第28話 『決められし時』
「来年の九月が楽しみだ」
ジークが笑う。既に帰る準備を終え、彼は城の門へいる。隣にはクレアがいた。
ティアはジークの言葉に何も答えず、すっとおとなしく頭を下げる。何かを諦める代わりに手に入れた、気高い瞳がそこへある。
「次に会うときを楽しみにしている。我が后殿」
その言葉には、自分と同等のものをやりこめたかのような喜色がある。
才女と名高い彼女を手に入れられるという自信だろうか。彼は怖いものを知らぬようにティアを見て笑った。
「……未だ、婚約もしておりません。“ティア”とお呼びください」
本当は『ティア』とさえ読んで欲しくないが、そうも言っていられない。
『ティア』と呼ばせるのは最後の抵抗だった。せめてジークのものになるそのときまで、気高い王族でいようとするティア。
しかしジークはそれを笑い、次の瞬間にはティアの腰に手を回し、引き寄せる。ティアは体をひねったが、腕の力が強く逃げ出せなかった。ぐっとティアの手に力がこもる。
「失礼。ゆっくりと動いていたら、これをとられるかもしれないからな」
ひらり、とジークが手を翻す。手の中にはティアがいつも身につけている短剣があった。
ティアが息をつめ、わずかな躊躇のあと大人しくなった。抵抗が無駄だと悟ったのとともに、いい加減疲れてきたというのが本音だ。
「ドレスの中に仕込むにしては、少々物騒すぎやしないか? せいぜい媚薬程度だと、俺としても嬉しいんだが。どうやら姫君はそうではないらしいな。勇敢な、いや命知らずな姫君だ」
ジークが意地悪く笑う。ティアも同じように笑った。体は預けているが、決して心まで預けてしまわないように。
にっこりと、毒を混ぜて妖艶に笑う。アレクが見れば、まず間違いなく眉をひそめる種類の笑顔だった。
「城に入る際、わたしの言うことを無視されたあなたが言いますか? それを」
「それはクレアだろう?」
ぐいっと右手でティアのあごを掴み、ティアは言った。
ティアは表情を変えないまま、しっかりとジークの視線を受ける。負けん気の強そうなお互いの瞳を見つめあった。似てはいるが全く異なる色を宿す瞳が、表情を表すようにきらりと光る。
どちらも美しいが、どちらも負けることをよしとしない、勝つことだけを信じている瞳だ。その光が強く、それゆえに脆いことを気付かぬ瞳の色だった。
「靴の中、右腕、左腕に一つずつ。タイピンに、ポケットの中のペン。様々な形状のものを全て入れると六つほどお持ちではないですか? ジーク様」
「おや、気付かれていたか」
おどけたように言うと、ティアの柳眉が上がった。
「今更その口調も白々しい」
耳元で、互いの息がかかるほど近い距離で会話する。
遠めに見れば、キスしているように見えるのかもしれない。仲のよい、婚約者にでも見られるかもしれない。それでも、互いに何かを感じることは全くない。
何かを感じるには、二人の距離は遠すぎた。
その地位も、考え方も、守りたいものも、守り方さえ全く違う二人。分かり合えるはずもないのだ。本来。
「お前は、何を守りたい?」
「国と、民と……」
それから浮かぶ、あの優しい顔で笑いかけてくれる彼を。
いつもいつも、助けてくれて支えてくれる彼を。小さい頃から大好きで仕方がなかった、彼を。
「それは個人の感情だろう?」
「えぇ。情けないほど、私は今回、私情で動いておりますから」
ですから、自分勝手ではありますが、それを突き通してしまおうかと思っています。わたしは、あなたに貰われるただのお人形ではありません。
「わたしが、あなたを利用するために行くのです。そのことを、お忘れなきよう」
強気の瞳、不敵な笑顔。その笑顔にほんの少し混じる嘲笑の色。
「ならば」
ジークも同じような顔をする。どこか似ている表情で向かい合う。
腰を引き寄せる力が強くなり、ティアは痛みから眉を寄せた。力の差に嫌気が差したかのような顔だった。
「攫っていこうか」
立場が、逆転される前に。
その目が、表情が、嘘ではないとはっきり言っている。冗談で言っているわけではないと、分かる。ティアは再び体を動かすが、全く動くことはなかった。彼女の細い腕で動くほど、彼の腕は弱くない。
「王を、攫おうと言うのですか?」
「弟君に、預ければいいだろう?」
この指輪ごと、国も、民も。
「なっ」
「責任も、悲しみも、その肩には重過ぎる」
ティアの顔が驚愕に染まり、そのあとからじわじわと怒りの色が現れる。
はっきりとした屈辱を感じ、ティアは今度こそ言い返そうと口を開く。
「指輪が邪魔だな」
するり、とジークの指がティアの左手を掴み、中指から指輪を抜こうと滑った。