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姫と騎士  作者: いつき
本編
5/127

第5話 『私情』

ラストです。流血苦手な方はお気をつけ下さい。

 誘拐犯たちのことを一軍の隊員に任せ、アレクとエイルは当事者二人を連れ帰った。一人は病院に縛り付けられ、一人はイリサと侍女頭、大臣とアレクにしっかりと絞られた。




「あぁ〜」

 外出一ヶ月禁止(元々王宮から出るのは禁止なのだが……)、及びいつ何時も必ず見張りをつける……の罰を受けて、早一週間が過ぎようとしていた。

 早くも辛くなっているティアはちらり、とイリサの顔を見やる。幼い頃から一緒で、いつもわがままを聞いてくれるイリサだが、今回ばかりは怖いとしか言いようがない。

「イリサ」

「何でしょう、ティア姫」

 感情の"か"の字も出てこない声に眉を顰めた。完璧というしかない、非の打ち所のない笑顔の後ろになにやら黒い炎が燃え上がっている気がするのは、どうやらティアの見間違えではないようだ。

 おどろおどろしい雰囲気に他の侍女はびくびくしていた。窓の外を見てそこに見知った顔を確認すると、何かを思いついたように笑顔になる。もちろん、イリサに分からない程度にとどめておかなければいけない。

「イリサ。わたし、少し下へ降りるわね」

「ひ、姫さ……」

 "姫さま"と最後まで呼ぶ暇も与えず、走り去るティア。あちこちにいるティア専用の監視の目をくぐるのはそれなりに苦労するが、なんとか『目的地』までたどり着く。

 すると一斉にいくつもの目がティアへと注がれる。

「姫様!!」

「リシティア様……」

 それと同時に焦ったような声が二つ聞こえる。二人と目が合うとティアは少しだけ、本当に少しだけ苦笑を混ぜたような笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。二人とも。外へ出して、なんて無茶は言わないわ」

 胸を張ってそう言うと、二人はあからさまに安堵して、胸をなでおろす。しかし……。

「禁止令及び監視令を取り消してちょうだい」

 根本的な問題になり、二人は再び顔を青くする。一方ティアは自分の考えの正しさを思い、うんうんと一人で頷いた。と、そこへエイルの部下と思わしき人物が一人、こちらへとやって来る。

「エイル隊長、アレク様。ついに証拠を押さえました」

 ぴしり、と背筋を伸ばし、誇らしげな顔の中に笑みを混ぜている部下に対し、二人のうち一人は髪をかき上げ、一人は額に手を当てて俯いた。

 その様子を訝しく思い周りを見渡せば、他の騎士たちも首を振ったり、人差し指を口元持って行ったりしている。

「あの……。俺何か……」

 そう言うと同時にティアの姿を見止め、そのまま硬直した。そしてそのまま回れ右をして、走り去ろうとする。

「何の証拠です?」

 しかし憐れなことにティアに襟を掴まれ、そのままズルズルとティアの顔の前へ引っ張り込まれてしまう。

「あ、あのですね、姫」

 何とか言い訳をしようとするが、なかなか思いつかず助けを求めるようにアレクたちを見やる。しかし皆、あちらこちらに視線をやり、部下の方を見ようとはしなかった。

 ティアは至って笑顔なのだが、どうにも無言の重圧を感じてしまい、部下は一歩下がった。

「王女の命令……よ?」

 こう言われれば、もう言うしか道は残されていない。アレクとエイルは小さく空を仰いだ。




「で、何の証拠なのかしら?」

 ティアの自室より少し小さめの執務室。王、つまりは父から『政治について学べ』と言われ、与えられた部屋にティアたちはいた。

 座り心地の良さそうな、どっしりとした深い色の椅子。マホガニーという名の高級樹材をふんだんに使ったそれにティアは右ひじを付き座る。

 右手の手の甲に頬を乗せ、不躾にアレクとエイルを見やる。いかにも高飛車な王女様のような格好はいつものティアとは正反対だ。

 しかし、妙なことにそれが意外に様になっていた。

 足首だけで脚を組み、背凭れに体重を掛ける。ティアを見つめたまま沈黙を守る二人を優雅に見下ろしていたが、やがて小さく息を吐くと顔を上げるように促した。

「二人を困らせたくて聞いているんではないわ。それは分かっているでしょう? ただもし……。

ノルセス大臣に関係することであれば、話してもらおうと思っているのよ。決してわたしに無関係なわけではないのだし」

 ノルセス大臣と言う単語にアレクは眉を顰め、エイルはわざとらしく肩をそびやかした。そして小さく、「どこからそんな情報を手に入れるのやら……」と呟く。

「姫様、これはですねぇ」

「もし嘘をついたり、誤魔化したりするようなら……。この件、プルーに知らせるわよ」

 何とかこの場を誤魔化そうと、いつものようにのらりくらりかわそうとしていたエイルにティアは容赦なくカードをきった。

 プルーと言う名の、エイルにとってはジョーカーとも言えるカードを。

「さぞやプルーは現場に出たがるでしょうね。なんせ、誘拐された被害者なのだから。さぞかし犯人を捕まえたがっているでしょう?

犯人のことを知りたがるのは当然のこと。そして知る権利もある。ましてや彼女は国の秩序を守る警備隊の精鋭軍である一軍の副隊長……。このことを知るのは義務といっても過言ではないはずよ。そうでしょう?」

 エイルが恐れていることを事も無げに言った。そして言外でプルーに入る情報を制限しているエイルを責める。

 何故言わないのかと……。エイルがプルーに黙っている理由を知りつつ、それでも問うた。

「エイル・ミラスノ一軍隊長。あなたのお考えはわたしには計り知れないけれど、後で知れたとき……平手ぐらいは覚悟しなくてはね?」

 プルーの体を心配して言わなかったにしても。多分それだけではすまないだろうけど――。

 ティアは皮肉気に言った。そして椅子に掛けていた重心をゆっくりへと前に移す。両肘を肘掛に置き、そして顎の下で白い手を小さく組んだ。

 優雅なその仕草は、一幅の絵のように美しく……それでも、アレクたちには凄まじいほど禍々しく移る。

 滅多なことでは紅を刷かない、薄桃色の唇が柔らかな弧を描く。

「プルーも当事者……、そしてわたしもまた当事者。知る権利は十二分に備えているはずだけど?」

 目をそらすことも……ましてや逃げることもできない状況。エイルは痛いところをつかれ、下唇を噛みしめて下を向いた。その様子を隣で見ていたアレクはやっと口を開く。

「リシティア様のお察しの通り……仕組んでいたのはどうやらノルセス大臣らしいです。ノルセス大臣はシエラ様の母君であらせられるヴィーラ様の実家の親戚筋。

当然、世継ぎ問題ではシエラ様側についています。今回やっとノルセス大臣とプルーを攫った盗賊との関係が掴めました。明日には捕縛になるかと」

 ティアとは目さえ合わそうとせず、跪いたまま言う。主にしか行わない最高礼の格好を作りつつも、決して服従しているとは思えない態度。

 しかしティアはそれを見ても怒ることはなかった。ティアの顔から色と言う色は抜け落ち、震える両手は膝の上に置かれた。

「アレク……」

 その問いに返事はない。しかしティアは構わず続けた。

「ヴィーラ様……お母様、とわたしが呼んでいいのか分からないけれど。お母様は無関係よね? だって、そんな……お世継ぎに興味のあるような方ではないもの。

お父様が好きで、愛していらして、お父様の傍にいるためだけにここにいらしたのよ。自分の地位など、シエラが幸せそうなことに比べれば、何でもなさそうにしている人だもの。そうよね?」

