第4話 『離さない』
もし自分が王女の誘拐犯の主謀者ならば……。どうする? どうすれば成功といえる?
一人部屋に篭り、考え込む。
王女は、そうわたしは殺せないだろう。賢い人間なら殺すなんて選択は出てこない。でも、攫ったってことはしばらく出てこられては困るということなのか……? そう五年くらい。
今自分がいなくなって得する人間は王子に、シエラに王位を継がせたい人たちだろう。もう王は長くない。五年なんていう長い月日に堪えられはしないだろう。
王子が一六歳になれば王位は王子のもので、わたしは関係なくなるのだから。それまで王女であるわたしに色々動き回られては困る人たち。
昨日来た大臣のようにわたしが邪魔な人……。昨日の、大臣のような……?
「まさか……」
安易過ぎるだろう。国のために働く大臣が王女を誘拐なんてあってはならない。でももし、大臣が主謀者ならば、自分の手は汚さないだろう。
実行に移すのはいつでも切られる下っ端。自分は無関係だと言っていられる、関係があるなんて証拠が掴まれないような他人を使うはず。
そんな人間がプルーを偽者だと知ったら? 一体プルーは――。
王女なら殺されずに済むだろう。神と崇められる女性の子孫を手にかけたが最期、末代までこの国には足を踏み入れられないだろう。
でもただの警備隊の騎士なら、簡単に殺されてしまう。もしかしたら人質に取られてしまうかもしれない。
と、そのとき侍女の声がノックと共に聞こえてきた。イリサの声ではないな、と考えつつ入室を許すと、一人の侍女が失礼しますと入ってくる。
日ごろ見かけない、多分他の職場の侍女なのだろう。オロオロとしていて落ち着きがない。二つの長いみつあみは王宮に仕える侍女にしては野暮ったく、侍女の制服も似合っていない。
どこの子かしら? と首をかしげた。見目のよくない者は、王や王妃、その子どもたちと接することはないはず。
「プルー様、警備隊隊長のエイル・ミラスノ様よりお手紙です」
アレクたちに言った通り、今ティアはプルーとして生活している。
「あぁ、ありがとう」
美しいブロンドを明るい茶色に染め、騎士の制服を着て、黒のマントを身に着けている。少し本物より小さいのはブーツのヒール部分を高くして誤魔化している。瞳の色だけは隠しようがないのでなるべく人と会うことを避けた。
さらりとした手触りのいい、良質の紙には、少し角ばった字がそれでも流麗に書かれている。美しく、貴族として理想通りの字を書くアレクとは少し違った字だ。
『数日前から妙な動きをする集団あり。探し物はそこにあると予測する』
プルーの名前も、ましてや自分の名前もない。その妙な集団の居場所も分からない。たぶん二人は手紙が狙われることも考えたのだろう。
そして文字以外にも伝えられたことがあった。
『姫は付いて来るな』と、この手紙は言っている。それが分からない程、ティアは子どもではない。しかし、それをよしとする程大人でもない。
侍女に『返事は後でする』と言い退出を促した後、プルーの部屋の椅子にドカリと座る。
自分の部屋のものに比べると、少し……いや、すごく座り心地がよろしくないのはこの際目を瞑るとしよう。王女の部屋と、一介の騎士に与えられている部屋の調度品が一緒なはずがない。
周囲の人間はどうにか誤魔化せることに成功した。残る問題は一つだ。
「どうやってアレクたちに付いて行くか……よね?」
かつて"おてんば姫"と呼ばれていたのだ。六、七年ではその性格は直らないだろう。いや、一生直らないと断言できる。
守りたいものは自分で守る、それが『わたし』を『わたし』たらしめるのだから。
「フェイ」
そう呼ばれて、ティアは振り向いた。今いるのは王宮の城から少しばかり北方の地。警備隊一軍の騎士たちに付き従う見習い騎士として入り込んだ。
長い髪は上手く結って、邪魔にならないようにし、色の付いた眼鏡をかけ、瞳は見えないように注意して。
「はい! 何でしょう?」
見習いなので雑用を頼まれることが多いが、元来外に出るのが好きなティアには少しも苦にならなかった。むしろ困るのは……。
「それが終わったら隊長たちが鍛錬見てくれるって!!」
アレクとエイルとの対面だ。見習い騎士なので声を掛けられることもないだろう。今回でアレクたちと会うのは二回目だが、とにかく見つからないように気をつけている。
しかし、昨日は目が合いそうになって、慌てて仲間の後ろに隠れたのだが……。
(見つかったらアレクに何て言われるかしら?)
