第39話 『白い花弁』
コンコン、と扉が軽くノックされた。
最初に頭へ浮かんだ人物が来るはずはないと思いつつ、そっと扉へ近寄って、扉に手をかける。開けば、鮮やかなブロンドが目に入った。
「ティア?」
最初に浮かぶ名で呼びかけると、今度は外側から扉がもう少し開く。
寝巻きの上に、薄いショールをかけただけの格好に絶句した。彼女にしてみれば、ここは自宅かもしれないが、こちらは仕事場だ。(もちろん、住居スペースはあるものの)
「ごめん、なさい」
こちらの表情をどこまで読んだのか、ティアは眉を寄せて謝った。
そしてそこでようやく気がつく。明日、正式に彼女はここから出て行くのか。彼女はもう、王族ではない。
様々な制約はあるが、一応『王族』という立場と、それに付属していた権利を一時的にだが失った。
その証拠に、彼女の首筋にユニコーンの紋章はなく、代わりに白薔薇が咲いていた。
特殊な顔料で描かれたそれは、専用の溶剤がなければ消えないが、彼女を縛るユニコーンが消えたわけではない。その白薔薇の下に隠れただけだ。
見えなくなっただけで、鎖がなくなったわけではないのだと、ティアは白薔薇が出来上がった日に薄く笑った。
それでも、仮初の自由は与えられた。完全に逃げ切れはしないが、少しの間忘れることはできる。少しの間、彼女は自分のものだと思うことはできる。それだけで、十分だ。
「眠れない?」
「緊張、してるのかも」
ぱたり、とティアが後ろ手に扉を閉める。寒さが少しずつ強まるこの季節、城の廊下の冷たさは身に沁みただろう。
そっと触れた頬はひんやりと冷たく、仄かに赤くなっていた。白い肌に目立つその赤は、ゆっくりと広がっていく。
するりと手がひとりでに動き、ティアの髪を書き上げる。
長く、豊かなブロンドが手から零れ落ちていく様子は、美しいとしか感じられない。どこの国の金糸にも勝るだろうと思った。
白薔薇があらわになるとともに、左耳につけられたピアスがきらりと光った。
そっと唇を寄せて、首筋に触れる。五年前も確か同じことをした。自分が死にかけたあと、確かに自分は彼女の首筋に唇を寄せた。
白い花弁の横、わずかに綻ぶ大輪の花に添えるように、赤い花を咲かせる。
五年前には怖くてできなかった。彼女は国と民のもので、自分のものでは決してないから。証をつけると、手に入れたつもりになると思ったから。
「……何?」
「罰が下るのも恐ろしくないほど、溺れてる」
愚かだろう。
彼女を手に入れたつもりになるなんて。
国と民に身を尽くし、愛された彼女を自分のものにしようなんて。手の中に閉じ込めて、誰にも見せないようにしたいだなんて。欲深いことだろう。
「溺れて、息もつけなくて」
より深く、その奥へと沈む。
沈んで、沈んで、底も見えなくて。
今自分がいるところが水面近くなのか、底なのか、それさえも分からなくなる。
「苦しいの?」
ティアの声が降ってくる。確かに、苦しいのかもしれない。
この美しい金髪と、光を閉じ込めたような瞳を手にするのが。少しだけ怖くて、辛いのかもしれない。
「分からない」
「そう」
彼女は、こちらの頭を引き寄せた。ふわりと甘い香りが強くなる。
顔が彼女の首筋に埋まった。彼女が何か話そうと口を開くのが何となく分かる。上下する首筋が妙に扇情的だった。
「わがままかもしれないけど、苦しくても、辛くても、離れたりしないで。
多分、私のことで色んな人からたくさんのことを言われると思うけど、わたしを手に入れることを、後悔しないで」
わたしも、何を言われても選んだ道を後悔しないから。
アレクとした、全てのことを後悔しないから。
強い声は、涙にまぎれてぼやけた。彼女の手が上から首に巻きつく。長く柔らかなブロンドが頭へ、肩へ流れる。
彼女の背に添えた手に力を込めて、再び抱き寄せた。
先ほどよりずっと強く。彼女の体には少々強すぎるくらいたくさんの力を込めた。
そしてそっと顔を上げる。潤んだ瞳とぶつかり、声にならない『うん』という返事をした。
「わがままなのは分かってるんだけど、ごめんね」
ティアが頬をくっつけてきた。
はじめはひんやりと、時間が経つとじんわりと温度を変える。互いの体温のちょうど中間部で安定した体温は気持ちがよかった。
それにほう、とため息をつく。
「俺の持っているものは何でもあげる。ティアが欲しいって言うんなら、この命でさえ、あげる。
だから、ティアの全部を俺にくれないか? ティアの持っているもの、全部」
全てをちょうだいと、幼い子どものように言う。
言いたくて、ずっと言いたくて言えなかった言葉だ。
その心も、躰も、これからの時も視線も、向けられる笑みも言葉も全部、全部が欲しい。彼女のものであるはずのもの全て。
「あげる」
一言だった。
迷いも戸惑いもなかった。
いつものように、難しいことを言うことも、国と民の話が出てくることさえもなかった。不思議なほどはっきりと、彼女は返した。
「ありがとう」
この一年で、一番甘い口付けをと心の中で思いながら、彼女の唇を奪った。ああ、やっと、彼女を手に入れることができたんだと、心の中のどこかでそう感じた。
たとえ、本当は手に入らなかったとしても、彼女が『あげる』というのだから、自分は確かに『手に入れた』のだと思う。
錯覚でもいいとさえ思った。彼女が手に入ったと、思えるのなら。