 確認のような問いかけに、答える声はない。縋るような問いかけにアレクも――エイルも目を逸らせた。ティアはますます白くなった手で肘掛を握る。

「まだ……」

 やっと返ってきた声は小さい。けれど誰も話さない空間ではよく響いた。

「まだ何とも言えませんが……わたしたちは、王妃も今回の計画を知っていて何も言わなかった、と言う方向で調べを進めています……」

 今度こそ……ティアの顔から血の気が引き、白――というよりは青と言った方がよい顔色になる。しかしそれもすぐに治った。

 アレクたちが次に見たのは小さく喉を鳴らして笑うティアだった。

「もう……いい。いいの。結局信じられるのは自分だけって分かってるつもりだったのに。なのに、甘えて、信用して、人を傷つけたのはわたしだから」

 その笑みに嬉しさや喜びといった感情は全く感じられず、アレクは思わず「リシティア様?」と問いかけた。しかしティアはその言葉に反応することなく、自分の言葉を続ける。

 ティアの笑いは愚かな自分自身に向けた、嘲笑なのかもしれない。

「信じられるのは……誰なのかしら?」

 その声に、笑みに……宿るのは狂気のみ。何も知らなければ見惚れるであろう美しい顔……しかし今はそれを怖いとしか認識できなかった。





「リシティア姫様……。ノルセス大臣が謀叛の疑いで警備隊に捕縛されました!!」

 最近ティアに使える部署に来たばかりの侍女は冴えないみつあみをばっさりと切り、可愛らしくなった。

 その侍女が焦ったように扉を開け、大きな声で言う。それと同時に『騒がしいですよ!! ティア姫の御前だということをお忘れですか!』とイリサの怒声が飛ぶ。

「かまわないわ。イリサ。その子もそれだけ驚いたのね」

 ティアは優しく微笑むと、ドレスの裾を翻し部屋を出る。今度ばかりはイリサも何も言わなかった。

 カツカツカツ、決して高くない靴のはずなのに、ヒールの部分が前へ進むたびに鳴る。

 足音が大きいなんてはしたない、と良家の子女が見れば眉を顰めるであろう、その行動を咎める者などいない。咎める余裕などすでに皆持ち合わせていなかった。

 議会の間は知らせを受けた大臣が集まって、それぞれが小さく慌ただしく話をしている。それらに埋もれるようにしてアレクとエイルもいた。

 ティアが一歩、踏み出す。

 "カツ"

 と、また大きく音が響いた。大臣たちの話し声の所為で響かないようなヒールの音が嘘のように部屋中に浸透していく。

 途端、ざわついていた部屋は静寂に包まれ、大臣や官吏は跪き、玉座までの道が一気に開く。ティアはそれを一瞥もすることなく足を進めた。

 コツ……コツ……。先程まで荒々しかった足音からは想像できない穏やかな足音。小さい音しか聞こえない。

 取ってつけたような優雅さで玉座に座ると、やっと大臣たちに目をくれた。

「頭を上げよ」

 その声が全体に行き渡る前に大臣たちが一斉にティアを見つめる。それを見てティアは口元にだけ笑いを浮かべた。大臣たちはじっとティアの声を待つ。

「皆の意見が聞きたい」

 何に対して……とは言わない。わざと、言わない。言わなくても大臣たちは口々に言い募った。

「裁きを」

「制裁を」

「罰を……」

「刑を……」

「死を……」

「「「「「姫様の御名において」」」」」

 その答えをティアは少なからず予想していた。大臣たちの後ろにいる二人を見やり、それでも表情一つ変えず、大臣たちに向き直った。そして、ゆっくりと一つ、頷いた。

「それでは、向かおうか? 裏切り者の元へ」

 玉座から立ち上がるティアに大臣たちは口々に言う。

「「「「おおせのままに、我が次期王」」」」

 大臣たちは頭を下げ、ティアの後ろについた。





 『裁きの間』王宮の地下にある普段では使うことのない部屋。窓もなければ光も入ってこない。重罪を犯した人間を裁き、死に追いやる場所。

 数十年使われることのなかった部屋。ユリアス王が即位してすぐは、謀叛が相次ぎ……何十人と言う人間の死を送り出してきた。

 しかしここ数十年はユリアス王の良政が続き、この部屋を使うような事態など起こったこともなかった。

 ティア自身……、自分が生きている間に一回、入るかどうかだと思っていた。もしかしたら一生入らないまま人生を過ごすかもしれないとも思っていた。また、入るとしても……もっと遠い未来の話だと思っていた。

 無駄な装飾は一切なく、冷え冷えとした雰囲気に包まれる。

 岩から切り出したばかりのようなゴツゴツとした壁と大理石の机と椅子。そして一番高いところには大きくて、一際目立つ玉座がある。ティアは息を小さく呑むと一歩を踏み出した。

 大臣たちは物言わず、席に着く。全員が席に着いたところでエイルがノルセス大臣を引き連れてきた。

 粗末な服とあちらこちらにつく血。その顔は苦しみと疲労感に彩られ、生気も何もない。しかし、虚ろな瞳がティアを捉えた瞬間、その顔に憎しみの表情が加わった。

 声を出すことなく、しかし絶対的な悪意を持って。ノルセス大臣……いや、もう大臣の職を失ったただの貴族は玉座か三、四m離れたところへ跪かされた。

「カロス・ノルセス」

 今までにないほど冷たく、低い声。決して大きくない声は、しかし部屋全体に届く。

「あなたはわたしと、この国を裏切り、己の利潤に溺れた」

 ティア以外の音は何一つない。

「王族に反旗を翻す者――之、重罪なり。その者に、未来はなく……その身を以って、その罪を償うべし。

わたしの、リシティア・オーティス・ルラ・リッシスクの名において……。カロス・ノルセスの死刑執行を許可する」

 その声に、その顔に、その胸に……。悲しみが映ったが分かった人間は一つしかいない。

「エイル隊長」

 小さくティアが呼ぶ。エイルは傍にいた兵士にノルセスを縛っている縄を渡し、ティアに近づく。

 人の手から縄が離れたのは、本当に一瞬。……しかし、今のノルセスには十分な時間だった。

 ノルセスが兵士に体当たりし、兵士の手から縄が離れる。体当たりした瞬間、ノルセスは兵士から剣を奪った。エイルが慌てて戻るが、一拍遅く……むなしく手は宙を掴む。

 他の大臣たちが何か叫んでいるのは認識できるものの、ティアの耳には何も入ってこない。ただ呆然とノルセスを見ていた。

「逃げろ!!」

 なのに何で……この声だけは鮮明に聞こえるんだろう。周囲があやふやな中その声だけは何故かはっきりと聞こえる。


 誰の……声だっけ?


 ノルセスが剣を構える。ギラリと裁きの間の淡い照明が剣に反射して、明るい色を放つ。昔の思い出が脳裏を駆け巡った。


 この光景はいつかの……? 見たことあるのに……あれはいつだった……? 確かあれは……五年前の……?

 嫌な思い出。忘れたくて、記憶を消したいくらい嫌で……。

 それでも……守りたいものが分かった事件。


 ギラリと輝く刃物。恐怖に染まる女の顔。そのどれもがつい昨日のことのように思い出される。あの時の男の表情にノルセスの顔が重なった。

 手には剣……。あの恐怖が蘇り、懐にある小剣さえ思いつかない。

「逃げろ!!」

 もう一度、あの声が聞こえる。あの時には聞こえなかった声。しかしティアの体は動かない。動けない。目の前にはもうノルセスがいる。

 "助からない"

 それが直感で分かった。

 しかし突如、黒いものに包まれた。親しみのある、優しいぬくもり……。あの時の光景がフラッシュバックのように再び脳裏を駆ける。

 迫ってくる男。必死に走るティア自身。光る刃物。そして……頬に感じる、ねっとりとした生暖かい血。緋色の花を咲かせる――白いドレス。

「アレク……」

 そう呼ぶ声が、重なった。あの頃の自分の声と。ヒクリと喉が鳴る。息が一瞬詰まった。息が吸えず呼吸が出来ない。

 しかし次の瞬間、恐怖に思考が捕らわれた。火のついたような悲鳴が口から出る。

「いやあぁぁぁぁ!!!」

 自分を包む黒い衣を掴んだまま、崩れ落ちるように膝をついた。ティアには何も見えていないはずなのに……。


 ティアをかばったアレクが、どうなったかなんて……見えないはずなのに。


「やっ……。やぁぁぁぁ!!」

 ドクドクと頭の中の血が音を立てて流れる。耳元でなるその音が、ひどく煩い。自分の声さえひどく遠く感じた。

 何をしているのか、何がしたいのか、ティアにはもうそれを考えるだけの思考が残っていなかった。

 ただ叫び続けた。叫ぶことで無意識にある事実から目を逸らせたかった。それでも……それでも涙を流さないのは最後に残っているプライドか自制心か。

 ガクリと跪いていた体が完全に床へ座る。それと同時に体を包んでいた黒いものも離れた。

「リシティア様」

 左頬に少し冷たい手が触れる。輪郭を確かめるような触り方だった。その声と感触がティアを正気へ一気に引き戻す。ティアはゆっくりと顔を上げ、アレクを見つめた。

「アレ……ク?」

 ひどくかすれた声にアレクは眉を下げた。そして小さく「私から離れて下さい」とティアの体を押し返す。力の抜けたティアの体は驚くほどスムーズにアレクから離れた。

 その時ようやく

「リシティア姫!! 御無事にございますか?!」

 と大臣たちの声が聞こえた。しかしティアには聞こえてもそんなことは関係なかった。

「アレク? どうし……」

 そこでティアの思考が再び止まる。自分の薄い、白青色のドレスがいつの間にか緋色に染まっていたから……。いつかのように、滅多に目に入らない、鮮やかな緋色が視界を染める。