いや、むしろ姫らしくない、と卒倒するかもしれない、そう考えて笑った。まぁどちらにしろ……。
(私を無断でおいてきた罰よね)
そう自分に言い聞かせた。
今回の旅の目的を知っているのはわずか数人。混乱を防ぐためにただ『盗賊が現れたらしいので、調査しに行く』とだけ言われたらしい。
ちなみに『姫』もとい『プルー』が誘拐されたと知っているのは、当事者二人とアレクとエイル、侍女に、大臣たちだ。警備隊の騎士たちや、他の人間には未だにバレてはいない。
しかし、普段特別なことがない限り、ティアの傍を離れないアレクが同行しているのには少なからず疑問を持つ者が多いようで、騎士たちは密かに話し合っていた。
アレク自身が噂の格好の餌なのだ。公爵家の家に生まれたにも拘らず、そして学者顔負けの知識を持っているにも拘らず、騎士となったことを皆不思議がっている。
一〇歳から見習い騎士として鍛錬を初め、特別扱いされることなく一三歳では騎士となり、一六歳という若さで騎士隊のエリートが集う近衛隊に配属された。
そして僅か一年で『蒼の騎士団』に入った。すべて実力によるもので父のボールウィン大臣は一切の口出しをしなかったらしい。
むしろ一人前の騎士になるまでは口も利かなかったというのだ。
そこまでする理由が、他の騎士にもそしてティアにも分からなかった。ずっと考えてはいる、何回も何回も考えたけれど結局答えの出なかった問題だ。
人は未だに問うらしい。何故騎士になったのかと。普通にボールウィン大臣の下で働き、有能な兄を補佐すればよかったのではないかと。
君の能力なら家柄なしでも立派な学者としてでも取り上げられたはずだと。
アレクがどう答えているのか、ティアにはそこまでの話は入ってこなかった。
でも、何となく想像が付いてしまうのが嫌だ。
「どうせ、アレクのことだから……。国と王の為ですって言うんでしょうね」
すごく真面目な顔をして、さも当然という風に。それが当たり前で、それ以外は思いつかないと言うように。
ティアが欲している答えを口に出すこともなく、ただ……それだけだと。
小さく自嘲気味にティアは笑った。
騎士たちが目的地に近づいているのに気が付いたのか、誘拐犯たちは次々とならず者たちを差し向ける。
しかしただのならず者が警備隊の一軍、ましてや近衛隊の隊長に勝てるはずもなく、次々と倒され、縄を掛けられていった。
「まずいな」
「ああ」
アレクとエイルは今後の作戦を考える、と言って二人っきりになった。遠くの方で男たちの笑い声が聞こえ、エイルは小さく舌打ちした後「気楽な奴らめ」と罵った。
そしてアレクに向き直る。
「馬鹿な与太者を雇ったのはどこぞの馬鹿な貴族だ。それは間違いない。だけど今はいないらしいな。そうじゃなきゃ、警備隊に喧嘩なんか吹っかけてこない。
どうする? アレク。奴らこれ以上近づいたら確実に姫を誘拐したって騒ぎ立てるつもりだ」
「あいつら俺たちが何を恐れているか知ってるんだ。いや、教えてもらったって言ったほうが正しいか?」
