第36話 『得る』
「……っ」
それだけで十分だと言いたかった。
「っ。アレク」
それが一番欲しい言葉だと、ちゃんと伝えたかった。
「ごめん」
彼は王族を辞めてもいいという。王族を辞めてしまえば、人目を気にせずそばにいれる。
義務も、仕事も、国や民さえ関係なくなる。彼の手を取れば、きっと自分は幸せになれると分かっている。
ずっと守られて、彼の隣にいることができる。
しかしそれと引き換えに、自分は彼を守る唯一の権力をなくすのだ。
今までは、いざとなったら大臣たちの反対を押し切ってでも何かをなせた。彼のような方法ではないけれど、自分にも彼を守る術はあった。
……だから、彼の隣にいることはできなかった。
「ごめん、アレク」
王族を辞めてしまえば、彼の傍にいられるようになってしまえば、わたしは力のない、貴族階級でさえもないただの女になる。だけど、だけどっ。
「……アレクと一緒にいたいっ」
守れなくなると分かっているのに、もう自分は彼に守ってもらうしかなくなってしまうのに、彼に与えられるものなど、多くはないと知っているのに。
わたしは、どうしてこう思ってしまうんだろう。
「アレクと、生きたい」
この一言を言うのに、何年もかかった。
何度も言いかけて止めた。
何度も呑み込んで、代わりに音のない涙と嗚咽を落とした。彼を傷つけて、自分も傷ついて、二人で互いを抱きしめあった。
「アレ――」
呼ぼうとした瞬間、きつく抱きしめられる。背中に回された手がきつく締まる。
肩にアレクのあごが乗り、首に髪の感触がした。くすぐったくて身じろぎするが、それさえも許さないというようにぎゅっと抱きしめられる。
これが幸せなのか、とふと思った。幸せとは本来、こんなにもすぐ手に入るものなのだろうかと、今までの自分を振り返る。
別段、幸せを感じる瞬間はなかった。国と民の笑顔を見るたび、少しだけ肩の荷が下りた気がしただけだ。
それはどちらかといえば、その笑顔に心から嬉しいと思うのではなく、悲しませずにすんだという安堵の意味をも含んでいるものだった。
それだけだ。
「ありがとう」
アレクの声が聞こえる。にじむような喜びが、その声に表れる。
許されているんだと思うと、妙に気恥ずかしく、心地よかった。こんな妙な気分はアレクにしか感じなかったと、今更ながらに思い出す。
「ありがとう、ティア」
俺を選んでくれてありがとう、とアレクは何度も言う。
こちらも何か言わなくてはいけないのに、言葉が出ずに、ただアレクの制服を強く握る。これだけで、伝わるはずないのに、伝わって欲しいと願った。
大好きだよ、と。
大切だよ、と。
全てを捨てるようなマネをしてまで、一緒にいたいんだ、と。
他の人から見れば愚かだと思えるくらい、アレクが大切でたまらないんだよ、と。そう、アレクに伝わっている?
ふわりと頭を撫でられた。王族特有の鮮やかなブロンドを柔らかく、優しく撫でられる。
トロトロと、心地よさに瞳を閉じた。ここ数ヶ月の激務に加え、今日の発言での混乱を考えて、引継ぎの書類も作っていたのだ。
ここ数日、緊張と何か分からないもののせいでろくに寝ていないことを思い出す。でも、こんなこと日常茶飯事だったのに、と言い訳も加えておこう。
今日の発言のことを知っていたのはアレクだけなので、書類作成は誰もいない時間にしなければいけない。アレクにも随分と無理を強いてしまった。
「伝わってるよ。大丈夫、ちゃんと、分かってる」
ありがとう、と自然と口から言葉が零れた。
「ティア、眠いの?」
アレクの声が聞こえる。
眠ってしまいそうになっているのか、ぼんやりとしかその声が聞こえない。もったいないな。すっごく優しい声でもっと聞いていたいのに。
「ううん、眠く、ないよ」
違うよ、と否定する声は口の中で解けた。ここで寝てはいけない、と思うのに、意志に反してまぶたは重くなっていく。
ついに我慢できなくなって、完全に閉じてしまった。アレクの苦笑いが空気の揺れで分かる。
ここ何年間か、感じなかった睡魔が追い詰めてくる。おかしいな、もっと辛い仕事のときでも、眠気を感じることなんてほとんどなかったのに。
どうして、今更。
「寝ていいよ。ティアぐらい運べる」
『起きてる』と言ったつもりなのに、口から出てきたのは小さな吐息と意味を成さない言葉の元である音だけ。アレクが髪を撫でている。
もう何かを考えているのも辛くなってきた。あぁ、眠いってこういう感覚だったけ。
「おつかれさま。ティア。いい夢を」
わたしだけ寝てしまっていいのだろうか。大変だったのはアレクのほうなのに。
わたしの護衛が終わったって、蒼の騎士団や、隊長の仕事は終わっていないのだから。それでももう、抵抗ができない。眠くて、眠くてたまらない。
「おやすみ」
“心配しなくても、ずっとそばにいるから、今は安心しておやすみ。ティアを、きっと守るから。大好きだよ”
――それが寝る前に聞いた最後の言葉だった。