出てきたってだけ」
一応は貴族の嫡男の側仕え、事前の身辺調査くらいは珍しくもない。
幸い我が家の基準で引っかかるような点はなく、無事雇用関係は結ばれたわけだけれど。気を引かれる情報もあった。そのいくつかには目の前の彼、ディナン・ローパが関わっている。
画家シトー・ローパの弟子で、師の死後にその工房と名を受け継いだこと。
シトー・ローパは本名をミケル・スヴィーといい、グレンさんとアリアちゃんの父親だったこと。
グレンさんと仲違いしたらしい二年前までは、スヴィー家によく出入りしていたこと。
「前に不真面目な生活のせいって聞いたけど、グレンさんと疎遠になった理由って、本当にそれだけ? グレンさんに訊いてみたら、かわいそうなくらい挙動不審になってね。結局教えてくれなかったけど」
彼らの現状は、どうもグレンさんが一方的に避けているだけな印象を受ける。
こう言ってはなんだけれど、ディナン・ローパは口も頭もグレンさんよりずっと回るようだから、その気になれば丸め込むことくらい簡単ではないのか。見た限り好意的なのに、ずっと疎遠にしているのはどうしてなのか。
「……そうですか」
ディナン・ローパはちらりとハイトラーさんを見る。
「二年前、グレンに見られた当時の支援者というのが……同性でして。僕としてはあくまで仕事でしたし、男性をそういう目で見たことはないんですけど」
「へえ」
「まあそういうわけで、避けられても当然なんです。でもグレンは優しいから、僕を庇って言えなかったんだと思います。どうかご容赦を」
「安心して。別に最初から怒ってないし」
この国の同性愛への偏見は強い。改める必要性を言及することすら、首を傾げられてしまいかねない状況だ。
なのでこれから大きな仕事を紹介してくれようという相手に、たとえ感情の伴わない仕事だったとしても、当事者であった事実を告白するなんてまずしない方がいい。
それがわからない彼でもないだろうに、グレンさんは悪くないと言いたいがために話した。雇い主に隠しごとをした彼が、不利益を被らないか心配して。
これではっきりした。ディナン・ローパにとってのグレンさんは、グレンさんにとってのアリアちゃん。血の繋がりはなくとも、彼らは似た者兄弟ということだ。
「で、仕事だけどどうする?」
「……いいんですか?」
「こっちがグレンさんを押さえてる限り、滅多なことはできないでしょ」
かくいう私とて、理解があるかといえばそうでもない。他人に迷惑かけているわけではないなら、どうでもいいというか。好きにすればとしか。
「あと、ねえ、グレンさんと仲直りしましょうよ」
明るく提案すれば、ディナン・ローパは面白い顔になった。