アレクはにやりと笑う。いつものような貴族然とした優雅な笑顔ではなかった。長年荒々しい気性の男たちの中でもまれた、粗野で、好戦的な笑みだ。
「俺たちが怖いのは話も通じなくなるような混乱だ。お前のとこの一軍はともかく……その下に付いている見習い騎士たちには話が通じそうにないからな」
少々皮肉めいた台詞にエイルは返すように笑う。こちらの笑顔も"ニヤリ"と表現するに相応しい。しかもアレクのより数倍好戦的だ。
「どうする? 一軍にだけ訳を話して、下の奴らは返すか?」
エイルが指揮をするはずだが、二人は対等に意見を交わしている。
「それが賢明だろうな」
そこで一端会話が途切れる。一応山場の話し合いは終わった。
「と、それにしても……」
エイルはアレクの方を嬉しそうに見やる。するとアレクは気不味気にそっぽを向いた。そしてそのまま席を立とうとする。しかし。
「ハイ。アレク。座る。見習い時代からの親友の話だ。貴族類の話は嫌いでも、市井の話は聞けんだろう? まさか逃げはしないよな?」
逃がさんとばかりに肩を押さえられ、アレクはあっけなく抵抗をやめた。逃げる、の言葉に反応したのかもしれない。それでも皮肉は返した。
「実力だけで警備隊一軍の隊長になり、あまつ上級騎士にもなった奴は言うことが違うな。ボンボン育ちで近衛隊隊長になって、上級騎士になった俺とはえらい違いだ」
「まぁな。初めは周りが煩かったけど……」
実力で黙らせたのはお互い様だろう、と言外に言われて眉を顰める。だがエイルは話を切り、まじまじとアレクを見つめた後、唇の端だけを器用に上げた。
「お前、本当に変わるよな。あのお転婆な姫様のことになると。いつも冷静なお前が焦ったり、オロオロしたりする。
そのくせ姫様に会うと冷たく接する。感情がないんじゃないかってくらい。そんなに大切ならもっと優しく接すりゃあいいのに。いや、大切だからこそって事か?
でもな、あそこまでするのは、ほんと、おかしいと思うよ。お前の冷たい態度で傷ついてる姫様、何度も見た。何度も、な。俺、時々心配になる。まっ、時々だけだけどな」
「傷付けたくて、してるんじゃない。それに、俺にだって……」
そう言って、口ごもった。何か言いたそうに、口を動かしたが結局何も口から出てこなかった。
「へぇ。お前でも、考えてるんだ」
面白そうに問うエイルに怪訝そうな顔で答える。そんなアレクを見てエイルはなお一層笑顔を深くさせた。
「でも、お前の考えてることは的外れだと思うよ。俺。お前、未だ多分分かってないよ。何にも……な」
その声は妙に寒々しかった。
「見習い騎士はここまでご苦労だった。これからはさらに危険になるので、城へ帰ってくれ」
エイルの声にザワザワとした声たちが答える。その中にはティアの『えっ?』と言う声も含まれていた。
動揺する見習い騎士に対し、警備隊の一軍はどの人も口元を引き結び、厳しい顔をしている。そこでやっとティアにアレクとエイルの考えに気付いた。
(まさか、一軍だけでプルーを助けようなんて考えてるの?)
