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第1場 ノーベス姉弟

 いつもと変わらぬ澄ました顔を見て、少しほっとした。毒で苦しみながら死んだと聞いていたから。

 もしこれで苦悶の表情でも浮かべていようものなら、あいつ以外のすべてを氷漬けにしていたかもしれない。

 眠る姉の前に膝をつき、手を伸ばす。組まれた白い手に、自らの手を重ねるようにして触れた。

 硬く、冷たい。――もう、生きていない。改めて実感するには十分だった。

 俺のたった一人の姉さん。この人の弟であることが何より誇らしかった。

 姉が殺された理由はわかっている。あいつのお気に入りだったからだ。あいつに取り入りたい連中からはさぞかし目障りだったのだろう。

 あいつとの婚約を聞いた時は、なんの冗談かと思った。こうなる危惧もあった。

 しかし嫁いでからの姉は生き生きとしていて、これでよかったのだと自分を納得させていた。

 今は後悔ばかりが胸を占める。どうすれば死なせずに済んだのか。もう一度笑いかけてくれるのか。

 だから俺は――。


 一面に青い花が咲き誇る丘、輝く薄紅色の水晶が立ち並ぶ洞窟、七色に煌めく貝殻が混じる白い砂浜と青い海――私の前に、精密な筆致で描かれた風景画の数々が陳列されている。

「風景が専門なのかしら?」

 気軽に問えば、まだ二十も半ばくらいの若い店主が柔らかく微笑む。

「はい。でもあなたのような美しい方なら、肖像画も喜んで描かせていただきますよ」

 ああ、そういうこと。ごく自然に取られた手を見て納得する。どうやら彼が売っているのは、絵だけではないらしい。

 今私がいる場所は年四回だけ開かれる国営市場プリハの会場で、客は高額な入場料を払える裕福な人間ばかり。例に漏れず、私も伯爵家の令嬢だ。

 ならば、と改めて目の前の青年を見つめる。甘く整った顔立ちにすらりとした長身、服装はお金がかかっていないなりに小奇麗な印象で、手の感触もさらりとしていて清潔感がある。そして何より、値踏み目的の不躾な視線を真正面から受け止め、ゆるりと笑う肝の太さは評価できる。