「アレク!!」

 もう答える声はなく、大臣たちもようやくティアからアレクに心配の矛先を変えた。

「アレク殿?!」

「ノルセスを見事斬ったのではなかったのか?」

「ノルセスが刺したのか!?」

 様々な声が四方から飛び交い、ティアは声なく立っている。

「姫様、退いて下さい」

 丁寧だけれど、抗えないような強い力でアレクから引き離される。ティアは抵抗さえせず、大人しく離れた。エイルの声もひどく震えている。

「おい、アレク!! 意識飛ばしたら殺すぞ!!」

 自分の黒いマントを手早く外し、傷口をきつく締め上げる。――黒い布は瞬く間に血を吸い、禍々しい黒へと変わっていく。

 あまり色は変わらないのに……湿って、重くなっただけのようにしか見えないのに。黒の中に仄かな紅い色が混じる。エイルはそれを見て舌打ちをした。

「医者はまだなのか?!」

 荒々しい声に大臣たちは首を振って答えた。バタバタと騒がしい足音と叫ぶような大きな声……。裁きの間が先程とは打って変わり、煩くなる。

 ティアはその波に流されることなく、しかし今にも倒れそうなくらい弱々しく立っていた。

 先程の狂ったような悲鳴を思い出し、ティアは奥歯を目一杯噛みしめ、声をせき止めた。これ以上冷静さを欠けば、大臣たちを不安にさせる。

 皆が一番不安な時に、王族はしっかりしなければならない。そうしなければ、即ちそれはそのまま国の亡滅へと繋がる。

 ティアたちが、一番しっかりしなければいけない時は、一番苦しくて動転して、どうにもならなさそうな時だ。

 こんな時まで国のことを考えている自分に驚きつつ自嘲した。どうしてこうなんだろうと……とティアは口の中で呟く。

『どうして。なんでこうまでしてわたしは、この国を守っているのだろう……』

 しかしその問いはアレクの声でかき消された。

「エ……ル。リ……ティア、様は……?」

「無事だよ。どっかの馬鹿の無茶なお蔭でな」

 エイルがティアの方を向き、そっと手招きする。その手に吸い寄せられるようにティアはアレクの傍らに膝をついた。

「アレク?」

 呼びかけるとアレクの顔がティアの方を向く。なのにその目はティアの目とは合わず、他のものさえ映してはいない。

「リシティア様……」

 吐息と一緒に漏れるような声。それと共に赤い霧が散りティアは目を見開き、そっとアレクの手に自分の手を重ねた。

 アレクの声はいつも少し高くて、がっしりとした低い声の騎士たちの中でも一際よく聞こえた。

 騎士になった者たちの中には、家が貧しくて家の為に王宮へ入ったと言う人間が多く、様々な地方の訛りが聞こえる。それだけに訛りの一切ない、綺麗な音はとても耳に心地よくって……。

 自分の回りに居る人間は誰もが王都育ちで、訛りなんてないのだけどアレクの紡ぐ言葉だけは、特別綺麗に聞こえた。

 そんなことをぼんやりと考える。

 それでももう――そんな声は聞こえてこなくて、何かが詰まったようなくぐもった声しか聞こえてこない。

 ティアはアレクの手を握ることでしか、アレクの呼びかけに答えられなかった。口を開けば、多分取り返しのつかない言葉を言ってしまうだろうと自覚している。

「離れて下さい」

 弱々しく手が振られた。力を殆ど入れていない右手はアレクの手からあっけなく外れた。ティアの口が「え?」と動くが声は出ず、代わりに小さな息が漏れた。

「どうして、そんなこと……」

 言葉が続かない。

「血が……穢れが、リシティア様に……」

 その言葉にティアの感情の押さえが切れた。感情が器から溢れ出す。

「どうして!!」

 かすれて、痛々しいほど震える声。

「そんなこと言うの?! 思うの?!」

 幼くて、余裕のない口調に大臣たちは次々と席を立っていく。もう見ていられないというように目を逸らして、悲しげに眉を顰めて医師やその他のことを確認すると言って裁きの間から出て行く。

 大臣たちは目に入れることを拒んだ。

 目を見張るような鮮やかな緋の海で、ドレスを染める幼さの残る姫は何故かとても美しく……そして禍々しい。不吉なものの象徴のように。

 二人の将来が、気持ちが容易く想像できて、痛くて苦しかったのだ。

「アレクが守ってくれたからわたしは助かったのに……。なのにアレクの血が穢れだと言うの?! それがもし……本気の言葉なら、わたしは本当にあなたを切り捨てるわ!!」

 その時医師がやっと到着し、ティアは無理矢理引き剥がされる。ティアは放心したように医師に体を任せた。そしてアレクに向かって言う。

「わたしはもう、汚れている。あなたがいう『穢れ』を受けているわ。ドレスではなく、手ではなく……それは心、よ。

五年前、あなたに庇われて助かった、あの日から!! わたしの心は血で汚れ、償うことも消すこともできない罪を負った。

一生背負い続けなければいけない、いいえ、背負い続けていても、死んでも消えない罪を追った。あなたを犠牲にしてまで助かったその時から、わたしはもうすでに罪に犯されている!!

そうでしょう?! それがこれで二回目。わたしは五年前のことを後悔しながら……同じ過ちを――犯してしまった」

 アレクが大きく目を見開き、何ごとか口を動かしたがそこで意識を閉ざした。





 初めて俺が彼女と出会ったのは……。俺が八歳で、まだまだ何にも分かんなくて、ただ父に付いて行った王宮で父とはぐれた時だった。すこし暖かさのある、春の初めだった。

 美しいブロンドを邪魔にならないように結い、男の子用の稽古着を来て一身に剣を振っている女の子。

 時折剣の重さに耐え切れず、危なっかしくこける女の子。蒼……とでも言うのだろうか少し暗めの青い瞳は、キラキラと楽しそうに光り柔らかな春の光を受けると翠に変わる。

 今思えば、その時もう俺の心は捕らわれていたのかもしれない。それともあの時からじわじわと惹きつけられていたのかもしれない。とにかくその子と話してみたいと思った。

 数日後、父が姫の相手をしろと言った。八歳といってもれっきとしたボールウィン家の次男。

 兄に負けないくらいの勉強の才をすでに見せていた俺は、父の思惑をはっきりと分かった、つもりでいた。兄はボールウィン家を継ぐので婿にはなれない。しかし次男なら問題ない、つまりはそう言うことだと思っていた。

 父がそう思うように仕向けたとも思わず、生意気にも父の考えていることが分かったような気でいた。

 彼女と会ったとき、一瞬であの時の子だと気付いた。しかし何かが違うとも思った。女の子らしく美しいドレスを着て、礼儀作法を欠くこともない。 

 だけど顔が……作り物のような表情しか映さなかった。あのキラキラとした瞳は嬉しそうに細められているが、ちっとも笑っているようには見えず虚ろだった。

 その顔を、あの時の顔に戻したくて、話しかけた。

「剣、好き?」

 それが初めての言葉。礼儀知らずにも名前を名乗らず、しかも敬語を使っていない。後で父にすごく叱られた。しかし彼女はそれを聞くとパァっと顔を綻ばせた。

「あなたは剣がお好きなの? わたくし、大好きなの。同じお年頃の子もいらっしゃらないし、お師匠様にも勝てないからお仲間が欲しいと、ボールウィンのおじ様にお願いしていたのよ? 