胸がざわりと騒ぐ。嫌な予感というのは多分こういうことを言うのだろうと思った。
どうしよう。このままじゃ、見習い騎士と一緒に帰されてしまう。そう思ったとき、
「フェイ」
呼ばれた。絶対に呼ばれない、呼ばれるわけにはいかないと思っていた人に……。アレクだ。
「ちょっと来い」
そう言われ、襟首を掴まれたままズルズルと引きずられていく。そこに姫としての接し方はない。あるのは見習い騎士に対する接し方だった。
そしてそのままエイルの元に連れて行かれ、そこでやっと解放された。
「アレク様? エイル様? 何なんでしょうか?」
ティアはわざとらしくエイルに聞く。するとエイルは小さく笑い、眼鏡に手をかけて取ってしまう。
「あ……」
「リシティア様。どういうことか……」
「ご説明いただけますか?」
アレクとエイルがティアに向かって聞く。アレクはいかにも怒っているように。エイルは笑顔で。エイルの笑顔は妙に怖い。ティアは誤魔化すようにニコリと笑うが、アレクに一喝された。
「あなたは自分が狙われている自覚があるんですか? どうするんですか。あなたは体調不良で部屋から出ず、姿を現さない。プルーはいきなり行方不明になる。今、城は大騒ぎですよ、きっと」
「あら、大丈夫よ。イリサがプルーに扮するわたしの傍を少し離れている間に、書置きをしてきたの。『プルーとわたしは町に遊びに出たことにしておいて』って」
それを聞いて、アレクは盛大にため息をついた。そしてチラリとエイルを見やる。
「どうして来たんです?」
エイルの言葉に、それまで誤魔化すように笑っていたティアは表情を変えた。その顔はまさしく政治をするものの顔であり、同時に剣を扱う者特有の冷徹な顔だった。
王宮の執務室にいるときのような厳しい表情でアレクとエイルを見る。
「では、聞くけれど……。あなたたちは何故わたしに何も報告せず、相談さえなく、ここに来たのです? 自分たちだけで」
急に口調が改まる。問いただすような口調で聞き、ティアは自分より頭二つ分も大きなアレクとエイルを下から睨みつけた。
「わたしに来て欲しくないなら、そう言えばいいでしょうに。何故騙すように来たのです?」
大臣たちと話すときの口調とはまた違う、丁寧だけれど反論を許さない口調。普段の口調が柔らかいだけに、厳しさが浮きだつ。
大臣たちと話すときの口調はまさに父王が話すときの口調そのもの。アレクたちと話すときの口調は貴族の子女のもの。怒りを感じ、厳しく問いただすときの口調は剣の師匠のもの。
その使い分けがはっきりと分かり、エイルは感心した。こんなにまで立場の違いで言葉遣いを変えるのかと。
「それは」
厳しい口調にアレクは咄嗟に言いよどんだ。しかしアレクは何かを決めたように口を開く。
その瞬間だった。
無数の馬のいななきと、足音が聞こえ、十数人の男たちが現れる。アレクとエイルがティアの前にさりげなく出て、ティアを隠す。他の隊員も次々と集まってきた。
「そこにいるのは本物の姫君か?」
一人の男が出てきてアレクに聞く。アレクたちの顔から血の気が一斉に引いた。彼らが誘拐したのが別人だとばれている。
「姫君はさぞかし優しいんだろうと市井のものは噂している。その姫の身代わりにこの女が死んだと知ったら、どんなに悲しむだろうな」
不惑の年をいくつか過ぎたような、がっしりとした男はニヤリと気味悪く笑った。その男の後ろからプルーが引きずられて出てきた。
ぐったりと力なくうなだれ、美しいドレスはところどころ破られたようにぼろぼろだった。首や脚がむき出しで赤い痕が付いている。
硬いもので殴られたように、その赤い痕の奥に青いあざが浮き上がっている。顔のあちこちに血がこびりつき、ティアは手を握り締めた。
思わず駆け寄ろうとするアレクは半ば押さえるようにして留めた。
「死んでいるの……?」
