第32話 『零れ落つもの』
「本日ですね。リシティア様」
「ボールウィン宰相」
こつり、と広場へ向かうティアへ話しかける人がいた。
アレクたちの父親であり、ティアの父であるユリアス王の親友だったシルド・ボールウィン。食えない狸だの、笑顔で嘘を吐く化け宰相だのいわれる人物がティアを見て笑う。
「新王の誕生をどう思うか、知りたくないな。わたしは自分への批判には慣れているが、弟への批判は慣れていないのだ。
あんまり苛めてくれるな。シエラが泣きついてくる気がして怖い」
「ユリアスの愛娘がこう成長するなどと――、生まれた当初は思いもしなかったよ。ティア」
久しく聞かない、親しげな口調と愛称。それに『うさんくさい』とティアは小さくもらす。大体、この宰相にかかると単純明快な質問が、わけの分からぬ暗号に聞こえるくらいだ。
裏を十回かいたところで、その真意など分かるわけもない。
「何が言いたい? ボールウィン宰……。いや、もういいわ。シルドおじ様に直します。あなたも、『リシティア女王』と呼ぶ気はもうないみたいだし」
ティアが覚悟を決めて、シルドへ向き直る。食えない宰相殿は『久しぶりに聞いた』と笑った。
その笑顔も十分うさんくさいのだが、顔の造りはよく知る男のものと非常に似ているので、ティアは対処に困る。
「ティア。シエラはよき王へなると思うかな?」
姉のあとばかりをついてきていた、体の弱い、年の離れた王子。
賢く、強い姉の陰に隠れていた、王の器として利用できるかどうかもわからない一人の少年。
その少年が、王になるときが来たのだ。
「おじ様もタチが悪い。ご自分がわたしの派閥だからといって、そういう言い方はないんじゃありません?」
「私は、この国にとって一番よい方法を提示しているまで」
ティアがひらりと左手を翻す。その中指へ指輪は既にはめられていなかった。
シルドはそれを満足そうに眺めたあと、ティアへ歩み寄る。そしてティアの瞳を見つめて笑った。
「シエラは未だ若い。これから色々なことを経験すれば、器もまたおのずと変わってくる。ティアよりもより強く、賢い王になるかもしれない。私たちはその可能性に賭けている」
「もちろんです。わたしも、それを望んでいます」
そっと、そっと。二人は笑う。
「十五年以上前、アレクとティアを引き合わせたのはほんの冗談だった。セシルは弟のアレクへ劣等感を持っていたから、何となくアレクを連れて行った。
まさかその一度で、女神に落とされるなんて思いもしなかった」
くしゃっと、アレクと同じ真っ黒い髪をかきあげる。年をとっているはずなのに、その黒髪に白いものが混じることはなく、艶やかなままだった。
「うまくいけば、王女の結婚相手へ?」
負けず嫌いなティアの瞳が、シルドの目を射抜いた。この感覚は、前王と始めて会ったとき以来だと思い出す。それと同時に、よく似ているなと思った。
「いえ。うまくいけば、女王の一番信頼する者へ押し上げられるかと」
しかしそれも無駄だったようだ。
「我が息子を骨抜きにし、騎士にまでさせるとは。そして我が妻の制止を振り切り、無茶をするようにまでさせて……。あなたは本当に、恐ろしい人です」
「それを言うなら、一国の王の心を奪ったご自身のご子息でしょう?」
お互いににこりと、城中の人間が目を奪われるような笑顔で笑う。
もちろん、本物の笑顔ではないとお互いに知ってはいる。それでも二人は互いの心の中を垣間見て笑うのだ。
そこへやっと一人、人物が現れる。真っ白な生地へ黒いラインが入った、いつもの制服と配色が反対な、少し華美な騎士の儀礼服。
それを見て、ティアは眩しそうに目を細めた。シルドも同じような顔をして、自分の息子を見る。
「あら、アレク」
「リシティア様、弟君の戴冠式へ遅刻するなど許されませんよ。……しかも、宰相様も来ていないとか」
ティアの隣にいる自分の父親を見て、アレクは嫌そうな顔をして見せた。シルドはそれを見て、意地悪く笑いかける。『出たな、狸面』とティアとアレクが同時に思った。
普段と全く変わらない笑顔なのに、二人がそう思ったのは、宰相の雰囲気が面白いものを見つけたように輝き始めたからだ。
「アレクにしてみれば、待ちに待った日か?」
「何が言いたいのですか、父上」
同じような雰囲気、顔、声。しかし全く違う心の中、もとい腹の色。
「いや、何。二人が何かをやらかしそうだから、心配しているだけだよ。
お前たち二人は、私たち大人の予想を軽々と超えて見せる子達だったからね。今度は何をするのかと」
「いえ、もう『やらかした』んです。あとはそれを発表するだけ……ですかね」
「ティア、もうやめて。一応、まだ女王を辞めているとはいえ、王女様だから」
アレクの疲れたような発言が被る。三人の力関係が分かるような会話がしばらく続いた。
「その『やらかした』こととやらは……今は詳しく聞かないでおくよ。
どうせ卒倒するんなら、大臣たちと一緒がいいからね。お前たち二人の暴挙は、想像するだけで恐ろしい。いつ言うんだい?」
「「今日」」
零れ落ちたもの一つ。本音の欠片。