さすがはおじ様!! ご自分のご子息様を連れて来られるなんて!! ねぇ、相手して欲しいのだけれど」

 矢継ぎ早にそれだけしゃべって、彼女ははっとしたように口元を押さえた。貴婦人はそんなに早くしゃべっていけない、というのがこの国のマナーだ。

 かろうじで丁寧な言葉遣いだが、口調がはしゃいでいるのでそんなに肩苦しくはなかった。

「わたくしの名は、リシティア・オーティス。ルラ・リッシスク。長い名前でしょう? 今年、五歳になったの。

ユリアス王の唯一の妃、クラリスの一人娘よ。あなたは……ボールウィン家のご子息、アレク・ボールウィン殿ね。

わたくしのことは『ティア』と呼んでちょうだい。お母様もお父様もそう呼んでおられるから」

 先程までの作り笑顔はどこへやら、すっかり剣を一心不乱に振っている時の笑顔で話す女の子は敬語を話すのが少し苦手な子だった。

 少し寂しがり屋で、恥ずかしがり屋。誰よりも自分を愛して欲しくて、でも皆が大好きだから迷惑をかけることなんてできなくて、一人で何でも我慢してしまうような子。

 意地っ張りで、素直になれなくて、そんな自分が嫌いで悩んでいるような子。ティアの本当の姿はそうだった。

 国王と王妃が大好きで、でも近くにいない二人の愛情を確かめる方法を知らず、一人で泣いているような子だった。

 だからいつだったか言った気がする。寂しい時には傍にいると。大切だから。約束したはずだった。あの時はそれができると思っていたから。

 初めて話したその日に、お互いへ敬語を使うことなく、『ティア』と『アレク』で呼び合うことを約束した。これだけは父に言われても直さなかった。

 ティアはとても剣が強くて、今まで人に何か負けると言うことを知らなかった俺は追いつきたくて、勝ちたくて毎日必死になって練習した。

 ティアに負けないように、これだけが当時八歳だった俺の唯一の目標だった。


 目標が変わったのはそれから一年後。九歳になり、やっと剣でティアに勝ち続けることができるようになった時のことだった。ティアの母である、クラリス様が亡くなられた。

 明るくて、優しくい王妃はみんなの人気者で、ティアに受け継がれたブロンドがとても美しい人だった。

 病とは無縁で『わらわは風邪もひかぬ。何やらは風邪をひかぬと言うであろう?』とみんなを笑わせるような人だった。その独特の言葉は俺の耳に今でもはっきりと残っている。

 王妃は元々旧都、今の王都よりずっと北の方の出身で、そこの言葉……特に高貴な出(元王族)でその貴族特有の言葉だと教えてもらった。

 なのに……突然すぎて初めは誰一人として信じなかった。特に王妃が大好きだったティアは手がつけられなかった。

 泣きはらして腫れた目に新しい涙をため、弱々しい声で何度も……ありとあらゆる言葉で医師を責めた。

「何で母様がお亡くなりにならなければいけなかったの?! あんなに昨日は元気だったのに……。

なのにどうして……。藪医者!! 人でなし!! 人を助けられないのなら、医者なんて辞めてしまえ!!」

 多分ティアにだって分かっていたはずだ。王妃の病気は突発性のもので、誰もが予測することができないことだったということを。

 いくら優秀な医師がいたとしても助けられなかったということを。

 それでも……。ティアは責めずに入られなかったのだろう。何かを責めていなければどうにかなってしまいそうだったのだろう。

 医師たちもそれが分かっていたので、言葉を発することなく、許しを請うこともなく平伏した。その時俺に何かする力はなかったし、ましてや慰めようなんて思いもつかなかった。

 ティアと同じくらいまた俺もショックを受けていて、泣かない為だけに頭を使っていた。

 その日を最後に……ティアの涙を見ていない。何人たりとも。お付きの侍女のイリサでさえ。

 "今"のティアになった。いい意味でも、悪い意味でも。威厳があり、前のように無邪気に甘えてこなくなった。

 王女としての自覚を強く持ち始めた。プライドが高く、王女と呼ぶに相応しい――。

 そんなティアを見て、張り詰めたような糸を見て、いつかは切れてしまうんじゃないかと思った。壊れてしまうんじゃ、と。壊れる前に、何かしたいと思った。守りたいと、思った。

 その日から『ティア』と呼ぶのを止めた。気安く話しかけることを止めた。ティアを守るために騎士になると決めた時……。父は笑って、こう言った。

『お前にはなれない。リシティア姫をまだティアだと思っているお前には私情が入りすぎている。傷付けはしても、守れはしない』

 聞き分けのない小さな子どもに諭すような口調で、自分の気持ちが、私情でティアを守りたいと思っている気持ちが見透かされた気がした。

 でもあのまま過ごしていたら、父は間違いなく俺をティアの婿にと王に勧めただろう。それは嫌だ。

 ティアが嫌いなわけじゃない。むしろ好きで、大切にしたい。でもだからこそ、父たちの命令でなんか一緒になりたくなかった。

 そんなことをしたら、ティアはもう一生俺に心を開いてくれないと言うことが、嫌というほど分かっていたから。

 だから意地になって、私情を捨てたふりをした。形だけは捨てた。めったに話さず、言葉をかけることもなく。だけど、それでできたことと言えば。

 本当に父の言うとおり、傷付けることしかできなかった。守ることなんてできなかった。  

                 

 自分が傷付くことで、もっとティアを傷付けていた。

 でも。五年前の一三歳の時は。見習い騎士からやっと正式な騎士になり、ティアの護衛を任せられた時は……。

 自分の身を盾にしてまでティアを守ることで、ティアを守れると思っていた。いや、あの時そこまで考えられていたかというと正直、よく分からない。

 ただ心の芯が冷えた。無理無茶をするのはティアの得意なことだが、あそこまでするとは思わなかった。

 ただティアが自分の見えるところからいなくなるだけでも怖いのに、もう一生会えなくなってしまうのかと思うと、ぞっとした。

 剣を首筋に当てられた時のような恐怖ではない、もうどう表現すればいいのか分からないくらい、冷静さを欠いていた。

 俺が怪我をして、当分療養しなければならなくなった時、ティアは自分を責めていた。『どうして』という声が目を閉じている俺の隣から何度も聞こえた。

 寝ているからばれないとでも思ったのだろうか。

 俺と同じように、ティアも俺が死ぬのが怖いのだろうか……。そう思うのは自意識過剰だろうか。でも、思うだけなら許される気がして、そっとその気持ちは胸にしまった。

 絶対にばれてはいけない、大切な思い。彼女に伝えることもできない、そんなこと許されるわけがない思いは。騎士になっただけでは断ち切れず、膨らむだけだった。


 ノルセス大臣のもつ剣が光ったとき、ティアの動きが完全に止まった。六年前の光景が俺の脳裏を駆け、背筋に冷たいものが走る。

 咄嗟に『逃げろ』と叫んだがそれでティアが動くことはない。

 次の瞬間から自分が何をしたのか記憶がない。背中に焼きつくような痛みを感じ、そこでやっと自分が何をしたのか知った。

 痛みに顔をしかめたが、唇を噛んで声をせき止める。声を出したら、腕の中にいるティアが自分を責めてしまう、今度こそ壊れてしまう。

 だけどそんな努力も無駄だった。

 狂ったように悲鳴を上げ、俺の衣を必死に掴む。その力が無性に愛しくなり、自分が汚してはいけないものだと悟った。

 また同じ失敗をして……二回ティアを傷付けて。それでどうして俺は騎士になった? 守りたかったのに、ティアの笑顔と"アレク"と呼ぶ声と、気高く優しい心を。彼女の全てを……。

 どうすれば許される? どうすれば――傍にいられる? ここで死ぬわけにはいかない。もし、生きてティアに会えたら、謝ろう、何もかも話して……。

 汚れているのはティアではなく、自分だと。ティアが自分を責める必要はないんだろ。自分が悪いんだと。

 そして――過ちを犯しているのは自分だと。だから、泣かないで、責めたりしないで。

 守りたかっただけだった。本当に、それだけだった。

 ティアが大切で、失いたくなくて、傍にいても許される存在に自分の力でなりたかった。

 冷たく接したのも俺の勝手で、ティアと呼ばなくなったのも俺の都合で、だから決してティアの所為じゃない。それだけは信じて。





「リシティア姫……」

 おずおずと医師が近づく。ちょうど一〇年前、ティアは同じ場所にいて、同じ顔をして座っていた。医者はこれから来るであろうティアからの言葉を覚悟し、身を硬くする。

「我々のできる限りのことをしました。後はアレク様の回復力に縋るしかありません」

 一〇年前のように、ありとあらゆる言葉で責められるのを待った。自分たちにはそうされても仕方がないものがある。

 また一人、この可哀想な姫から大切な人間を奪うかもしれない。しかし。

「そう、ですか」

 ティアの答えは静かで、少ない。あのときのような燃えるような怒りと共にあった存在感とも呼べる生命力のようなものがない。

 あのときは泣いて、叫んで、罵っている力が、生命力があった。感情がそのまま、生命を表していた。なのに、今はまるで抜け殻のようだった。泣き叫ぶ気力さえ、もうない。

「会えますか?」

 何かを、求めるように開かれた口。表情さえ映し出さない、声はただ空気に溶けていく。その問いに、医師は頷くだけで答え、部屋から出て行った。

 ティアは緋に染まり、重くなったドレスを引きずりながら部屋に入った。鼻を突くような消毒の臭いと、自分から立ち上る血の臭い。

 その臭いに、酔いそうになった。時折血が衣から滴る音に眉を顰め、そっと足音を消すようにアレクに近づいた。

 真っ白な服を纏い、横たわっている。衣の袷から血の滲んだ包帯が見える。さっき医師が包帯を換えたはずなのに……。

 そう思いティアはそれから目を逸らすと、白い服が血で汚れないように気をつけながらアレクの手を握った。

 握ると、そのまま、心にたまっていた言葉を吐き出した。

「『死なない』って言ったわよね?! 『残して死なない』って。わたしを、置いて逝かないって、言った!! 約束でしょう?! あの時言ったわ!! 