ひどく幼い声で、それでも必死に冷静さを保とうとして努力する。男は再び笑った。
「ほぉ。噂通りの優しい姫だ。あなたが大人しくこちらに来ればこいつは返そう。もう役には立たない。なぁに、命に別状はないさ」
ぐいっとプルーの髪を掴み、上を向かせる。その顔が痛みに歪むことすら、なかった。
「リシティア様……」
「姫様が行く必要はない」
アレクの声を遮るようにエイルは言った。そしてティアを後ろへと押し返した後、男たちをゆっくりと見回した。
めったに怒ることも、声を荒げることもないエイルの表情が今はとても冷たい。それが信頼している副隊長を傷つけられた所為か、ティアをこちらへ渡せと言われた所為かは分からない。
「その者は国を守るための警備隊の副隊長だ。その者の為に何故、姫様がお前のような者の元へ行かなければならない?」
いつも厳しいアレクとは対称的だと思っていたエイルの声はとても鋭い。いつも笑顔だったその表情は全くなく、やはり若くして隊長をやっているだけの眼光があった。
「その者も姫様の身代わりに死ぬのなら本望だろう。殺すのなら、さっさと……」
「やめて!!」
これ以上聞いていられなくて、ティアが声を上げる。
そんなこと言って欲しくなかった。プルーを心配して、わざわざティアに言いに来るようなエイルに、プルーが死んでもいいなんて口に出して欲しくなかった。
例えそれが本当のことでなくても、ただの狂言だったとしても。言葉にすれば、口に出せば、本当に思っているのかと、疑ってしまうから……。
アレクが支えているが、ティアの体からはすでに力が抜けていた。その様子を見てもエイルは言葉を止めなかった。
「姫様はいずれ女王になられるお方。いえ、例えならなかったとしても、国にとって重要な方です。こんなところで亡くならなくてはならないお方ではございません。守られるべき方なのです」
「それでも……」
それでも、そんなことを言うのはあなたじゃなくてもいいでしょう? そう聞きそうになる。しかし、ティアは絞り出すような声で、違う言葉を紡いだ。
「騎士も、兵も立派な我が国の民です。わたしは女王になる身である前に、一人の王女です。わたしが王女である限り、無駄なけが人も、死人も出させません。
無益な争いだってさせない。民も守れぬ王はもはや王でなく、ただの為政者です」
そう言ってアレクを押しのけた。アレクはティアの手を掴もうとするが、その手は宙をきる。
ティアは今まで結っていた髪を解いた。ふわり、とブロンドが広がり波立たせた。
先程までの弱さは消え、顔には笑みさえも浮かべている。王女だと言われなくても、誰もが認めるであろう、威厳ある姿。
「我が兵は我が民。何人たりとも傷つけることは許さぬ」
低い宣言に回りの男たちが、隊員でさえもびくりと身をすくませた。服装は普通の見習い騎士の制服姿だったが、その姿は王宮にいるときとか変わりなかった。
コツリ、足音が一際大きく響く。一歩、一歩プルーの傍へ歩いていく。
「わたしがくれば……プルーは用なし、なんでしょ?」
自分より遥かに身長の高い男を真っ直ぐと見つめ、声を出した。
「でも、覚えておきなさい。わたしはあなたたちの主謀者を知っているわ。あなたたちの目的も大体分かる。
わたしをここで軟禁したからといって、あなたたちの思い通りになるとは思わないで」
凛とした声に男はたじろぎつつ、それでもティアの腕を掴んで笑った。背筋の寒くなるような笑み。
「そんなことはいいさ。俺たちに任された仕事はあんたをおびき寄せて、ここに監禁しておくだけ。あとはお偉い方が考えてくれるさ」
そう言うとティアの腕を掴んだまま、自分たちの仲間の方へと歩く。ティアは大人しく従い、俯いたまま顔を上げようともしない。
「姫。怖さで上を向かっていられないか? 先程までの威勢のよさはどうしたんだ? えぇ? 傷つけることは許さぬ、と言ったくせにいざ自分が傷つくとなると怖気づく。
