間幕 それは遠い昔のこと 2
反射的に一歩下がる。それは隣にいるエイルも同じようで、びくりと肩をそびやかして逃げる体勢に入った。
しかし、逃走心も怖い顔をした師匠を目の前にすれば途端に萎えた。怖い。
「遅かったな、アレク。使いはどうした?」
「あの、それが」
言い訳しようとはしない、が何とか罰を軽くしようと口を開く。さすがに前回同様、剣一本でこの人と対峙したくない。真面目に死を覚悟した。
「エイルも、二人して泥だらけだな」
「師匠、それが……」
だから、あいつらの相手よりこの人の方が怖いって言ったんだ。今さっきの爽快感は全く感じない。震えるほどの恐怖が体を襲った。
「最初に手を出されたので、反撃しました」
「あー、加勢しました。利点を絡ませて」
エイルが軽く付け足す。へらりと笑ってはいたが、微妙にひきつった顔をしていた。ま、これだけ怖かったら、ひきつりもするよな。
「騎士の剣は、他人を傷つけることだけが使命ではない。この意味が分かってるな」
騎士の剣がこうあるべきだ、という類の説教はもう何度となく受けていた。
受けたからと言って、自分の中の考えが変わるわけではないが、何となくそんなものなのかと理解はしているつもりだ。
「はい」
「お前らの場合、まだ心底分かってるわけじゃないだろうがな」
二人して即答したが、目の前の人物には信じてもらえなかったらしい。木剣で上級生を叩きのめしたのだから、それも当然か。
「では、やられっぱなしでいいと?」
隣のエイルが真面目な表情でいった。諭すような師匠の声からは、自分達がしたことを非難する色が感じられる。それではやり返してはいけないと言うことか。
「そうは言っていないが、そのままではお前たちがどうにかなりそうでな」
「どうにか?」
「騎士の剣が、ただの道具になりはしないかと心配なんだ」
剣を人より上手く扱えるお前らだから。
言っている意味が分からなかった。どういうことだろう。まるで、剣が道具じゃないみたいな言い方だった。
「騎士の剣はただの道具にあらず。その意味が分からないうちは、お前らは俺の教え子だからな。分かったら、城の周り五周」
うわっと声を出したのは隣のエイルだけだったが、正直な感想は彼とそんなに変わらない。ただでさえでかいこの城の周り(しかも多分外周)を五周。
殺す気か。
「分割払いは」
「騎士隊長の名を冠する人間と一対一でやりあいたいなら、相手をするが」
エイルが言おうとした言葉を遮って、師匠は笑った。その笑みに背筋が凍りつき、そのまま回れ右をしたくなった。このまま部屋から出たい。
「い、いってきまーす!!」
「行って、きます」
お互いで顔を見合わせて、なんとも形容しがたい表情をした。どちらが悪いと言うこともないので、抗議さえできない。
「しばかれるって言うから、まじかと思った」
「いや、どっちか一人だったらやられてた気がする。あの人、やるって言ったら、本当にやる人だから」
外門を出ようとすれば、すかさず近づいてくるのは師匠の教え子か部下だ。すでに何年も城に住んでいるので、顔見知りの数も多かった。
「お、今日も出てきたな。坊っちゃん」
「その呼び方やめてください。今は皆さんの後輩ですよ」
「いやいや、あの小さかった坊っちゃんがまさか騎士を目指そうとはなぁ。まあ、敬語を使う気にはなれないが」
この妙に馴れ馴れしい感じも、特別にへりくだらない感じも好きだった。それは剣を初めて持ったときから変わらない。ここは居心地がいい。
公爵家の次男坊だろうと、黒髪黒目を持っていようと関係ないのだから。
「走るんだろ? また、やらかしたのか……。しかも特別枠共々」
「お前ら、問題起こすの上手いよなぁ」
二人の門番は交互にエイルと自分を見て苦笑いした。問題をよく起こしている自覚はあるので、否定しない。
確かに、この門をこういう目的で出るのは初めてでなかった。というか、一週間前に出たばかり。
「上手いって言うか、かわし方が下手と言うか?」
エイルが笑った。確かに、下手なのかもしれないとため息をついた。もう少し年を重ねれば、思慮深くなれば、慢心がなくなれば……こんなことはなくなるんだろうか。
「この前はお兄ちゃん侮辱されたんだっけ?」
「兄の努力も知らず、ただ資格がないと騒ぎ立てる人間を心底軽蔑します」
自分の悪口はまだよかった。
我慢できるし、事実であることも多いから、腹をたてる必要もなかった。貴族の地位を捨てたのも、家を継ぐ資格や責任から逃れたのも紛れもない事実だった。
少し人よりできるだけで、世の中を知ったつもりになるような傲慢さも、確かに持ち合わせていたし、見下すことだってないとは言い切れない。
だから、その指摘は甘んじて受けるつもりだ。だが、人より努力して、家を継ぐ資格を手にしようとしている兄を侮辱することは許せなかった。
何も知らず、自分は長男ではないからというだけで全てを諦めているくせに、兄のことはバカにするなんて実に愚かだ。
あの人は誰より跡取りに相応しいのに。一人の少女のために全てを捨てることができてしまう自分は、あの地位に相応しくない。
