『心配性』
前回が結構暗めだったので、今回は明るめの話で。ま、シリアスなシーンもありますけど。
……パタパタパタ。
「はぁ」
……トタトタトタ。
「また」
……テッテッテッテ。
「逃げられた」
それぞれの足音が屋敷中に響き渡る。
しつけの行き届いていると評判の、騎士隊長殿の屋敷のメイドたちが、である。
その顔は真っ青と言って差し支えないだろう。顔面蒼白、病人のような顔をしていると言ってもいい。その中には、一人の青年の姿もあった。
ちなみに、先ほどのため息交じりの言葉も彼から出たもの。むろん、アレク・ボールウィン、その人である。
「リシティア様ーー」
「奥様、どちらにいらっしゃるのですか」
「どうか出てきてくださいませ。お体に差し支えます。お願いでございますから、出てきてくださいーー」
「奥様ー」
クラリとする頭に手をおき、ため息をついた。
まるで十数年前の風景だ。いや、十数年前の風景そのまま。彼女に未だ王女と言う自覚も、自分が家臣だと言う自覚もなかった頃の話。
昔よく脱走しては、父に二人して怒られていた。(そしてそのあと、自分だけ別室でまた父から長い説教……彼女はこの事実を未だに知らないだろう)
もう、お互い滅多に思い出さないくらい昔の話。
彼女には王族の(今は違うが)、そして今は自分の妻だと言う自覚があるはずである。もちろん、身重という自覚もあるはずではあるが。
じっとしていられない性質の彼女にその自覚はあっても、その自覚から起こる注意はほとんどない。
目を離せばこのとおり、すぐにどこかへ行ってしまう。そのたびに真っ青になるメイドたちの顔を一度見せてやりたい。
もっとも、メイドたちが半泣きになって探した直後はそれなりにシュンとはしている。が、時間の問題である。その反省は。
「申し訳ありません。旦那様」
「いや……。しかたないよ。ティアが本気になったら、俺だって太刀打ちできないだろうし」
かと言って、監視しないわけには行かないのだから、困りものである。本人にその自覚は皆無だから、余計なのだ。
これだけ探してもいないということは、もう屋敷自体にいないのかと思いつつ、ある一部屋に心当たりを見つけ歩き出す。
ついてこようとするメイドに『庭でも探してて』と言えば、何かを察したように頭を下げた。彼女の趣味なのか、この家のメイドは無駄に聡明なのだ。いい点でも、悪い点でも。
「入るよ。ティア」
いるという確信があるので、ノックする。
扉を開ければ、枕がこちらへ向かってくる。ぽすん、と掴むと『何でとるの!?』と厳しい声が聞こえた。かなり不機嫌らしい。
「どうして誰も気付かないの?」
「ティアがティアの部屋からいなくなったんだ。みんな、他の部屋を探すだろう」
ティアがいたのは、ティアの自室と自分自身の自室から繋がる寝室だ。はじめに調べて以来、メイドたちはここへきてはいないのだろう。
むっすとしたティアの顔がベッドから見えてアレクは苦笑した。
ベッドのふちへ座ると、ティアはベッドの中でそっぽを向く。体を締め付けないデザインのドレスが広がっていた。
「いつも動き回っている奥方が、ベッドに大人しくもぐっているなんて誰も考えないよ。俺を含めて。随分探して、やっと気付いたくらいだから。あんまりメイドを心配させないで上げて」
ぽんぽん、とティアの頭を叩く。
悪阻が思いのほか軽いせいか、『運動しないと体型戻りませんよ』と医師に脅されたせいか、とっても活動的なのだ。アレクが心配しすぎて過保護なのだともいえる。
屋敷内ではとっくに知られた、愛妻家っぷりなのである。
メイドたちは頬を染め、羨望のまなざしを向けつつも、『重そうよね』と噂していることも彼らは知らない。
「最近、とみにメイドを出し抜くことが多くなってる気がする。今週に入って二度目だよ。二日に一回の計算だ。メイドの苦労も少しは考えてあげたほうがいい、ティア」
優しい口調で、刺激を与えないように、ひたすら注意を払って。
「イライラするの」
ぼそり、とティアが言った。押し殺したような口調だった。
少しだけ、感情をコントロールしようとするその姿は、女王の頃の彼女に似ていて胸の中にひやりとしたものが落ちる。まるであの頃に戻ったような感覚だった。
「そうやって優しいアレクにも、ひたすら心配するメイドたちにも。――この子は、ただわたしたちの子どもなのに。その前に、王位継承権三位があるみたい」
現国王シエラには二人の王子がいる。
それ以上子どもが生まれなければ、ティアとアレクの子が男女どちらであろうとも王位継承の第三位になるのだ。
大臣たちが今から『リシティア様の再来か』と喜んでいる。
「ティア、それは違うよ」
きっぱりとアレクが言った。目を逸らしていたティアの顔を掴み、自分のほうへ向かせる。
「確かに、王位継承のことは大切だよ。君が守ってきたものを、守り続ける人がいなければいけない。
だけど、それが俺たちの子どもであるということ以前にくることは絶対ない。心配性なのは、単純にこの子が一人目だからだ。
不安なんだよ。ティアが、ティアじゃなくなる気がするし、今のままではいられないし。もしかしたら、不測の事態が起きるかもしれない。そういうこと全部含めて、俺は不安に思う」
それに心配性なのは、今に始まったことじゃないんだから許して、とアレクは笑った。
わけが分からず、ティアが首をかしげると、昔ね、と話し始めた。面映そうに、頬を染めつつ笑った。