わたしが寂しい時はいつだって傍にいるって……、わたしもあなたが寂しい時は傍にいるって、言ったのに――」

 崩れ落ちるように座った。搾り出すような、けれど決して小さくない声。荒くなる息に肩を怒らせ、アレクの手に額を押し付けた。

 いつもヒンヤリとした手が、いつもより冷たい気がして、それが勘違いであると信じたくて、温かさを感じたくて強く押し付ける。

 それでも……水が手から落ちるように体温が抜け落ちていくのを感じる。

 それは、まるで一〇年前の母のようだった。ただ体温が消えていくのを止めることができず、手を握って泣いていただけだった。

 あの時も、そして今も、何も自分はできない。

 自分の無力さを、王女だと言う絶対的な権力を持っているにもかかわらず、自然の理には逆らえないという人間の無力さを、思い知るには十分すぎる仕打ちだった。

 手から零れ落ちる体温は命そのものだと、その時感じた。そしてその時初めて知ったことがもう一つある。

 死に逝く人を止められないと言うこと。どれだけ泣いても喚いても、天の決めごとに抵抗できず、ただ人は涙を流すしかできないのだと、嫌と言うほど知った。もうこれ以上は嫌だ。

「目を開けなさい、アレク!! これは命令よ。滅多に言わない命令なのよ?! わたしが嫌いな命令を、あなたに言っているのよ? 目を開けなさい……。目を……」

 お願いだから、開けて……。その声はもう声にもならなかった。



 もう困らせないから。あなたと関わることをやめるから。最初から関わってはいけないと知っていたなら、わたしはあなたと話さなかったのに。

 わたしといることであなたが怪我をするということを知ったから。あなたから離れるから……。もう二度と、顔をあわせようなんて考えないから。

 もう近くにいなくていいから。ただ無事で、生きれいると分かればいいから。遠くからでも、その知らせを聞くだけでもいいから。

 五年前もね、本当はそう思ったんだよ? 離れてしまおうって、そう、思ったんだよ。本当に思ったんだよ。痛いくらいに……でもね。

 どうしても離れられなかった。寂しくて、一人が耐えられなくて。誰かに、傍にいて欲しくて。ただ一人、信じることのできるアレクを手放したくなかったの。

 我が侭なわたしを許して。離したくなかった、幼い頃つないだ手を。

 だから…………。お願いだから。



 願っても、祈っても……。神の意思に逆らえないと分かりつつ、人は願うことを、祈ることをやめない。

 どうしても、やめられないのだ。どうしても諦められないことがあるから。

 その愚かな行いはいかにも人間らしく、ときに貪欲で惨めで……悲しく、切ない。しかし時として、その愚かな行為は人間のどの行為より美しく、優しく見える。

 どれよりも、清く、清冽に見える。



 もう少し一緒にいたかったよ。せめて、あなたがわたしよりも大切で、愛しく思える女性を見つけるまで……。

 あの時、出会わなければ……。ううん、そんな昔のことでなくてもいい。もし五年前、あなたをきちんと家に帰していれば……。

 わたしには一体どんな運命が待ち受けていたのだろう。もしかしたら、もっとおっとりとした、ぼんやりとした普通の姫君に育っていたかもしれない。

 外交も政治も気にせず、ただ日々を退屈に過ごしていたかもしれない。         

 刺繍や噂話、異国の恋物語にカードの恋占い。そのどれもが貴族の息女にあって、わたしには程遠いものだ。

 そんな暇があるなら処理する書類が沢山あるからと、気にも留めなかった。でも――。


 出会わなければ。話さなければ。心を預けてしまわなければ……。心を、欲しいと思ってしまわなければ。

 こんなに悲しくはなかった。              

 こんなに強くはなれなかった。

 こんなに痛くはなかった。               

 こんなに楽しくはなかった。

 こんなに王女らしくはなれなかった。

 後悔しよう。あなたを知ったことを。      

 感謝しよう。あなたに会えたことを。

 だから、もう一度だけ、祈らせて。


「帰ってきて……」





 気が付けばまわりには色々な時の思い出があった。沢山の、様々な年のティア。

 幼いティアがいる。こぼれる涙を拭おうとも、止めようともせず口は「母様」とひたすらに動いている。しかし声が聞こえることはない。

 左の奥の方に蹲っているティアもいる。……一〇歳位だろう。さっきのティアよりは少し大人びた印象だ。

 幼女というには大きく、少女というにはすこし幼い年頃特有の反抗的な瞳。しかしそのティアの白いドレスは血で汚れていた。

 それはまさしく、アレクの血だろう。

 隣から覗き込み、目を見開くアレクに構いもせずティアはそっと自分の両手を開いた。その両手も等しく緋に染まっていて、ティアは顔を引きつらせた。白い喉がひくりと小さく動く、が声はこちらも出ない。

 沢山のティアは誰一人として笑ってはいなかった。泣いているのは一番幼いティアだけで、あとは何かに挑むように睨み据えているような表情を映す。

 その時のティアの表情に覚えがあるアレクは一つ一つのティアを見つめた。あれは初めて「リシティア様」と呼んだ時の顔。

 あれは敬語で話した時の顔。どれもが自分の所為の気がして、目をそむけた。いつの間に。とアレクは口の中で呟いた。

「いつの間に俺はティアをこんなに傷付けていたんだろう」と。二回、三回の話ではなかったことに気付き愕然とする。いつか、いつかエイルの言っていた言葉を思い出した。

 傷付けるために、騎士になったわけではないと言ったはずなのに、なのにどうして。自分が騎士になると決めてからの、一つ一つの場面が、どうしてティアを傷付けているのか。

 早く帰って謝らなければ、と思えば思うほど帰り道は闇の中に沈んでいく。どこへ向かえばいいのかも分からなくなり、足を止めた。

 どちらが……どこが、ティアに続く道なのかも見当がつかない。

「落ち着け」

 焦る自分を宥めるようにアレクはそっと息を吐いた。

 自分がティアを呼んだ時のように、逃げろと言った時のように、ティアももしかしたら呼びかけてくれるかもしれない。

 少しぐらいの自惚れなら許されるはずだ……。ティアが、自分を大切に思ってくれていると。耳を澄ませば、聞こえるはず。今までの自分では聞けなかったであろう声が。

「会いたい」

 傷付け合うためじゃない。一方的に傷付ける為でも、一方的に傷付けられるためでもない。話すためだ。だからどうか、帰らせて。彼女の元へ。





 周りの闇が少しずつ心地のいいまどろみに変わっていく。手に小さな重みと大きなぬくもりを感じた。

 気が付けば視界は開いていて、真っ白な色が目に刺さる。焦点が合わず、ぼやけて見えた白いものがはっきりと見え、やっと天井だと認識した。それにしたがって、"助かったんだ"という実感がわく。

 ふわりと目の前が金色――ブロンドに覆われた。アレクが一番好きで、でも絶対に周りには置かない色。その色はティアだけの色だから。ティアの髪以外でその色は見たくないと思ったから。

「ティ……ア」

 本当に久しぶりに呼んだ。かすれておかしいくらいに声が出ず、それでもティアは小さく驚いた顔をした。

 しかしそれも僅かで、『医師を呼んでくる』と身を翻し、扉へと向かって走る。アレクはティアの腕を一瞬の差で掴んでいた。その袖が血で染まっていることを知り、袖を掴む手の力を強めた。