 とはいえ私はまだ親の金で生活する学生であり、そもそも男を養うような趣味もない。ここは貴族らしく、笑顔で躱して次の店へ行くかと思った矢先、

「これはプラリオの花祭りですか。お上手です」

 心地いい低さの声質と、だからこそ余計に残念な若干たどたどしい言葉遣い。完全な不意打ちに、横を振り向く。

 すぐ隣に立っていたのは、慣れ親しんだ人物だった。

「驚かせないでよ」

「すみません」

 一拍遅れでこちらを向いた形のいい薄い唇は、小さく弧を描いていた。長い前髪で隠れた目も、たぶん悪戯が成功した子供のように笑っていることだろう。

「お知り合いですか?」

 やっぱりわからないか。

「弟よ」

 弟――ルカウドが目礼する。

 似てないとよく言われるし、実際外見は似ていないと私も思う。顔立ちどころか、髪や目の色までまったく違う。

 あ、色白なところだけは似ているかも。

「うん?」

 青年の手は、いつの間にか私から離れていた。

 彼の顔を見れば、その異変に気が付く。鉄壁かと思われた笑顔が消えていた。そしてその視線は私の横に据えられている。

「綺麗な髪ですね。まるで年代物の蒸留酒みたいな、そこまで見事な琥珀色は初めて見ました。それに瞳も……青ですか?」

 隠された目許が気になるのか、青年はやや上目遣いでルカウドを見つめる。

 ルカウドが無言で私の後ろに下がる。けれどかなり長身なので隠れられるわけもない。猫背になっても無駄だ。

「あなたを描かせていただけませんか?」

「……お断りします」

 ルカウドは固い声で返事をして、こちらを窺ってくる。

 私も軽く頷き返し、青年へ向き直る。

「次の予定があるから、そろそろ失礼させてもらうわ」

「人を描きたいと思えたのは、久しぶりなんです」

「そう。でも悪いけれど、諦めてちょうだい」

 突き放すように告げ、ルカウドの腕を掴む。

 わずかな抵抗を感じはしたけれど、少し強く引けばちゃんと付いてきた。そのまま近くの出入り口へ一直線に向かう。

「どうかなされましたか?」

 悠々と歩く客が多い中、足早にやって来た私達へ若い門番が声をかけてくる。

「急用を思い出しまして」

 私とルカウドの入場許可証を確認し、門番が目を見開いた。

「ノーベス家の方でしたか」

 門番の声には興奮が滲んでいた。おそらく父の支持者なのだろう。

「お気を付けてお帰りください」

「ありがとう」

 少しでも早く立ち去りたいという本音は隠し、敬礼する門番に笑顔を返した。父の評判を守るためにも、無下な対応はできる限り避けたい。

 幸いなことに、問題の青年が追いかけてくる気配はなかった。

 ほっと胸を撫で下ろしつつ、門番に見送られながら私達は会場を後にした。


「姉さんを口説いていました」

「見事な掌の返しっぷりだったね」

 大通りの白い石畳を数えるかのように俯くルカウド。丸くなった背をぽんぽんと叩いて励ます。

「そういえば、あんたどうしてあそこにいたの? ニコルくんは?」

 友人に会うとルカウドが家を出てから、まだ二時間くらいしか経っていない。帰宅も夕方くらいだと聞いていたのに、ずいぶんと早い再会だった。

「急用が入ったようなので、早く失礼しました」

「久しぶりだったのに、残念だったね」

「用は済ましました。問題ありません」

 彼の誘いがあった昨日の朝から浮足立っていたくせに。

「取引相手の問題で、仕入れに支障が出たそうです」

「老舗の若旦那は大変ね」

 彼より年上でありながら、いまだに青春を謳歌している身としては頭が下がる。

「子供が生まれる前に落ち着くといいです」

「あと一月じゃ厳しいかもね」

 浮かない顔をするルカウドに、いい時間だから腹ごしらえでもしようと促す。

 以前見かけてから気になっていた物があると言うので、下町近くの屋台ひしめくパーラ通りへ足を向けることになった。

 それなりに移動距離があったので、到着した頃には昼時を過ぎてしまっていたけれど、それでもよそ見すれば、他人とぶつかってしまってもおかしくないほどにぎわっていた。

 パーラ通りを象徴する、人目に留まれるよう色とりどりの布をはためかせる屋台は、下町特有の白い壁の家々との対比も鮮やかで、観光客が多く訪れるのも頷ける。

「美味しい?」

「はい。一口どうですか?」

 差し出されたパンを一口齧る。木の実らしき物がぎっしり詰まっていて香ばしい。

「ありがと。美味しいね」

 さて私はどれにしようか。芳しい匂いがそこかしこから漂ってくる場所だけに、囁くようだった私の腹の虫も今や大合唱を奏でている。

「あら?」

 ふと、なんとも食欲を誘ういい香りが鼻腔をくすぐった。

