第11場 白馬と大蛇・前
『――動かないで!』
鋭い制止に踏み出しかけた足が止まる。アンが見つめる先へ私も目を向け、息を飲んだ。
緊張を滲ませつつ、ゆっくり後ずさるアンとは逆に、彼は悠然と茂みから進み出てきた。
「そう怯えないでおくれ。君達を傷付けるつもりはない」
優しげに声をかけてきた彼は、白い毛並が美しい馬だった――ただし、額から立派な一本角が生えている。
角を生やした馬なんて、正体はひとつしか思い当たらない。アンへの友好的な様子も、その性質と合致する。ならば出て行っても構わないのでは考えた私へ、気配を察してかアンが声を張り上げる。
『嘘じゃない証拠は? 実物に会うのは初めてでしょ? 本か何かで聞きかじっただけの知識で、違ってたらどうするの?』
矢継ぎ早に叱責され、どうしたものかと思考を巡らせる。
私としては、とりあえず話を聞いてみてもいいのではないかと思う。こう言ってはなんだけれど、そこに転がっている男達よりよほど話が通じそうだ。頑ななアンをどう説得するか――そこでノアを見て、私は首を傾げた。
「どうしたの?」
こんな状況なのにアンを見るでなく、顔を巡らせるノアに違和感を覚えた。
「ぎゅあ!」
『――こっち来て、お姉ちゃん!』
わずかな違和感は、なぜと問うより先に身体を衝き動かした。アンの許へ駆け寄りつつ背後を見返せば、私達がいた場所に大きな蛇がいた。赤ん坊くらいなら丸呑みできてもおかしくない巨体を目にし、私はすぐ向き直って全力でアンの傍まで駆け抜けた。
『大丈夫?』
『うん……ありがと』
「きゅ」
息を整えながら、改めて振り返る。蛇は丁度こちらへ這い出てきたところで、その全貌が見て取れた。全身が薄い灰色の鱗に覆われ、滑らかな光沢を放っている。目を閉じて動かなければ、よく磨かれた石像に見えたかもしれない。
「――――――――ッ、――――!」
「その娘とて、不意を突いてあれらを仕留めたではないか。違うか?」
不快そうに嘶く白馬と、舌をちらつかせながら、聞こえよがしにこちらを見る大蛇。そしてそんな二者を窺いながらノアを抱き上げるアン。
じりじりと焦げついていくかのような空気が漂う中、自分がどう動くべきなのかを考える。アンだけならまだ止めようもあったのに、あの蛇が未知数で困る。アンを止められたとして、こちらの意を汲んでくれるだろうか。絶えずちらつく赤い舌が挑発的で、どうにも不安を煽られる。
そこまで考えて、ふと気付く。ここまでのやりとりから、彼らが意思疎通の可能な相手であることは明白だ。加えて私達の立場も考慮すれば、まず取るべき行動があるのではないか。
「ねえ、ちょっと離して」
庇うように腰へ回されたアンの腕をぽんぽんと叩く。
「大丈夫だから」
柔らかく告げれば、アンは不安そうな顔をしつつ、ようやく腕を解いてくれた。
とりあえず灰色の彼へ身体を向けた私は、
「勝手に入ってすみません!」
大きな声で謝罪を述べ、頭を下げた。淑女の礼と呼べるような優雅さは皆無で、失態を犯した取引先で詫びるがごとく、直立からしっかり腰を曲げる。
「……すみません」
「ぎゅーう」
ノアを抱いたままながら、私に倣うアン。ノアも大人しくしている。
「もうよかろう、ドゥムジェ」
「……ふん」
頭を上げて見れば、白馬が軽やかに私達へ寄ってくる。アンがすかさず彼と私の間に入ったけれど、彼は気を悪くするどころか、柔らかく目を細めた。
「こちらこそすまない。あいつは小心者なんだ」
「おぬしが緩いだけだ」
憮然と言い返す蛇を無視し、白馬は視線を落とす。
「手を見せてくれるか」
私もアンの手を見る。
「怪我したの?」
「……軽い擦り傷です」
気まずげに答えてはくれるも、握り込んだ手を開こうとはしない。
白い彼に視線を向ければ、ばちりと目が合ったので、私は小さく頷き返した。
「いいじゃないの。大丈夫よ。ね?」
促す声は自然と優しくなった。こんなにも頑なな理由は、私が襲われかけたからだとわかっている。
ようやく開かれたアンの掌は、申告通り擦り切れて血が滲んでいた。地味に痛そうだ。
「あと少しの辛抱だ」
彼はゆっくりと頭を下げ、アンの掌に角をかざす。たちまち角は淡く光を纏い、アンの小さな掌を照らした。
「おお」
思わず感嘆する。瞬き三回ほどの間で傷が塞がってしまった。
これが白い彼――一角獣、または癒やしの槍とも呼ばれる魔獣の力なのか。
「どうだろう?」
傷のあった掌を、もう片方の手でさするアン。
「綺麗に治っています。ありがとうございます」
さすがに驚いた様子で、アンの声からはずいぶん棘が抜けていた。
「それも治そう」
彼は気分がよさそうに、服の乱れから覗いたアンの肌へ角を向ける。
「そちらは……」
「遠慮することはない」
言いよどむアンに、一角獣は気安く答えたけれど、
「おや?」
そんな声を漏らし、角からより強い輝きを迸らせた。
「むう……」
眩しさに狭めた視界の中で、一角獣が焦っているように見えるのは錯覚だろうか。
「もういいです。大丈夫です」
どんどん強くなる光に不安を覚え始めた頃、とうとうアンが控えめな声を上げた。
光がすうっと消え、一角獣が顔を上げる。
「まさか、自ら付けた傷なのか?」
アンの顔を凝視し、声を強張らせる彼へ、アンもまた申し訳なさそうに返す。
「私が使った魔法の結果です」
「そう、なのか……すまない、自傷は無理なのだ」
一角獣が見るからに意気消沈する。
「あなたは悪くありません」
アンは穏やかに、微笑みさえ浮かべていた。
「忘れてください。私はこれでいいです」




