第31話 『矜持(プライド)』
「ずっと」
アレクがティアの頭から手を離す。ティアは抱き上げて膝の上におくと、アレクはまたティアの髪を梳く。
ゆっくり、ゆっくり髪の感触を楽しむように撫でて、アレクはティアに話しかけた。
「ずっと、言いたいことがあった」
優しい声が、吐息とともにティアの耳を掠める。アレクの声にほっと息を吐きつつ、その手をアレクから離すことはなかった。まるで離してしまえば、二度と手に入らないと思っているように、ぎゅっと握っている。
「ティアが女王でなくなる日に、言おうと思ってた。
だけど、言わなかったことをいつか後悔したくないから……ティアに会ったら、すぐ言おうと、家に帰る途中で思った」
エイルからピアスを受け取ったのは、ローラを連れ立ってきたときだった。
ピアスを手のひらに落とされたとき、手遅れかもしれない、と動揺したのは紛れもない事実だ。手のひらにある小さな石はヒンヤリと冷たく、自分を責めていた。
母親の制止も、兄の叱責も無視して寒国へ行き、ローラに会って、ティアが救えると、そう思っていた自分の愚かさに気付かされた。
本当に必要だったのは、そんなことではないのではないかと思った。
「ピアスを受け取ったとき、心底後悔した。ティアに、何も伝えなかったことを。くだらない騎士のプライドと、中途半端な思いやりで何もしなかった自分に腹が立った」
「くだらなく、ない」
ティアがまたアレクにしがみつく。アレクは少しだけ嬉しそうに、『ありがとう』と笑った。
「本当のことを言うと、ティアに怒られるのかもしれないけど。でも、聞いて」
アレクが息を吸い込む。彼女に一番の秘密を明かそうとする。今まで一度だって言ったことがなかった、彼女を怒らせるアレク自身の本当の気持ちを。
「俺、どうでもいいんだ。実は。騎士の地位も、この国も、民も全部」
アレクがティアを抱きしめたまま言う。ティアは驚いたように目を開き、アレクの顔を見ようと顔を上げようとするが、目を塞がれた。
ほんのりと暗い闇に包まれて、ティアは瞳を閉じる。目を塞がれる前も十分暗かったのに、今は目を開いても何も見えなくなる。
「ティア。俺は、国や民を守りたくて、騎士になったわけじゃない。守りたいものが、大切にしているから、国や民を大切にしようと思っているだけだ」
俺が騎士になりたかったのはね、とアレクはティアの目を塞いだまま笑って話す。秘密を他にもらさないように、そっと口を開いて息を吸った。
ティアは目を塞がれているのを知りつつ、瞳を開く。
「守りたいと思ったのは、ティアなんだ。ティアだけを、守りたかった。他の事なんてどうでもいいけど、ティアが国と民を守ろうとしたから、それの力になりたかった。
ティアが国と民を守るなら、俺はティアを守ろうって、ずっと思ってた」
情けなくて、最低の騎士。本来なら、女王の護衛役にもなれないような男。
「ティアが泣かないようにしたいから、騎士になった」
アレクが手を離す。ティアの目にアレクの笑みが映った。
とても穏やかな顔を見て、ティアは何故か泣きそうになった。力の限りアレクの制服を掴み、涙をこらえる。
「わたしはっ……。いつだって、民と国へ全てを捧げているつもりだった。いつでも民のために、行動できるはずだった。
アレクだって、見捨て、られ、るって――そう思ってて。強くて、王族らしく生きられる気でいた」
だけど、駄目だった。わたしは、王族に相応しくなかった。女王でいれる器を持ち合わせてなかった。
「今日ね、初めて心の底から、王族に生まれなければよかったって思った」
普通の、どこにでもいる女の子として生まれたかった。
「ど、して。アレクにちゃんと言わなかったんだろうって、そう後悔した。
大切だって、大好きだって、ちゃんと言ったら、よかったのに。国も民も大切だけど、アレクへの『大切』とは違うんだよって、言えば……」
ティアの言葉が途切れる。
「アレクが、好きだよ」
国も民も関係なく、あなたが好きです。そう言って、ティアは泣いた。
「うん、知ってるよ。ティアが民も国も大切で、それでも俺を大切にしてくれてるって、ちゃんと伝わってる。だから、泣かないで」
せめて今だけでも、気持ちを共有するようにきつく抱きしめる。
体中の隙間を抜くように。互いの中にある空気さえ抜くように、ひたすら強く、きつく、両手に力を込める。
「長かったね。ティア」
「うん」
「大好きだよ」
ただあなたが大好きです、とそう伝えるためだけに、自分たちはどれだけの時を費やしたのだろう。
どれだけの感情を、言葉を隠して、呑み込んできたのだろう。
どれだけ相手を、傷つけたのだろう。
「アレク」
「うん?」
「好きだよ、大切だよ。だけどわたしは不器用だから、女王である一年はアレクだけを一番だって言えないし、思えない。それでもいい??」
ティアがアレクの瞳を覗き込むように言うと、アレクはにこりと笑った。
「いいよ。俺の一番が変わるわけじゃないから」
こつり、と互いの額をあて、瞳をあわせる。そして二人で静かに笑った。
「一年は、二番でも三番でも、いいけどね。ティア。来年はきっと、一番だって言って」
俺は君をいつだって、どこにいたって、何年だって好きだと言えるから。