第30話 『記憶(オモイデ)』
「で? 説明してもらうわよ。アレク。
私が下した命令を無視した件と、ローラ様のご訪問。ついでにあなたがいつまで実家でおとなしくしていたのかも。全て、順番に、正しく」
にっこりと綺麗に笑った彼女だったが、言葉尻は厳しく、一切のごまかしを許さない。
「ジーク様の護衛の数が少ないので不審に思い、調べさせたところ、王子は先日から行方不明とのことでした。そしてローラ様をお迎えに上がったのは、そのほうが早いと判断したからです。
ついでに、実家へ帰っていたのは始めの一日だけで、あとはローラ様と対面し、お連れするため説得しておりました」
全く反省の色を見せないアレクに、ティアはイスに座ったまま柳眉を吊り上げた。
そのまま肘掛に肘をつき、足をゆっくりと組みなおす。その顔には一面『不機嫌』とでかでかと書かれていた。
その様子を見て、アレクはティアへ近づく。ティアがアレクをにらみつける。穏やかそうな笑顔が一変し、厳しい表情に変わった。
「近寄らないでちょうだい。命令無視した騎士の話なんて聞きたくないの」
「俺も聞きたいことがある」
口調が、いつものものでないことにティアは瞳を揺らして反応した。
主従の関係ではない、『アレク』の口調に恐れをなしたかのように、カタンとイスが揺れた。アレクはそれに関心を向けず、カーテンに手をかけ引っ張った。
シャッと軽い音がして、ティアの執務室が暗くなる。
丈の長いカーテンのせいで、真っ暗とは言わないまでもすっかり互いの顔が見えにくくなる。ティアの体が分からない程度に震えた。
「何? そこから……」
そこから動かないのなら聞く、と言いかけたティアだったが、アレクの腕がイスごとティアを包んだところで体の動きが完全に止まる。ひゅっと小さく息を吸い込む音だけが部屋に響いた。
「どうして、返してきたの? ピアス」
ティアが息を呑む。空になった左耳にアレクが顔を寄せた。
確かめるように、耳の輪郭を舌がなぞり、薄い耳たぶに歯を立てる。ティアがアレクの体を押しのけようと手に力を入れたが、当然のように阻止されてしまう。
ティアがアレクの制服を強く握ると、アレクはやっと耳から顔を離し、後悔の表情を浮かべた。その顔を見て、ティアもまた後悔したような顔をして『ごめんなさい』と呟いた。
「そんなこと、聞きたいわけじゃないよ。ティア」
アレクの腕がティアから離れる。イスに座っているティアの前に、跪くようにして膝を立てた。
そして下からティアの顔を覗き込む。ティアがそっと左手を握って指輪を隠した。これから言うことが、女王として正しくないということを知っているからだろうか。
「自分が、嫌だったの」
本当に、呟いただけの声だった。はりのある声でも、威厳に満ちた声でもなかった。
「え?」
「今返さなかったら、絶対理由をつけて返さないと思った。忙しそうだからとか、来ないからとか、……仕事があるからとかって。そうやって、ずっと」
アレクを見つめ、ティアは辛そうに続ける。
「アレクが、シエラの護衛になったら、もう返さない。返さないまま、わたしは寒国へ嫁ぐ。それだけは嫌だったの。ピアスを持っていったら、わたしはアレクを忘れられない」
「その前に、俺がいつシエラ様の護衛になった?」
ぐっとアレクの手がティアの肩に置かれる。
ティアは静かに、“昨日、正式に決まった。あなたが帰り次第、移動は言い渡されるはずだったの”と告げる。アレクの手に力がこもった。
こんなにことが急だと、アレク自身思ってもみなかった。
「ピアスを見るとね、アレクを思い出すのよ。
出会った日のこととか、十年前のこととか、四年前のことも――アレクといた時間全てを思い出して、どうして、わたしはここにいるんだろうと思うの。だから、返したの」
勝手でごめんね。アレクの気持ちを無視してるね。だけど許して。
「アレクを、想って」
ティアの声が急に詰まった。
「アレクを想って、寒国に嫁ぐのだけは嫌だった。自分を惨めだなんて思いたくなかった。我慢しているなんて、国のためだけだなんて、思いたくない」
ティアが手を伸ばしてアレクの頬に触れた。アレクが目を閉じると、ティアは親指で頬の輪郭をそっと撫でる。
ティアが静かに涙をこぼした。その涙は頬を伝い、アレクの頬へ落ちて流れた。
アレクがそっと目を開き、ティアの頬に手を当てる。涙をぬぐうと、ティアは我慢できなくなったようにアレクへとしがみついた。ティアの髪が大きく跳ねて、アレクの肩へ降りかかる。
「どうして……っ」
イスから降りたティアはアレクの首に手を回す。
顔が左肩に寄せられて、アレクはその頭に手を添えた。そしてブロンドの細くて柔らかい髪を何度も繰り返し梳きつつ、髪に口付けを落とす。
「どうして、かな」
涙と感情のあふれた声がアレクの耳に届く。震えて、発音も正しくない言葉たちがアレクの耳を通り過ぎて、心に落ちて積もっていく。
どうしようもない悲しみと、焦りと、愛しさが。
「どうして、自分の気持ちを伝えるだけなのに、わたしはほかの事を考えなきゃいけないの。ただ、思っていることを伝えるだけなのに、色んなものが浮かんでくる」
わたしが罪深いのか、とティアは切れ切れに涙を流して言った。
アレクは何も言えなくなり、抱き寄せる腕に力を込める。何と言えば彼女を慰められるのかなんて分からず、唇を噛み締めた。安い慰めを与えないためだった。