「昔、怒られたことがあるんだ。ユリアス王に。『ティアを甘やかしすぎる! お前はティアをどうしたいんだ』って。
自分としてはお姫様に……というか、大好きな子に優しく接していたはずなんだけど。かなり甘やかしてたみたい。
『お前がそれでは育つものも育たん!』とかすごく怒られた」
ティアのことに関しては、昔から甘やかして、過保護で、心配性なんだよ。俺は。
「ねぇ、信じて。リシティア姫でなく、ティアを愛したように、俺はこの子を愛するよ」
王位継承権があろうと、なかろうと、この子は俺の子なんだから。
アレクはそう言って、ティアの背を叩く。ティアがぐっと唇をかんで、我慢できなくなった涙を一粒落とす。ほっとアレクが息を吐いた。
確かにティアは泣くことが少し多くなった。他の誰の前で泣かなくても、アレクの前では涙を流す回数が増えた。
しかしもともとの回数が少ないのだから、涙を見せるなんてほとんどない。
大抵のことは唇をかみ締めもせず、眉を寄せることもなく平気な顔をして流してしまう。夫婦になってもそんな彼女は全く変わらなかった。
アレクの最近の目標は、ティアが泣きたいときに泣かすこと。そうしなければ、彼女の表情は王のときのものに戻ってしまうから。
「不安なの、とても」
心持大きくなってきた腹を抱えてティアが言う。ボタリ、と大粒の涙がシーツに吸い込まれて、小さなしみになった。
「王位継承権を持つと分かっているのに、生んでもいいか不安なの」
子どもを、作るべきではないのかもしれないと思った。
だけどそれと同じくらい、生みたいとも思ってしまった。アレクと自分の間にできた子がどんな風に成長するのか、どんな子になるのかひどく楽しみになった。
「でも……怖いの!! この子もあの玉座に独りで座るかもしれないってことが。誰にも涙を見せず、強くいることが要求される城に行くかもしれないことが」
――わたしが、守ってあげられないことが。
「あーー。完全に、マタニティー・ブルーに入ってるんだ。ごめんティア、気付けなくて。気をつけてきたつもりだったんだけど、そこにもあったか。悩む要素」
ネガティブ思考のティアのため、色々策を講じてはいたのだが、とアレクはティアを抱きしめて天を仰ぐ。
今回は完璧に自分の落ち度だ。言い訳の欠片も出てこない。まさかそこまで考えているとは夢にも思わなかったのだ。
どれだけ後ろ向きに考えれば、そこまでたどり着けるんだ、とは思うが。
「大丈夫だよ。ティア。大丈夫。いざとなれば俺も、エイルも、プルーだっている。イリサだってまだ城に勤めてるし、兄さんもいる。大臣たちの派閥を牛耳っている父もいる。
あぁ、そうそう。セシル兄さんとこの長男も、今年で六歳だから、城へ行く歳になれば守ってくれるだろう。あの子には兄弟がいないから、喜ぶはずだよ。妹ができたって」
皆味方なのに、何を恐れる? ティアはそんなに孤独だった?
「そうじゃないけど、不安」
「そう? 俺は今からこの子が生まれるの、すっごく楽しみ。ティアに似た女の子だといいな」
ぽんぽん、とティアを抱きしめて背中を叩きつつ、アレクは楽しそうに話をする。そうすることで、少しでも不安を取り除こうとしているようだった。
「剣も、政も教えずに、ティアの顔をした大人しいお姫様にする」
「どうして?!」
「え、見てみたいから。大人しくて、深窓のお姫様で、政のことなんて何も知らない、趣味は裁縫っていうティアを」
笑いながら、想像つかないねぇと言うと、ティアは腕の中で『おてんばで、趣味は剣術の幼少時代で悪かったわね』と膨れる。
その姿を見てアレクは再び笑い、少しだけ赤く染まった頬に唇を寄せた。
「大丈夫、守るよ。俺が。たとえどうなっても、ティアが守れなくても」
だから安心して生んで。その前にもっと自分の体を大切にして。ついでに、心配性の俺の心労も考えてくれると、非常に助かるんだけど? 奥さん。
「不安になったら、じっとしていられないの。それなのに『体に障ります、奥様っ!』ってメイドたちがうるさいし。
アレクはアレクで、『お願いだから、そんなに早く階段上るな』とか言うし」
「いや、あれは早すぎる。タン、タン、タン、タンって、すっごい軽快だった」
「いいじゃない。安定してるんだから。先生も大丈夫だって言ってるんだし。なのに、屋敷に泊り込ませて」
ティアが首をのけぞらせ、アレクの顔を見つめる。アレクは苦笑いをしたままだった。そして諦めたように、ふぅと息をつく。かなり疲れていた。
彼女の面倒を見るのは、いつだって体力がいることなのだ。
「俺、ティアが子ども生むまで、休職願い出そうかな。すーーっごく不安になってきた。俺が」
「何ふざけてるの?! そんな理由で休職してどうするの!! 他の騎士にしめしがつかないでしょっ」
「いや? こういう理由なら、俺は他の騎士の休職をいくらでも認めるよ。
うん、やっぱりエイルたちに相談して、休職しよう。それが一番安全かつ、安心できる策のような気がしてきた」
「アレクっ!!」
ティアの声が高くなる。本気で怒っている様子に、アレクが頓着するような様子はない。
とりあえず半年かなぁ、などと具体的な数字がその口から出てきて、それが冗談ではないことを証明する。
「お願いだから、やめてーー!」
ティアの絶叫が屋敷中に届いて、メイドがかけつけるまで、あと三分。