 そのまま上体を起こすと疼くような痛みを感じた。

「何故今更、その名でわたしを呼ぶの――?」

 腕を掴まれ逃げるに逃げれないティアはアレクに背を向けたまま聞いた。

「何で!! 何で今更――!!」

 振り向く顔は泣く一歩手前で、何かの痛みに眉を寄せ、唇を噛み、耐えているようだった。その顔を見たくなくて、アレクはティアを力任せに引っ張った。

 ティアの背中に手を回し、逃げられないように抱きしめる。それでも自分の力はティアを潰しそうで、細心の注意を払って力を込める。ティアの温かな熱に触れ、やっと息を吐き出せた。

 どこに剣を扱えるだけの力があるのだろう。どこに国を支えるだけの意思があるのだろう。そう疑問を持たずにはいられないほど弱そうな、華奢な体。

 この体を、心を守りたいんだと改めて、強く……前よりもずっと強く自覚した。一度はなくなってしまえばいいのにと思った気持ちが、大きくなるのを感じる。

 どうせ叶わないなら、綺麗なままいつまでも閉じ込めておきたいと思う気持ち。


 ティアの手がおずおずとアレクの肩に置かれる。これくらいなら……と言うまだ嗄れたようなアレクの声が耳に届く。その言葉を聞き返そうとするがアレクの言葉に遮られた。

「あなたはご存知でしたか? 私が、あなたを守るためだけに騎士になったということを。私情にまみれて、あなたを守っているということを。

私は、あなたが思っている以上に意地汚く、偽善で動いているのですよ」

 ティアが大きく目を見開く。ティアの手から力が抜け、同時に足元が崩れ落ちそうになる。

口だけが『どういう意味なの』と動いていた。

 『私情』ってどういう意味? どういう風に解釈すれば言いの? どういう意味なのか見当がつかない。

 いや、少しだけ勇気を出せば分かるのかもしれないけれど、気付きたくなくて知らないふりをする。考えない、ふりをする。

 そのやましさを消すようにティアは、言わなければいけないことがあった、と思い出した。

 そう、これが最後かもしれない。アレクに触れられる最後の時なのかもしれない。アレクの体から、自分の手を離し、退がる。

 ――この国の礼儀で貴族の男女がとる距離をとった。若い女が男に近すぎてはいけないと、何度も侍女たちに教わった。

 三歩ほど離れるだけで、どうしてこんなに違和感があるんだろうとティアは自問自答した。

 もう一度、名前を呼ばれてしまえば、あの頃のように『ティア』と呼ばれてしまえば――きっと言えなくなってしまう。

 アレクに憎まれてもいいと思いながら、それを望まない自分がいることをティアは知っていた。それでもこの言葉を言うのは、ティア自身の我が侭だ。

 もう、傷つかれたくないという、偽善とも我が侭とも取れる思い。その思いはきっと……という名前の感情から来るものだろうけど……。自分には許されない感情だと知っている。

 誰もがいずれする、未知の気持ち。最初は戸惑い、そしてその人を天使にも悪魔にも変えてしまうという不思議な、不思議な気持ち。

 それでもその感情を、王族が持つことは許されていない。いつの日か、遠く異国の地に嫁がされる、この身には関係のないことだと、この一六年間で思い知らされている。

 一番近くにいるアレクに、一番抱いてはいけないものを抱いたのは自分だと。でもその気持ちがばれたとき、罰せられるのは間違いなくアレクなのだ。

 自分ではなく、優しいアレクなのだ。アレクは文句を言わないのだろう。自分が悪かったのだと、当たり前のように言ってのけるのだ。

 『あなたに期待させるような言動をして申し訳ありません』と。普通に頭を下げてしまうのだろう。

 でも、悪いのはあくまで自分であって、アレクにはきっと疚しい気持ちの欠片も持っていないのだろう。きっと、きっと私情というのは、妹に対する感情か何かなのだろう。

 あまりにも一緒にいたから、情が移ったのだと。そう言われた気がした。

 自分で考えていることなのに、あまりにもアレクの考えそうなことで、まるでアレク本人から言われたような衝撃が襲った。

 でも、もうそれもお終い。そんな、取り留めのないことを考えるのも今日が、今が最後になる。全てに終止符を打つ。自分の気持ちに。この思いを、枯らしてしまう。

 今まで知らず知らずのうちに育てていたこの気持ちに、水をやるのを止めてしまおうと思った。育てるのをやめようと思った。

 豊かな土壌から引き抜き、絶え間なく、惜しみなくやっていた水を与えることなく、少しずつ、少しずつ枯れるのをそっと見守ろうとする。

 時にはそのむごい仕打ちに、痛みに耐えられなくなるかもしれないけれど、もう一度育てようとするかもしれないけれど。だけど、いずれは根絶させないといけないものだから。

 まだ自覚の浅いうちに、止めてしまった方が楽だと思った。

 いつから気付いていたのだろうと思う。自分の気持ちに、自分自身が。

 いつから、一体いつからこの気持ちを持ち、いつからこの気持ちの正体を知ってしまったんだろうと、記憶を探る。

 でもそこで気が付いた。今更、いつ惹かれていたか知っても無駄だと言うことに気付いた。今更気付いたって何も変わらない。

 ……いつ気付いても、何も変わらない。今のように苦悩し、そして同じ道を選ぶのだ。

 始めから、初めから、抱いてはいけなかったということは変わらない。自分の蒔いた種くらい、自分で始末しなくてはいけないのだ。

 だから、いつかのように。五年前のように。今度こそ本気で。

 今度こそ、今度こそ、突き放すように。

「アレク。あなたは、ボールウィン家に帰って。もう、わたし……大人しくするから。侍女たちが認めるくらい、大人しくして、皆を困らせたりしないから。

アレクを、困らせたりしないから。きちんと王女らしく過ごすから。だから、ね。帰って。あなたが国のために、ううん、わたしの所為で傷つくのをもう見たくないの。

わたし、三回目の過ちをしたくないの。あなたより国が大事だと言わざるをえない、見捨てるかもしれない。こんな私の所為で、死ぬようなことがあったら――わたしの我が侭だけど、でももう嫌なの」



 手を握り締めた。突き放すようには言えなかった。本当はアレクを傷付けて、怒らせて。もう二度と来させないようにするつもりだったのに。ティアの口から出たのは懇願の響きを持つ言葉だった。

 どうして突き放せない。                  それはわたしが弱いから。

 次に出た言葉は許しを請う言葉。

「ごめんね。ごめんね、アレク。ごめんなさい。我が侭ばかりで――。でも、もう無理だよ。いや、だよ? 

守りたかったよ。でも、守れなかった。守ってもらうばかりで、わたしは傷付けるばかりで……。アレクには何一つ。アレク、わたしを許」

「ティア!!」

 怒鳴りつけるように名前を呼ばれる。感情の激しさをそのまま映し出したような声。感情が含まれているこの声を聞くのは、一体何年ぶりなんだろう。

 アレクが目覚めて呼ばれたとき。ティアは時が戻ったような感覚に襲われた。とても久しぶりに呼ばれたから。

 呼ばれることを、望んだのはティア自身のはずなのに、呼ばれるのが今だと……余計罪悪感が積もる。

 ティアは唇を噛み、目を閉じた。わたしの願いは、望んではいけない願いだった、そう心の中で呟く。

 こんなことになるなら望むことさえなかっただろうに。

 わたしのこの身を濡らす血がその代償だと知っていたなら、望まなかったのに。こんなに思いもしなかったのに。

「ティア」と呼ばれることを……。ティアの心の中で後悔だけが浮かんでは消える。

 アレクが腰に手を回し、先程より強い力で引き寄せられる。抱きしめられている、という実感を得る。痛みを伴うような実感。

 こんなことをされたら、決意が揺らいでしまうのに。そばにいて欲しいと思ってしまうのに。

 見た目では細そうに見えるのに、抱きしめられると嫌でも体格差を感じずに入られない。肩口に顔をうずめられ、ピクリと体を震わせた。

「なんでティアがそういうことを言うんだ……?!」

 怒りを込めたような声に肩を震わせる。アレクが怒りを露わにすることなんて滅多にないことだから。

「私は。俺は、自分の意思で、騎士になった。ティアを守りたいと思ったから。傍にいたくて、守りたかったからなったんだ。

それに、ティアは十分すぎるほど俺たちのことを守ってくれてる……。だって、ティアが上手く政治を動かそうと努力しているから、大臣たちも協力して、反乱を起こす人間が少ない。

外交問題に積極的に取り組んでいるから、無闇な戦争を吹っかけられることもない。そういうことを、皆分かってるから姫のために命を投げ出せる。

守られた分、守りたいのは俺たちも一緒なんだ」

 話しているうちに穏やかになる声。髪をそっと撫でられる感触は一体何年ぶりだろう、とそっと考えた。そう、今日は妙に昔のことを思い出してばかりだ。

 守りたいから、傍にいてくれたの? 少しぐらい、自惚れていい?