家や爵位に執着がないのだから、それも当然だった。
自分にできることは、それを父に伝えることだけだった。しかし、兄はそう思っていないらしい。正式に家を出ると決めた日、母は泣き崩れ、まだあどけない妹は足にしがみついた。
そして兄は、幾度も幾度も説得の言葉を口にした。何も言わなかったのは、時前に説明していた父だけだった。
母は泣きながら『跡取り候補でしょう?!』とすがった。それが嫌なのだと、耐えられないのだと、いくら説明してもダメで。
兄に至っては、『僕に遠慮なんてしなくていい』と言った。そのとき感じたのは、絶望というに相応しい感情だった。
結局のところ、この髪と瞳の色は兄を傷つけるものでしかないのだと。
逃げたところでそれは変わらず、一生兄はそう思って暮らさなければいけないのだと。
「まぁ、お兄さんの件は弱小貴族でさえ知ってるからな」
気にするな、と門番の二人は笑った。気遣いがわずかに感じられて申し訳なくなり、頭を下げる。嬉しくて、情けなくてどうしようかと思う。
この漆黒を跡取りの資格としか見ない人間だけではないのだと感じられた。そう思いつつ、空を見上げた。
この漆黒をきれいだと笑った少女が浮かぶ。
自らの金糸よりきれいだと。何にも染まらぬその色は、強くて清らかなのだと。拙くも、精一杯の言葉で。
「強く、なりたいんです。僕」
ぽつりと出た言葉は紛れもなく真実で、ここへ来る前に何度も自分に言い聞かせた呪文だ。何度も何度も繰り返し、自分の中に刻み付けた。
消して忘れてしまわないように。
色褪せて、選択を間違えないように。
「強く」
心は弱いままだ。多分、騎士になっても変わらないだろう。
だからせめて、他のことでは強くあろうとした。それくらいしかできないということは、変えようがないほど正しいから。
「お前らにも、いつか分かる」
「騎士の剣が、本当はどんなものか。何のために使うべきものなのか」
二人して悟ったように言う門番へ笑った。分かっているつもりなのに、誰も彼もが自分にそんなことを言う。剣が何のためにあるか、なんて。
「俺たちはまだ分かってないと?」
「少なくとも、今のところは手がかりさえ掴めてないな」
自らの道を塞ぐものを切り捨てるためか。
王のために敵を切り捨てるか。
大切な人を守るために、向かう敵に刃を向けるか。
どちらにしろ、剣を持つ以上は、人を傷つけることになるんだろう。エイルの言葉に答えた騎士は、こちらに手を伸ばして頭を撫でてきた。
「お前らは優秀であるがゆえに見つけにくいだけかもな」
「僕たちが」
「優秀だから?」
何が言いたいのかわからず首をかしげた。優秀ならば、分かるはずではないのか。誰よりも早く、正確に。
「ま、難しいよな」
一人が納得するように笑い、もう一人が微苦笑して背中を押してきた。さっさと走ってこいということか。
「ほら、行ってこい」
その背中に受けた言葉によって足を進めた。騎士の剣の、本当の意味というものを見つけるために。
「なぁ、アレク。俺ら、異常なのかもな」
「今更だろ」
息が程よく上がるペースで走り出し、城の周りをぐるりと回る。もうすでに何度もやってきたことなので、最初のように意味なく息を乱すこともない。
「お前はあれだろ? 貴族の義務ってやつを捨てたんだろ」
「あー、高貴なる者の責務、な。あれは兄みたいな人間が守るべき決まりみたいなものだ。僕にはあまり関係ない」
関係ないのも甚だしい。あの人みたいに、自分の領地を大切にしたいと思う心はない。自分はただ、自分が大切なものを守りたいだけの、勝手な人間だ。
「エイル。僕には騎士の矜持なんてない」
「偶然だな、俺もないよ。騎士の矜持」
俺は仕えるべき人に、仕えたいだけだ。
「恩があるから仕える。その方法に騎士が手っ取り早かったから入っただけ。別に、剣が得意とかそんなことはない」
似たもの同士なのだろうか。全く違う、対極同士なのだろうか。
そんなことを思いつつ、角を曲がった。遠くの方に見える塔が彼女がいるところ。今日もあの部屋で、一人勉強に勤しんでいるのだろうか。
『リシティア様』と読んだ瞬間、引きつった顔を見せたあの少女は。
「僕は勝手だから、守りたいものの心を傷つけてまでここに来たんだ。今更後戻りなんてするつもりはない。たとえ矜持がなくても、騎士の剣がどんなものであろうと」
たとえ彼女の瞳に絶望が宿ろうと、自分が彼女の隣に立てなくなろうと、自分は自分のやり方で彼女を守る。それのどこが悪い?
「さっさと終わらせよう、師匠が怖い」
「俺も怖いよ。じゃ、負けたほうがもう一周な」
「なっ! 卑怯だぞ!!」
「卑怯? 負けるほうが悪いんだ」
笑いながら走り出した自分たちを、仕方ないという視線で見守っていた人間がいたことを知らずにいた。
彼女を傷つけてでも守る。
開き直ったのは幸か不幸か。
それを判断する術を、あの頃の自分は持っていなかった。
彼らはずっと、そういう感じで騎士をやってきました。それでも他人から見れば、彼らは正真正銘の騎士であって、その矜持があるように見えたんでしょうね。
そんなお話でした。