第27話 『涙雨』
「いいよ、雨が降ってても」
「行ってどうするの?」
雨に濡れれば、涙か雨かなど分からなくなる。雨が誤魔化してくれる。今なら、泣いても喚いても、誰も気が付かない。誰も、彼女を女王らしくないと責めない。
「一緒に、いよう」
せめて、雨が二人を隠すときだけでも一緒にいよう。寂しいときは、傍にいると言ったから。悲しいときは、すぐ近くにいると約束したから。せめて。
「外に出よう」
全てを隠す今だけ。
彼女は声も上げず空を見上げていた。
一人で空を見上げて、瞳を閉じる。ブロンドの髪は雨を吸ってもなお美しく、彼女の顔を縁取る。
いつも緩やかに描かれている曲線は消え、まっすぐに服へ顔へと張り付いていた。額に張り付く金色の髪を払うと、やっと瞳が開かれた。
眦から頬へ流れては落ちる雫がどちらからかなど分からない。
だけどそれでいいと思った。手に絡みつく金髪を抜いてしまわないように注意しつつ、顔からどけてやるとこちらを見つめる。
ぱちりと、視線が合わされば苦笑いのような表情を向けられた。『眉、よってる』と、小さく言われて、そのとき初めて自分が険しい表情を作っていたという事実に気が付く。
「アレク」
「ん?」
彼女が静かに、口を開いた。雨音に持っていかれそうなほど、その口から漏れる呼び声は小さく、か細かった。
大臣たちに向ける声はいつだってはっきりと、歯切れがいいのを思い出す。あの声とは、似ても似つかぬ声だった。
「……痛い、よ。痛くて、悲しい」
泣くようにそっと、誰にも気付かれないように小さく呟く。
「傍に、いて」
「いつもでいるよ」
ずっといる。
この命がある限り、許されるならずっと。だけどこのとき、ティアはきっと別のことを考えていたんだろう。
いつか自分と、離れるときが来ると知っていたのか。それともティア自身が、結婚するとき自分と離れようと決意していたのか、それは分からないけど。
「ありがとう。ごめんね」
それが何を意味するのか、そのときは明確には分からなかった。
それでも雨の中で抱きしめて、このときだけでも泣いて欲しいと思った。雨が隠してくれるから、自分もティアを抱きしめて隠すから。泣き顔なんて、誰にも見えないから。
小さく漏れてしまう嗚咽も、きっと聞かないふりをするから。
「ティア、覚えてて。俺はずっとティアの味方だよ。最後の一人になっても、世界中の人を敵に回してだって。ティアが自分を責めるときだって、ティアは正しいって思ってる。馬鹿なくらい、信じてる」
「……ん。うん」
しがみついてくる腕の力は愛しくて、守りたくなる。誰にも渡したくなくなる。
「好きだよ。大好き。だから、大丈夫」
気休めにも、きっとならないだろうけど。この“好き”は友人への言葉だけれど。その“好き”へ本音など少しも、欠片も混ぜれはしないけれど。それでも、口から出したことへ後悔はない。
「わたしも、好きだよ」
彼女もまた、その言葉へ本音など混ぜない。泣き声さえ、混ぜてはくれない。
どうしたら、その辛さを、悲しさを、少なくすることができるのだろう。どうすれば、彼女へ逃げ道を作って上げられるだろう。
「ティア。これあげる」
左耳についていたピアスを外した。今降っている雨よりなお清く、その頬をすべる雫よりなお蒼く輝く石のついたピアス。
彼女の左耳へつけて、それからそれへ口付けをそっと落とす。彼女の肌へ、直接触れることは“騎士として”のアレクには許されていないから。騎士道を背負う身に、それは禁忌だから。
「どうして?」
「ティアの、涙の代わりに」
その頬を流れる雫の代わりに、涙色の石を君へ。
深い悲しみの色さえ覆って隠す、深い蒼を君へ。泣くことが許されず、できない美しく、気高い君へ。
せめて涙代わりになるものを。泣きたくなったとき、我慢できなくなったとき、涙を流す代わりに、これを身につければいい。
そうすれば、今涙を流していると、自分にだけは分かる。
泣きたいくらい悲しくて、辛いということが分かる。それが分かれば、いつだって飛んでいって抱きしめることができるから。その痛みを、傷を分け合ったような感覚にはなれるだろう。
「忘れないで」
泣きたくなる前に、守ろうとは思っているけれど。やはり女王という立場は、それだけでは守りきれないだろう。一切傷つかず、国政を担うのは不可能なのことだから。
少なからず、泣きたいことは起こると思う。
「いつでも、味方だから」