 そう聞き返したい心を止め、違う言葉を口にした。多分さっきの言葉は聞いてはいけない気持ちの断片だから。

「命を投げ出すなんて、言わないでよ」

 『姫のため』なんて言わないで。わたしを『ティア』として見て。そんなこと言えないけど。

「俺たちはそのために訓練しているんだし、それが使命だ。皆覚悟はできてる。……俺は自分の意思でここまで来た。

父に言われたからでも、国の役に立ちたいという崇高な思いからでもない。俺が、そうしたいと望んだから、だ。

だからもう、ボールウィン家には帰らない。騎士としてやっていくというのは父だって前々から言っていたし、了承している」

 その強い意志を、崩そうとしたわたしがいけないのかな? ティアはそっと微笑んだ。もう、何も言えなかった。言っても無駄だと思ったし、何より守りたいと言ってくれたから。

 突き放したいのに、枯らしてしまいたいのに、どうしてももう少しだけ、と思ってしまう。いつか、この国を出る時、その時どんなに辛い思いをしても。

 でも、もう一度この場面で決意を迫られたら、アレクに傍にいて欲しいと答えてしまうんだろうと思った。

 固かった決意が、たったの一言で崩される。それ程の威力を、アレクの言葉は持っていた。

結局はティアだって離れて欲しくないというのが本音なのだから。

 アレクの意思だからと言い訳をしつつ、アレクを離そうとしない自分の強かさに気付いて、嫌気がさす。

 結局は五年前と同じ。何も変わらない。だから、もっと守れるようになりたい。ティア自身が、騎士たちを。決して傷付かないように。

「アレク。血がついちゃう」

 それを言い訳に、アレクの体から離れた。すこし照れくさくて、でも温かくて心地いい場所だけど。ずっとその中にいたかったけれど。

 ゆっくりとアレクの白い服が緋に染まる。まるでドレスから紅い血を吸い取るように。ティアにとってその血はまるで、自分の罪の証のような気がした。

 そして、その罪の罰がアレクにも及んでいるように見えて、再び恐怖に襲われる。そっとアレクに気付かれないよう目を離した。





 一体、何度同じ過ちを犯したら、気が付くのだろう。

 一体、何度同じ過ちを犯したら、分かるのだろう。

 何度こんな思いをすれば、アレクを突き放すようになるんだろう。

 何度この躰を血で濡らせば、自分の愚かさに涙を流し、許しを請うのだろう。

 知らず知らず言葉が零れた……。『ごめん』という謝罪にもならない言葉と本音。

 知らず知らず言葉を飲み込んだ……。『ごめん』という謝罪に隠して。

 一歩間違えば、アレクさえも傷付けてしまうかもしれないという可能性にも気付かず。

 わたしは何度でも過ちを繰り返す。何度も。

 そして毎回後悔しながら、アレクを離そうとしない。

 この気持ちを知ったらアレクは離れて行くだろうか。

 軽蔑したような目で見るだろうか。

 変わらず傍にいてくれるだろうか。

 ずるい自分は、決してアレクを離そうとしない。

 縛り付けて、自分の傍に留めておきたい。どこにも行って欲しくない。近くにいて欲しい。

 こんなに、こんなに思っているのに。なのに。

 何でこの気持ちを伝えることができないんだろう。

 『あなたが大切です』と。

 『あなたがいないと駄目なんです』と。

 『ずっと傍にいて欲しい』と。

 『できれば、一時だって離れて欲しくない』と。

 『寂しいから、傍にいて』と。

 『寂しい時、傍にいたい』と。

 何故許されないと知りつつ、抱いてしまったんだろう。何故枯らそうと思いつつ、水をやる手を止めないのだろう。

 この気持ちを枯らそうとしても、なくそうとしても、どうしてできないのだろう。





 幾つもの言い訳を繰り返す。

 幾つもの言葉で自分を騙す。

 この心は、この気持ちは、決して恋心ではないと言い聞かせる。

 この心は、この気持ちは、王女へ対する絶対的な忠誠心だ、と。

 多分それは、いつも近くに居過ぎたから、離れがたくなってしまっただけだ、と。

 護りたいと思う人は、この国で最も美しく、この国で最も気高い少女。

 守りたいと思う人は、この国で最も聡明で、この国で最も優しい少女。

 政治に類稀な才能を持ち、大臣たちでさえ圧倒する知識と頭脳を持つ。

 賢君ユリアス王が、跡継ぎと認めた――次なる王。

 剣を振り回すようなお転婆姫と呼ばれながらも、年頃の少女らしく花を愛でる。

 そんな少女をいつだって近くで見ていた。一番近くで、一番長い間。

 だから、その少女のことは誰よりも知っているつもりでいたのに……。いつの間にか距離があった。

 初めて『リシティア様』と呼んだ時の、あの時の顔が忘れられない自分がいる。

今のように、感情を隠すことに慣れていなかったティアは呆然としていた。

 『アレク……?』と問いかけるような呼ばれた名前が、ひどく痛かった。

 手に入らないということは、出会う前から分かっていたのに。

 どんなに求めても、どんなに欲しても、『ボールウィン家のアレクがリシティア姫を手に入れた』としか言われない。

 『アレクがティアを求めた』なんて言われないのだ。

 本当の意味で、手に入ることなんてないのなら、手に入れることさえ望まない。ティアがそれを望まないから。

 それに彼女は多分、国のためにどこかへ嫁ぐつもりでいるのだ。どこかの、大きくて、経済力のある大国へ。

 もしかしたら、国交回復のために寒国―ロッラール―に嫁ぐのかもしれない。

 そんなことしなくてもいいと言えたら、……言って欲しくないと言えたら、何か変わるだろうか。

 この三年間で築き上げてきた、主と護衛の距離は。





 わたしはアレクの血で汚れている             俺は自分の欲望で汚れている

 わたしは二度過ちを犯した                   俺は何度も道を違えた

 わたしはアレクに守られて 傷付けた      俺はティアを守ったつもりで 傷付けた


 守りたかったのに 守れない       守ろうと伸ばした手は届かず 宙しか掴めない

 守ることさえできず                          守るばかりか


 失いたくないくせに 守りたいくせに 一番手っ取り早い『離れる』という方法も取らない

離れるのが


 いなくなるのが 

 一番いい方法だと知っているのに 頭では分かっているのに  それでも どうしても


 傍にいて欲しいと                           傍にいたいと

 思うのはどうして?

 それはきっとね                            それはきっと

 

 相手が大切で でもそれを許されないことだと 知っているから


 気持ちを伝えれないから これくらいは許されると


 気持ちを持つことを許されないから これくらいは許して欲しいと


 無意識に心が求めているから


 一秒でも長く                             一瞬でも多く


 相手の存在を感じていたいと思うから

 でも そう思っても 罪は消えない

 罪は  過ちは  どうしたら償うことができる?  なかったことになる?


