第29話 『切り札(ジョーカー)』
「そこまでに、していただけませんか?」
指輪を外そうと滑ったジークの手首を誰かが掴む。それと同時に、ティアの肩はぐっと引かれた。
ぽすん、と柔らかい音を立てて、ティアがその人物のほうへ倒れこむ。その一瞬前、ティアはその人物の顔を見ていた。
しっかりとした造りの胸に抱きこまれ、ティアは吐息のような声を漏らす。
「アレク?」
「ただいま帰りました」
ティアの言葉に優しく返す声を聞いて、はっとなったジークは掴まれていた手を振り払う。
アレクは興味なさそうに手を離し、ティアを抱く右腕に力を込めた。先ほど感じたジークの力強さとは違う感覚がティアの体に伝わる。
「何故いる?!」
「何故って、謹慎が解けるのは今日でしたから」
ふてぶてしいほどさらりと答えるので、ジークは一瞬あっけにとられる。
いつも女王の傍にいる、弱小国のしがない騎士でないということは、初めて目を合わせたときから分かってはいた。
しかし彼は絶対、女王の命令に逆らわないとも思っていたジークは、苦虫をつぶしたような顔をする。
「今日解けて、家を出たら、今ここにいないだろ!! 明らかに予定より謹慎を終えたのは早かったはずだ」
「緊急でしたので、命令を無視し帰還いたしました。すみません」
『全く悪いと思っていない顔でいけしゃあしゃあと』と、その場について来ていたエイルが苦笑いする。
その後ろにつくプルーもまた苦笑いをして後ろを向く。そこへいた人物へ頭を下げた。
「命令無視ですって……。そんな、堂々と」
「許してやってくれ。騎士殿が命令無視したのは、私のためなのだ」
プルーの後ろから出てきた人物を見て、ティアは目を見開いた。
絶対にそこにいるはずのない人物を見て、数度瞬きする。長い睫毛が二度、三度と瞬き、アレクに言っていた文句も止まる。
そしてその人物がやっと本物だと分かると、ばっと勢いよくアレクから離れた。
「ローラ様っ」
「久しぶりだな。ティア姫。いや、もう女王陛下になられたのだから、リシティア女王と呼ぼうか。うちの愚息が世話になっていると聞き及び、迎えに来たのだ」
長身でほっそりとした女性は、その美しい顔に似合わない口調で笑った。いかめしいしゃべり方は一見、似合っていないように見えて彼女の性情をよくあらわしている。
その女性の顔を見て、ジークは顔を引きつらせた。
「母さ……。いえ、ローラ王妃」
「久しいな。我が息子よ。私が少々留守をして、デルタにお前の躾を任せている間に、隣国へ渡るとはどういう了見だ?
お前は私とデルタが死闘を繰り広げるのをそんなに見たいか?」
軽い口調で、物騒なことを言う。ティアは『お変わりないようで……なによりです』と腰を低くした。
ローラと呼ばれた彼女は、寒国国王デルタの唯一無二の后であり、敏腕の軍人だ。光国と寒国の戦いが熾烈を極めていたとき、最前線に立ち、数々の武勇を打ち立てていたのは彼女だ。
息子が『美しき戦神』と呼ばれるように、彼女もまたかつては『戦場の天使』と称されていたほどだ。ジークの母であるというよりは、剣の師匠と言った方がしっくりくるのもそのためだと言える。
アレクはにこやかに笑って、ローラへ近づいた。
「ご足労、感謝しています。ローラ王妃」
「なに、面白そうだと思ったからついてきたまで。愚息がわが国の恥じになる前に、と思っていたが、どうやらそれも遅かったようだし、女王陛下にも未来の国王がどんな人間か知られてしまった。
リシティア女王には本当に申し訳ないことをしてしまったと思っている。婚約はなかったことにしてもらってかまわない。むしろそうしてくれ。
リシティア女王と愚息が結婚するようなことになったら、私は自分の躾の至らなさを、痛感して外へ出られなくなる」
アレクとローラの会話を聞いて、やっと事態を把握したらしいティアは小さく笑った。そしてローラへ近づくと、親しみを込めた笑顔を、彼女へ向ける。
「ローラ様。わたし、まだ婚約しておりませんわ」
ジークも反論できずに頷いた。ローラが長靴を鳴らして、ジークへ近づく。ジークは一歩下がった。
「さて、愚息よ。帰ってゆっくり話そうか。久々にデルタを混ぜてもよい。それとも……ここで剣を抜いて、己の未熟さ加減を思い知るか? お前に選択権を与えてやる」
「いえ、帰ります」
クレアも黙って続くと、ティアは優雅に腰を折って三人の見送りをした。そしてジークを見てにっこりと笑う。
「残念でしたわ。大国である寒国が手に入らないなんて」
「ティア姫……」
ジークが悔しそうに唇を噛み締める。
「わたし、あなたと結婚したらデルタ王に頼んで、次期王をわたしにして頂くようにお願いしようと考えていました。そちらのほうが、寒国にもよろしいでしょうし」
「全くだな。私も喜んで賛成するところだ」
「なっ」
「でなければ、どうしてあなたと婚約しようなんて思います?」
ローラとジークの対照的な顔を見て、ティアは今度こそ美しく笑った。