 軽く首を巡らせれば、労せず目当ての屋台は見つかった。

 呼び込みをするふくよかな中年女性の横で、青年が串に刺さった肉を焼いている。

「いくらかしら?」

「牛が百ミレで、羊が八十ミレだよ」

 一本づつ注文してお代を渡す。

「グレン、一本づつね」

 来客にも顔を上げず、淡々と肉を焼き続けていた青年は、適当な肉に赤茶色のソースを塗ると、ようやく私を見た。そして固まった。

 右手に牛肉、左手に羊肉の串を握ったまま、私を見つめる青年。珍しい反応でもないので、気にせず手を差し出す。

「ありがとう」

 お礼を述べてにっこり笑いかけると、青年もぎこちなく笑い返しながら串を渡してくれた。

「お待たせ」

「……あ」

「どうかした?」

「何もありません。行きましょう」

「ふうん?」

 まあいいか。私はそれ以上深く考えることはせず、背を向けて歩き出したルカウドを追った。


「おかえりなさいませ」

「ただいま」

 玄関で私を迎えてくれた老紳士、彼ハイトラー・チャープソンは祖父の代から我が家で働いてくれている執事だ。

「良い品は見つかりましたか?」

「少しいいなと思う絵はあったんだけど、いろいろあって買えなくて」

「それは残念でございましたね」

 促されるまま上着を脱いで渡せば、ふと視界の端に黒いものが映った。

「何してんの、ノア」

 突き当りの壁から顔を半分だけ出し、こちらを窺うなじみ深い存在に一応呼びかけた。

「……ぎゅ」

 ノアは愛想のない返事とともに全身を現した。

 黒く短い毛並に、丸い顔と垂れた耳、そして金色のつぶらな瞳。子供でも抱き上げられるくらい小さなこともあり、外見だけならかわいい犬のぬいぐるみに見えなくもない。

「そういえば、ルカウド様とお会いになりませんでしたか?」

「なんでわかったの?」

「一度お戻りになって、入場証を持って出ていかれましたので」

「向こうで会って、お昼を食べるまでは一緒だったんだけどね。ニコルくんのとこに忘れ物したとかで、また別れたの」

「左様でございますか。お帰りの時間など、何かお聞きになりましたか?」

「特には聞いてない。でも遅くなるとも言ってなかったし、夕食までには戻るんじゃない? ――あ」

 そこでノアが壁の向こうに引っ込んだ。大方、大好きな主人がいないとわかって興味をなくしたのだろう。

 いつものことだと軽く流した矢先、ノアが消えた先から今度は大きな犬が出てきた。少し長い乳白色の毛並と、すらりと引き締まった長い足が綺麗な子。ルカウドの愛犬の大きい方ことシィナだ。

「ただいまシィナ――と、おかえりノア」

「ぎゅ……」

 ノアはシィナに首の皮を咥えられ、宙ずりにされていた。ぷらぷらと揺れる足が哀愁を誘う。

 澄まし顔で歩み寄ってきたシィナは、獲物をすっと差し出してきた。

「ありがとう。でもいらない」

 厚意には感謝したい。しかしノアが眉間に寄せるシワの深さを見る限り、受け取って無事で済むのはルカウドか母か父くらいだろう――おや、私以外の家族は大丈夫だな?

「ぎゅうぅっ」

 ノアが唸った。扱いが雑なのはお互い様だろうに。

 シィナは涼しい様子で頷くと、今度はハイトラーさんへ顔を向ける。

 流れとはいえ、気遣われたハイトラーさんはにこりと笑顔を返した後、とても紳士的な言葉選びで、まあ直訳すれば、いらないと答えたのだった。


 夕食後、寝台に転がって読書に勤しんでいた私の部屋を、誰かが軽く叩いた。

「話があります。大丈夫でしょうか?」

「大丈夫よー」

 扉の開閉音の後、なぜか鍵の施錠音まで聞こえて、ようやく私は本から顔を上げた。

 胸にノアを抱いたルカウドが、寝台の前に立っていた。

 長い前髪を後ろに流しているおかげで、その極めて秀麗な顔が、悩ましげに沈んでいるのがよく見て取れた。

 私は上半身を起こし、軽い調子で促す。

「とりあえず座ったら?」

 ルカウドが寝台の縁に腰かける。ついでに横へ下ろされたノアは、すかさず拳一個ほどの隙間を詰めてルカウドにくっついた。

「昼に買った串焼きの青年を覚えていますか?」

「え、うん。覚えてるけど?」

 とはいえ、改めて彼の姿を思い出しても、ごく普通の青年という印象しかない。強いて言うなら、黒髪に白髪混じりとは違う、純粋な灰色の髪を珍しく思った程度だ。

「彼がどうかしたの?」

 ルカウドはこの期に及んで迷っている様子だったけれど、とうとう、

『あの人、死んじゃうかもしれない』

 流暢な日本語で告げてきた。

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