 いっそ素直に言ってしまえば             いっそ思い切って伝えてしまえば

 楽になるのに                          悩まなくて済むのに


 その笑顔を 声を 心を 失いたくなかったと


 でもそれは 言うことを許されない言葉  その言葉が持つ意味は深く そして温かいけれど

 絶対……絶対 言えない  言ってはいけない言葉  それは均衡を崩す呪文


 願わくは 一緒にいたいのに           しかし それさえ望むことが罪ならば


 せめて  祈らせてください


「幸あらんことを」                        「福訪れんことを」

「神の加護をあなたへ」                    「神の祝福をあなたへ」


 もう  わたしには  こう願う資格さえ持たないのかもしれないけれど


 もう  俺には  祈る資格さえ持たないのかもしれないけれど


 星に願い                                 月に祈る

 願うだけでも                         意味はあるはずだから

 無駄なんてないと思うから                無意味なんて違うと思うから




 少しずつ、少しずつゆっくりとティアに話し始めた。まるでお伽噺でもするように――。

まるで小さな子どもに秘密の話をするように。

 優しく、丁寧に、それでも少しだけ悲しそうに、恥ずかしそうに。遠い昔のことを……。沢山の優しい言葉と共に、本当のことを。

 騎士になろうとしたきっかけの、ティアさえも忘れているような変化。そしてボールウィン大臣の言葉。



 意地になった気持ちと、隠しておきたい思いは意図的に伏せた。伏せないと格好がつかないから。アレクはその気持ちと想いを心の底にある箱に押し込んで、蓋をした。

 綺麗なまま、汚れないように、大切にしたいから。自分の打算しかない心に汚されないように。

 捨てられない想いは封印してしまおうとした。捨てられず、かと言って本人にも伝えられない想いは、そっと沈んでいく。もう、開くことはない宝箱。

 絶対に、ティアが聞くことのない、告白と共に。




 ティアは責めることなくその話を聞いていた。小さな微笑を浮かべながら、そっと眉をハの字に下げた。

 望んではいけない事と、言ってはいけない言葉を飲み込むのに必死で、口を開くことさえできなかった。

 閉じ込める事に、全ての神経を注いでいた。その言葉と想いを、頭の片隅に押しやり、考えないようにする。



 頭の中のずっと、ずっと奥にある部屋に閉じ込めて、扉に鍵をした。その時のまま色褪せないように。残しておきたいから。

 その気持ちたちは決して消えてはくれないものだから、せめて今だけでも忘れようとした。少しの間だけ、考えないようにしたかった。

 絶対に、アレクには言うことのない、囁きと共に。





「ティア」

 小さくアレクは呼びかける。今までのような冷たい声ではない。優しい、いつかの声。"何?"と問いかけるように小首をかしげ、ティアはその呼びかけに答えた。

 これくらいなら、許されるんだ。

「俺を守れなかった罰……聞いてくれる?」

 砕けた口調に、そして"罰"という言葉の響きにティアは震えるようにアレクを見上げた。心配そうな瞳が、下から真っ直ぐアレクを見つめた。

「俺を、一生あなたの騎士にして下さい」

 その言葉の意味がつかめず、ティアは不思議そうに首をかしげた。アレクはもう、わたしの騎士のはずなのに、と言っているようだった。

 アレクはそれを見て微笑んだ後、もう一度ティアの体を捕まえた。と、いうより強い力で抱き上げた。

 ふわりと体が浮き、「きゃぁ」と小さい悲鳴がアレクの耳朶を掠めて、アレクは少年のように笑った。

 微笑むのではなく、思いっ切り顔を綻ばせた。ティアの体は横抱きにされ、アレクの膝に落ち着く。

 少し恥ずかしいのか、ティアはフイッと横を向いてしまう。もう、血の臭いも気にならなくなっていた。

 紅い血は罰ではなく、二人を結ぶ絆だから。血という、もっともその人の身体に近い一部が繋がっている事は、特別な気がした。

 ティアが身動きした拍子に風が起こり、髪が流れた。アレクの目に真っ白な首筋が露わになる。美しい、白い毛の艶やかなユニコーンが。

 乙女の前にしか現れないというユニコーンがこの国の守護神。レイティアが使役する、気高く、決して穢れた場所に姿を現さない、幻獣。

 それは王族にしか彫ることを許されない紋章であり、逃げることを許さない茨の鎖だ。もちろんティアは逃げようなんて考えたこともないのだろうと思いながら。

 責任と国から、秩序から。紋章さえなければ――ティアは、アレクは。

 憎いけれど、見るのも嫌だけど、これさえなければと思うけど。王族として育ち、王女として立ち振る舞う気高さも惹かれた要因だから。

 アレクは気付かない程度に首筋に唇を寄せた。首筋の、紋章の横に、そっと、そっと、唇を押し当てた。

 ティアが王族だということへの感謝と、紋章への小さな嫉妬心は、小さな口付けで表す。本当は、紅い花を咲かせて、印をつけたかったけれど。

「ちょっ、アレク!!」

 赤くなったティアはくすぐったそうに身じろぎした。

「こんなに俺が怪我しっぱなしなのは、あなたがちっともじっとしていないから。――次期女王の護衛くらいの地位じゃないと割に合わない」

 冗談半分に言うと『お転婆って言いたいのなら、そう言えばいいじゃない!』とティアは怒ったように言う。でもどこか楽しそうで、しかし突如真顔となった。

 その変容にアレクはそっと首をかしげた。

「ではアレク。あなたにもわたしを守れなかった罰を与えましょう」

 いつもより少しだけ偉そうに。いかにも王女ですという、高飛車な口調。それは似合っているようで、実はちっとも似合っていない。

 もしかしたら、一番似合っていないかもしれない。

「わたしを一生守りなさい」

 命令口調なのに、どこか伺うような雰囲気を残して。それが、ティアの答え?

「こんなにわがままな次期女王の世話をするような変わり者、そうそういるものじゃないでしょう? 今のうちに、きちんと予約しておかなかったら、シエルに取られてしまうわ。

わたしが死ぬまで……。ずっと傍にいて、死なずに、怪我もせずに、一生わたしを守るの。そして、わたしが死んだら……」

 何か言おうとして、何も言わず結局口を閉じた。そして、『何でもないの』と首を振った。

「あなたが死んだら、もしかしたら、追いかけて逝くかもしれない」

 不意に真剣な顔をしたアレクは、ティアの言葉を続けた。

 ティアは大きく目を見開き、アレクの瞳をじっと見る。その瞳の中にある、何かを読み取ろうとしているようにも見えた。

 ティアは自分の蒼色の瞳とは似ても似つかない、黒い深い瞳に魅入る。中々外せない視線はお互いが離さないようにしている所為か、それとも――。

 吸い寄せられるようにティアはアレクの顔に近付いた。目と目を合わせたまま、何も言わず、何も考えず、二人の距離が縮まる。

 しかし、お互いの吐息が唇にかかるくらい近付いた時にやっと、ティア自分が何をしているのか悟った。

 すると瞬く間に頬を染め、顔を背けた。それを誤魔化すように、無理矢理アレクの腕から降り、目の前に立つ。

 年頃の女の子から、一気に王女の姿へと変わる。真剣な瞳とぴしっと伸ばされた背筋がそれを顕著に物語る。

「アレク・ボールウィン近衛騎士隊長。汝の答えはいかに?」

 二人の他には誰もいない、静かな部屋に厳しいほどに凛とした声。その声に頭を垂れずにはいられない。膝を屈せずにはいられない。

「アレク・ボールウィン。謹んでお受けいたします。リシティア・オーティス・ルラ・リッシスクに永久の忠誠を」

 その答えにティアは笑った気がする。いつかの日と同じように、額に唇を寄せられると「汝に神の加護と幸あらんことを」と言われた。

 すっとベッドから起き上がり、跪いた。本当は痛いはずなのに、何故か痛みを感じない。ただずっと欲していた"何か"を手に入れたに違いないということは分かった。

 ティアがそっと、右手を差し出した。

 跪いたままティアの手を取ると、恭しく口付けする。苦労を知らないと言われる真っ白で、細くて長い指を持つ手。

 指の付け根に唇を寄せる。触れるか触れないかという、それ程小さな、口付け。

 口付けられた手を胸の前で左手に包み込んだティアは、アレクの着ていた制服と一緒に置かれていた長剣を持って来た。

 スラリと鞘から剣を抜き放ち、ティアはそれを照明に照らした。確かめるような厳しい視線が、剣に据えられる。

 キラリと剣は、月の白い光りを受けて光る。その月光のような光に、ノルセスが持っていた剣の光りのような禍々しさはない。

 どこまでも澄んでいる、人の為だけに剣を振る者特有の強い信念を宿した光。汚されることなんて、絶対にない、白く鮮烈な光り。

 それを見るとティアは息を吐き出し、その剣をアレクに向けた。アレクの右肩と、左肩を一度ずつ叩き、しっかりとした声で宣言した。

「アレク・ボールウィンはわたし、王女リシティア・オーティス・ルラ・リッシスクの名において、わたしの生涯の護衛騎士とする」

 二人の関係は、主と護衛の関係は変わらないのに、前よりずっと近くに感じるのは何故だろう。


 多分、それはきっと。


 二人ともそこまで考えて、そこで思考を打ち切った。封印したはずの想いが何かの拍子に浮かんできて、相手にぶつけてしまいそうになったのを感じたから。

 二人の罰という名の誓いは違えられることなく、きっと続いていく。そう願いたい。祈りたい。



ここまで付き合ってくださりありがとうございました。


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