第25話 『雨』
ぽつり、と頬に雫が落ちる。
それが合図だったように雨音が響きだした。旅行用のマントがしっとりと水を吸い、あっという間に重たくなる。
黒い髪も水を含んで額から頬へとくっつく。一度前髪をかき上げるが、意味を成さずに結局そのまま諦めた。
じっとりとマントを通して染みてくる水は不快で眉をしかめた。しかし馬を止めようとは思わない。立ち止まっている時間も惜しいのだ。
そう思いつつ、ひたすらに馬を走らせた。
早く、早くと、気ばかりが急いた。思わぬところで時間を使ってしまった。まさか母親が止めるとは思いもよらなかったのだ。
いや、城近くの屋敷に来ているとさえ思っていなかった。幸か不幸か事情も知られてしまっていて、嫌気が差す。
『女王陛下の騎士役、お役御免になったのでしょう? それならば帰っていらっしゃい』
そう言われることは分かってはいた。
……いやなことを思い出して首を振った。弱かった雨足が時を追うごとに強くなっていく。手綱を掴む手がかじかんでいくのを感じながら、一瞬だけ上を見た。
高い木々に囲まれた道なので、空が見えるのはわずかな隙間だけだ。どんよりと曇っている空が、一本の隙間から見えた。
「……」
不意に名を呼ぼうとして止めた。
今その名を呼べば、何かが変わるわけでもない。何かが伝わるわけでもない。名前を呼ぶ代わりに右耳のピアスに触れた。
自分の黒髪よりも、サファイアにはブロンドがよく似合うと思う。
――もう片方のピアスを彼女へ渡したときも確かそう思った。この雨がもし、城にまで及べば、彼女はその雨の雫に涙を混ぜて誤魔化すように泣くだろうか。
泣いて、くれるだろうか。
あれは三年前。ティアが王位について数ヵ月後のことだった。一番初めの仕事は、慰霊碑の訪問で、ティアにとっては初めての公式的な城を出る機会だった。
慰霊碑には、自分も行った反乱の粛清で命を落とした人たちの名が刻まれていた。
自分の知っている名も決して少なくない。そして、同様に反乱へ加担した普通の国民の名も刻まれていた。
ティアが『全ての人の名を』と命じていたからだ。
いくつかの反対意見が出たものの、『その人たちがそう考える原因に気付けなかったのは、わたしたち王族です』と譲らなかったのだ。
反乱の原因は日射不足による凶作への対応として出した減税。
その減らす割合に不満を持ったらしい。日射不足は当初予想されていた被害を遥かに超え、飢えに苦しむ人々が多かったようだ。
一つ一つの名を、ティアは忘れないようにするためか指でなぞる。その唇が、小さく動いて名を紡いでいた。
静かな表情に、悲しみの色ははっきりと表れない。しばらくしたあと、ティアは立ち上がった。そのとき、子どもの声が上がる。
「じょーおー、さまっ」
発音のつたなさにティアは小さな笑顔を作る。前へ出てこようと歩を進めた騎士をティアは手で制し、ドレスに土が付くのもかまわず膝を折った。明るい茶髪の髪の毛に手を当てる。
「何?」
「あのね。女王さまはえらいんでしょ?」
ティアがなんとも言わず、少年の頭を撫でた。
笑顔は変わらなかったが、困っているのだろうということは分かった。自分の至らなさが招いた事態だと思っているティアに、その言葉は辛かったのだろう。
「じゃぁ、どうしてお父さんは死んだの?」
よく見れば、少年の着ている服は装飾の少ない黒い服だった。ここに集まっている全員が、そういう格好だった。
この子の服も、喪服だったのだ。その後ろに立つ、少年の母親らしく女性は慌てたように、少年を抱き上げる。
涙の跡が残る顔を伏せ、地に膝をつけた。その肩が震えている。普通ならここで即殺されてもおかしくない状況だからだ。
「申し訳ありません。どうぞ、お許しください」
涙を流した後のくぐもった声を震わせながら謝る母親を見て、ティアは口角を下げる。
「ねぇ、女王さま。どうして? 教えてよー。えらいんでしょう? 何でも分かっちゃうんでしょう?
お父さん言ってたよ。『女王さまはきっと分かってくださる』って。僕の友達のね、ミリのお父さんも言ってた。
『女王さまはそりゃー立派な方だから、俺たちのことを分かってくださる。あのお方は、そういう方だからな』って」
母親に抱き上げられた少年は未だ問うことを止めない。『やめなさい』と鋭く制する母親の声も届いていないらしい。
まっすぐな視線がティアに向けられていた。
ティアゆっくりと立ち上がり、少年を見た。眉をそっと下げて、もう一度少年の頭を撫でる。
「お父さんが悪かったの? それともミリのお父さんが悪かったの? 女王さま。誰が悪いの? 兵士の人が悪いの? 皆悪いの? 女王さまが悪いの?」
ばっと若い騎士がティアとその少年、母親の間に入った。手が剣にかかっている。一年前に正式配属されたばかりの彼は、ティアに心酔していたことを思い出した。
「無礼であるぞ。ここで切られたいのか?!」
「やめなさい。わたしは今、この子と話しているのです。お前たちの出る幕ではありません。たとえこの子が幼い子どもであったとしても、国民の意見を聞くわたしの姿勢は変わりません」
ティアは騎士をにらみつけた。若い騎士は背筋をぴっと立てる。彼女に見つめられると、ついついそうせずにはいられない気持ちはよく分かった。
「僕、おかしいこと、言った?」
少年がばつが悪そうに聞く。
それでも聞きたい気持ちは強いらしく、ティアから視線をそらそうとはしない。そんな少年を、ティアは優しく見つめたあと、首を振った。
そして少年の視線に合わせて笑う。そっと、その答えを出そうと口を開いた。
接触は全くないですけど、二人の気持ちとか伝わっているでしょうか。少し心配です。
今回から、少しだけ過去の二人。時間枠は物語で説明されているとおりです。