所詮、身分の高い人間はそんなもんだろうな。そうだろう? 蝶よ花よと育てられた深窓の王女様?」
男はティアの頤に手をそえ、くいっと持ち上げた。掴まれていた腕はだらりと垂れ下がり、フラフラと揺れている。
「あぁ、思い出したから言うけど、誰があなたたちの言いなりになるって言ったかしら? わたしがそんなに大人しいように見えて?」
にやり、といつもと全く違う笑みを浮かべ、ティアは言った。
「なっ」
何が言いたい? と問う暇もなく首筋に冷たい物が当たる。目だけを動かし伺うと、ティアが細身の剣を突きつけていた。
「動いたら、ごめんなさい。わたし慣れていないから力加減が分からないの。命の保障は出来ない、って言ってるの分かる?」
ひやりとするような言葉に、どう返したらいいのか一瞬迷う男。
「姫に人が殺せるのか?」
首筋の冷たさに冷汗をかきながらも、男は気丈に話しかける。その顔には未だ余裕と呼べるようなものが僅かに残っている。
しかし次の言葉で、その僅かな余裕も完全になくなることになる。
「あら? わたし、今殺すって言った? ただ保障しないって言っただけよ? わたしはあなたの動きを止めるだけでいいの。脅して。だって、ほら」
そう言って嬉しそうに男の後ろを指差した。
「アレクがここに来るまでの時間を稼げばいいんですもの」
無邪気とも取れる顔が一瞬に冷たくなる。
「王族に反旗を翻す者、之重罪なり。王族に仕える者に危害を与えた者、之許すべからず」
冴え冴えとした声が響き渡ると同時に、男の仲間が一斉に剣を抜き放った。それを見てティアは少しだけ、顔を俯ける。
「アレク。全てはあなたとエイルに任せます」
それだけ言い置いて、プルーの方へ下がろうとしたティアの腕をアレクが掴む。
「……っ!!」
びくりと震え、ティアは咄嗟にアレクの腕を振り払った。その顔は恐怖で染まり、歪んでいる。そしてその後、すぐに自分がしたことに気付き、一層顔を青ざめさせた。
アレクに握られた右手首を左手で包み、カタカタと震えている手を必死に止めようとする。
「アレク、あの」
何とか言わなくてはと思いつつ、何も口をついて出てこない。
恐る恐るティアはアレクに手を伸ばした。一度はじいておいて、自分から手を伸ばすなんて。そんな思いもよぎるが、その考えを振り切った。
スッとアレクの手が伸びて来るのを見て、ティアは突然『はじかれたらどうしよう』と思った。先程自分がしたようにはじかれたら……。
意識するとその思いはますます大きくなり、ティアは怖くなって思わず目を瞑った。そう思うと先程の行為をより一層悔いる。
「まったく……」
いつもより少しだけ感情の見え隠れする声がして、ティアは目を開けた。アレクの手がティアの手を掬い取り、優しく力を込めた。
ピクリ、と体が反応してしまう。小さい頃はよく手をつないだ。その頃は剣を持ち初めで掌は柔らかく、肉刺が出来たと言っては痛がっていた。手の大きさだってそんなに変わらなくって……。
どちらかと言うと、剣を持ち始めたのが早い分ティアの方がしっかりした作りをしていた気がする。
今ではもう、硬かった肉刺もなくなってしまい、どこからどう見てもお姫様の手になってしまった手を見て悔しさ半分、それでも女らしくなったと嬉しくも思ってしまう。
一方アレクの手はあれから随分変わってしまった。ティアよりも随分と大きくなり、すらりと細く長いにもかかわらず、しっかりとした……剣を扱う手になっていた。
無骨ではないけれど、決して華奢な印象も与えないような手。幾つかある傷は大小様々で、公爵家の次男が……と眉を顰めるご婦人もいる。
しかしその傷は努力の量であり、国を守りたいと言う気持ちの表れだと、ティアは信じて疑わなかった。
アレクに握られた自分の手はいつもよりずっと小さく見えて、改めて違う生き物なんだと認識した。
