第41話 『真』
「お迎えに上がりました。リシティア様」
「セシル。お願いだからやめてちょうだい。その呼び方」
ティアがうんざりとしたように頭を振ったのと同時に、髪が空気を孕んで揺れた。
さらさらと衣擦れするような音がする。彼女の美しさは、何も王族だからではなかったのだと思いつつ、セシルは手を差し出した。
ティアは小さく迷って手を預ける。音もなく二人は歩き出し、話を続けた。
「アレクの代わりですが、残念ですか?」
「とんでもない。次期ボールウィン家の当主様、御自ら足をお運びいただいたんですもの。ただの小娘一人のために。勿体無くて、声も出ませんわ」
怒らせてしまったようだ、とセシルは苦笑いした。
自分はもう敬語を使われる身分ではない、と彼女らしくもなく主張している。よくよく見れば、その表情もどこか幼い。
あぁ、そうかとセシルは声に出さず納得した。
年不相応な彼女の大人びた振る舞いは、本来の姿ではなかったのだ。
それに気付けたのはただ一人。アレクだけだったと思うと、まともに顔が見れなくなった。
自分も確かに、幼い頃ティアと遊んだのに、あの無邪気な笑顔を見ていたはずなのに。
自分も大臣たちと同じように『リシティア姫』のみ愛していたのかと、セシルは小さく思った。
「ティア。幸せ?」
これを聞くために、ティアの迎えを引き受けたのだ、と唐突に思い出す。
これは、大臣のみならず、国民全員の関心ごとだった。誰よりも国と民の幸せを願った彼女の幸せを、今度は民全員が願っていた。
「どうしたの? 急にそんな質問」
ふふっとティアが嬉しそうに笑った。照れくさそうに、の間違いかもしれない。
セシルはそっと笑い返す。小さい子どもがするように、ぎゅっと手を握り合う。
幼い頃でさえ、そんなことしたことがないのに、と二人は同時に思った。男女の三歩程度の正しい距離も、今は忘れることにしよう。
「幸せよ。すっごく。
国と民を裏切ったなんて、言われなくても分かってるけど、それでも幸せだと思うの。今までのわたしからは想像できないような言葉と思うでしょ?
でもね。事実なの。本当に、幸せ。心の底から、今そう思っているの。アレクと一緒にいられて、幸せだなぁって」
ゆっくりと、それは花が綻ぶように。
他国の代表へ向ける、ただ正しいだけのものでもない。
民へ向ける、慈愛に満ちたものでもない。
ただ心底嬉しそうに、その事実を愛しむように、笑顔を作る。
今まで誰も見たことがないような、誰が見ても分かるような、幸福の証。
「珍しいものを見たな」
独り言が口から出る。それを聞いて、ティアは不思議そうに小首をかしげた。その様さえ珍しく、口元に浮かぶ笑みを隠すことに苦労した。
「え?」
「いや。アレクへの自慢の種ができたと思って」
セシルが嬉しそうに笑って、ティアの手を引っ張った。ティアが慌てて前へ歩く。
パタパタと淑女らしくない足音が廊下に響き渡った。アレクはきっと、まだこの笑顔を見ていないだろうと思いつつ。
「アレクは、君を守れると思うかい?」
その笑顔が曇らないように、その瞳から涙がこぼれないように。
「どうかしら? セシルの弟だから」
クスクスと、嬉しそうに笑うティアの顔を見て、そっとセシルは願う。
どうか、二人が幸せでありますように。たとえ喧嘩をしても、問題が降ってきても、二人で歩くことを止めないように。
「ひどいな。グレイスのためにいつも頑張っているのに」
守れているとは、言えない。
泣かしたことがないとも、言わない。
だけど努力しているということは、胸を張って言えるから。自分の弟がそうであるように、自分もまたそうなのだと。
「セシル」
「うん?」
「あなた幸せ?」
もしかしたら、ティア自身も不安なのかもしれない。
王族として生まれ、育ち、生きて……そして死ぬとずっと思っていただろうから。どこかの国へ嫁ぎ、国を離れることはあっても、王族を離れることはないと信じていただろう。
自分たちも、そうだと信じて疑っていなかった。
「幸せだよ。いっそ、怖いくらい」
「そう。ならば、わたしも数年後、そう言えるのでしょうね。アレクは、あなたの自慢の弟なのだから。あなた以上に、きっと、わたしを幸せにしてくれるんでしょう」
気高い姫君は、ただの少女に戻り、恋した男の下に嫁ぎ、そして母になる。
多分、ティアは自分の子が王位継承権を持つことに反対するだろう、とセシルは思いつつ、ティアの手を握りなおした。
この様子を見た弟の顔を想像し、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。
「十年越しの恋が叶うわけだ。長かったね」
――長かったわ、とティアが笑った。
「だけど。今幸せなら、それもよかったかな、と思ってるの」
「そう?」
願いが叶うなら、どうかずっとずっと、二人が離れることがないようにと祈りながら。