第35話 『地位と自由』
彼女は自分の地位をよく知っている。それに伴う自由の制限もよく理解していた。
それなのに、彼女が一生懸命、地位と自由がギリギリの位置でバランスを取っていたのに、それを自分は壊した。
姫の地位だからこそ、手に入るものがある。
自由がない代わりに、何不自由ない生活、教養が得られる。大抵のことは、一言で叶ってしまう。その代わり、恋なんてものは幻想に過ぎないと思い込まなくてはならない。
彼女は、自分の人生がそういうものだと理解して、その上でできることをしようとしていた。そういう人の、人生を自分は変えてしまったのだ。
「ティア。人生を変えたのは俺だからって、言ってるんじゃない。責任を感じているわけでもない。ただ心の底から、ティアを大切に想ってるだけなんだ」
「わたしの持つ、女王の称号は、もうなくなったよ」
空気にさらわれる声で言う。
感情の抜け落ちた、空虚な声だった。
「姫という地位も、もう手放した。自分から。アレク。
あなたもしかしたら、『王族であるリシティア』が好きなのかもしれないって、考えたことなかったの?」
彼女は頭がいい分、単純なことを深く考える癖があるらしい。
そんなに難しく考える必要なんて、全くないのに。自分が欲しいのは、ただ一言。『わたしもよ』というその一言だと、彼女は分からないのか。
そんなに、『わたしも、好きだよ』というのが、難しいのか。
彼女には苦しいのか。
「王族に、恋の感情なんて必要ないの。尊敬の上で成り立つ愛情さえあればいい。
……ずっとそう思ってきたの。だから、今更王族を辞めるって言ったけど、アレクが一番って言ったけど」
本当は、と震える声が、唇の動きが、こちらに伝わってくる。今まで見た中で一番苦しそうな顔をした彼女がいた。
「怖くて、たまらない」
やっと本音を漏らしてくれた。
滅多に泣かないティアが涙をこぼすのは、本当に辛くて、どうしようもないときだと知っているから、無理に止めないようにゆっくりと抱きしめる。
「アレクと一緒にいたいよ。大切だよ。大好きだよ。でも、いざ王族を辞めるのが怖い。
ずっと願ってた、ただのティアになるのが怖い。政治も経済も外交もいらなくなったとき、わたしが何で必要になるのか分からない。
アレクが、これからくれるモノに、わたしは何も返せない」
何もいらないと言っても、ティアは納得しない。愛などという、数えられなくて、数字にできない不確かなものが好きではない。
「もしティアが、俺と一緒にいたいと思って結婚したら、俺はたくさんのものをもらえると思うよ」
“結婚”という言葉にびくりと反応する。
彼女が怖がっていたものが少しだけ見えた。
「ティアの時間とか、気持ちとか……もしかしたら、子どもとかも」
簡単なことだ。そして自分が欲しくてたまらないものだ。それをどうしたら分かってもらえるのか、分からないけれど。
「それでいいの?」
「いいよ。それより、ティアはいいの? 貴族の地位もない、一介の騎士なんかに嫁いで」
抱きしめたぬくもりは温かくて息がつける。わずかな感情の変化さえ、伝わってしまいそうな気がして怖いと小さく思った。
「……アレクが、いい」
ぐっとティアが掴んでいた衣が下へ引っ張られる。
「一年前から、わたしはずっと考えてた。こうするのがいいのかどうか、まだ分からないんだけど、王族さえ辞めれば恋をしてもいい気がしてた」
わたしがいても、城にいいことはないと思うし、とティアは漏らした。
自分が下手に動いて政に首を突っ込み続ければ、どちらの“王”がよいか、という話にも発展する。
自分にそんなつもりがなくても、少なからずシエラは何かを言われるのだろう、とティアは考えていたのだ。
「でも、王族を辞めたあと、アレクとわたしがどうなるかなんて想像できなかった」
今までどおりでいられるのか、それとも新しい関係を作るのか。
「一緒にいるのがもう当たり前で、これ以上自分が何を望むのかよく分からなかった。
だけど王族にとどまれば、アレクと一生主従関係でなくてはならないということも、ちゃんと理解してて」
ティアが唇を噛む。
何が正しいのか、正しくないのかなんて分からない。そんなこと、百も承知だ。今更迷う必要はないと言いたい。今日のために、自分たちは一年間計画を立てていたのだから。
ずっと、今日を待っていた。大好きだと自覚したときから、大切だと分かったときから、守りたいと思ったときからずっと。
「わたしの持つ地位がなくなれば、アレクはわたしを守る理由も義務もなくなるのよ?」
「義務はなくなるけど、理由は『ティアが王女だから』じゃないから、なくならない」
どうやったら、この想いをそのままティアに届けられるのだろう。心にあるままに。
言葉に直して色がつき、空気に晒して淡くなり、相手に届いて色が褪せる。
心は相手に届く前に本来の意味を失ってしまう。
どうやったら余計な色もつけず、はっきりと、色鮮やかなまま届けられるのか。
言葉で相手に伝えることが、絶対というわけではないと、人々は分かっている。それでも人は、想いを相手に伝えることを止めない。言葉を紡ぐことを止めようとしない。
自分の一番伝えたいことが変色して、濁って、くすんでも、それしか方法がないからだ。
それが一番、元の姿の面影を残しているような気がするから。思いの一片でもいいから、届いて欲しいと思っているから。
「おいで、ティア。俺は公爵家の次男で、何もないけど、たくさんのものをティアにあげることはできないかもしれないけど」
それでも、ティアを求めることを止められないんだ。
まるで生まれる前から、そうであると決まっているように、止められないんだ。止めようなんて、考えられないんだ。
「それでも、ティアが泣かないように守ることはできると思うから。そう、努力することはできるから」