「守りにくくて仕方がありませんね。あなたは……。怖いなら怖いと、大人しくしていればいいものを……。こちらは寿命が縮まるような思いでした」
そう言って息を吐いた。そこで初めてアレクにいつもの余裕がないことに気付き、小さく驚いてしまう。
しかしそれを指摘してしまえば、あっさりと否定される気がしたのでティアは口を噤んだまま、アレクを見つめ次の言葉を待った。
「弱いなら弱いなりに守る方への負担を考えてください。本当に血の気が引いてしまいました」
その顔がとても、痛そうで、今回自分はとても心配かけてしまったんだとティアは改めて悟った。しゅん、と項垂れるようにして、アレクの胸に頭を預けた。
「ごめ……んなさい」
自分の声が震えているのが分かって、それでやっと怖かったのだと自覚した。殺されることが怖かったわけではない。
王族である以上、いつ国のために首を差し出さなければならないときが来るのか分からないのだ。国と民のために死ぬ覚悟は出来ている。でも……。
あんな男たちに例え五年という歳月の間でも好きにされるのがたまらなく嫌だった。何をされるか分からない。
王族への不満をぶちまけるか、それとも……。考えるだけで悪寒が走り、きゅっとアレクの軍服を握った。
気が付くと当たりは静まっていて、男たちは地面に伏していた。……血と泥にまみれて。ティアがそれらを……生きているように人と呼べなくなった者たちも見つめ続ける。
いつの間にかアレクの手はティアから離れ、アレクは目の前にいるティアを心配そうに見つめていた。
死体を見るティアの表情に目に見える悲しみはなく、ただ喪失感と言うに相応しい感情が表れていた。そんな表情を見ていたアレクは唐突にティアの目を後ろから塞いぐ。
「え……?」
いきなり暗くなった視界に驚き、それでもその原因が信頼している人間だと知り肩の力を抜く。ティアは目隠しをされたまま、仰け反ってアレクの顔を見ようとした。
アレクは右手でティアに目隠しをして、左手でティアの体を引き寄せるとティアの耳元に唇を持っていく。
ティアは状況が分からない混乱と、耳元にあるアレクの気配に固まり、されるがままになっていた。
「できれば……」
そう小さな声でアレクが言う。いつものきびきびとした説教めいた口調ではない。もっと頼りなくって、弱い声だった。
「できることならあなたに……。こんな光景を見せたくありませんでした」
悔やむような、自分を戒めるような声にティアは声を挟むこともできず、アレクの左手の袖をそっと握り締めた。
「あなたには見る必要のないものです」
それは一体何のことを言っているのだろう、とティアは暗闇の中で考えた。暗闇は大嫌いだったはずなのに、この暗闇は全てを包み込むように優しく、穏やかだ。
国民同士が傷つけ合うところを見せたくなかった?
誰かが死ぬところを見せたくなかった?
ボロボロな死体を見せたくなかった?
国民が自分を……王女を裏切るところを見せたくなかった?
全て合っているのかもしれないし、全て合っていないかもしれない。しかしティアにはアレクに聞き返すほどの勇気はなく、大人しく体重をアレクに預けた。
そのとき遠くの方でプルーの名を呼ぶ声が聞こえ、ハッとした。ティアは今までプルーの状態を気にしていなかった自分を恥じ、すぐさま向かおうとする。
が、一拍差でアレクがティアの体を抱く力を強めた方が早く、ティアはアレクから逃げられない。首をめぐらせると、やっと目隠しをはずされ、目の前にアレクの顔が現れる。
いつも通りの顔だ。アレクは小さく笑い、そっと耳打ちした。
「しばらくそっとして置いてやってください。プルーの心配を一番していたのはエイルですから」
そう言えばプルーを呼んでいた声は焦っていて、いつもとは違っていたけど……。言われてみればエイルかもしれない。ティアは大人しくアレクに従い、二人の様子を見守った。