第23話 『渡す』
「ティア様?」
「プルー。どうしたの? エイルなら珍しく仕事をしているわよ」
アレクがいないからという言葉は呑み込んだ。今それを考えるべきではない。
もう少し落ち着いたら考えればいいことだ。考えることから逃げる言い訳など、今はいくらでもあるのだから。
ジークとの婚姻についての会議など、今日だけで三回も開かれた。
それから侍従に対しての処分や、騎士隊の仕事の割り当てなどなど、挙げようと思えばいくらでも挙げられるほど忙しい。だから今、考える暇がないのだ。
「……仕事、なくなってしまって」
プルーが所在無さげに扉の近くに立っている。
そしてその淡い髪に手をやりながら、言いにくそうにそう告げてきた。プルーとの間にしばらく沈黙が続いた。
一瞬あまりにもいろいろなことが起こりすぎて、ついに耳がおかしくなったのかとも思う。いや、頭の情報処理能力に支障がきたしているのかもしれない、なんてことも思い浮かんだ。
「えっと、プルーはまだ黒の騎士団の、というより警備隊の副隊長、でしょう??」
一応確認してみる。
まさかわたしが知らぬ間に、人事異動などしてはいないだろう。プルーはこくんと頷きながら、『エイルの下でまだ働いています』と律儀に返事をしてきた。
まぁ、そうだろう。
しかし、その話はにわかに信じられないものだ。
第一部隊である護衛隊の隊長がいない皺寄せのほとんどが、警備隊に行っているのだから、それも当然だろう。あの数は今日中に、というか明日中でも処理しきれないはずだ。
「エイルが、仕事をしているで、真面目に」
あぁ、自分が今さっき、まさにそう言ったけれど。
「アレク様が帰ってきたとき、机が仕事まみれだと気が滅入るから、らしいです」
くすり、と友人思いのエイルの顔が浮かんだ。
いつもは何度プルーが言ったて、仕事らしい仕事はせずにふらふら遊んでいるのに。こういうときはきちんとするのだから、本当に彼らしい。
しかも理由が『アレクの気が滅入るから』とは。
「エイルにごめんなさい、って伝えといてくれる? わたしのせいでついにおかしくなってしまったんだわ、きっと」
少し言いすぎか、と思うが、そう言ってしまったのだから仕方ない。
『おかしく……なんですよね。いつものやつとは違うから』とプルーも戸惑いながら頷く。そうだろう、いつもの様子を見れば、今回が異常なのだ。心配せずにはいられない。
思ったままを口にする罪悪感を感じた瞬間、バーン! と扉が開いた。
プルーがさっと目の前に立つ。ひょいっと音の正体を確かめようとプルーの腕から身を乗り出した。そこにいるのはエイルだ。
書類片手にこちらへ向かってくる。なんとなく、言いたいことは分かっているので、まっすぐ視線を受け止めた。
「姫様」
「何かしら」
最後の足掻きとばかりに聞き返すが、その顔は厳しいままだ。
「これは、どういうことですか?」
「もう少し、時間がかかると思っていたのに、随分早いのね。それは確か一番最後に入れた書類のはずなのに。いつもそれくらい早かったら、わたしも助かるのだけれど」
イスに座りなおして、足を組んだ。ぐっと背もたれに体重をかける。エイルの持った書類に小さなしわがよっていった。
「……これは、一体、どういう意味かお教え願えますか。リシティア女王」
本気で怒っている証拠だ。
「ボールウィン宰相に、もう少し権力を与えようという趣旨の書類よ? 読めば分かるでしょう」
プルーの驚いた顔が目に入る。
「一年後、わたしはここにいないから。シエラが王位に就いても、手助けできないから。
信用できる人をそばに置きたいの。それにあの子にすぐ全ての権力を使いこなせ、というのも無理な話でしょう?」
ゆっくりと、はっきりと自分の意志を変えるつもりはないというように話す。あなたの意見に耳を貸すつもりはないと、はっきりと示す。
エイルの顔が痛々しくゆがんだ。
「俺が言いたいのは、ボールウィン宰相への権力委譲ではありません」
知っていた。そういうことで怒るエイルではない。わたしの出した答えなら、何も言わず従う。そういう人間だ。
ただ彼が、親友であるアレクを大切にしているということも、同じくらいよく知っていた。
「どうして、アレクをあなたの騎士から外すのですか」
「シエラに、ついてほしいの」
そしてわたしは、強くあろうとしていたあの頃の弱い自分に戻る。
自分は強いと信じていたあの頃に戻ってから、嫁ごうと思った。盲目に、自分は大丈夫だと信じて、アレクへの想いも自覚しないでいたあの頃。
あの頃に戻れたら、この痛みも苦しみも薄らぐ気がした。
「わたしはこの国のために嫁ぐけど、同時にこの国の人間ではなくなるから。この国の些細なものさえ、何一つ守れなくなる。手の平にあるはずのものが、もう、守れなくなるの」
それでもなお、守りたいと思うのは愚かなことなのだろうと思う。
守れなくなるものを、他人へ押し付けるなんて迷惑な話だろうと分かっている。それでももう、自分にできることはこれくらいしかないのだ。
たかだか四年間しか王位につかない女王にできることは、たったこれだけなのだ。
四年を過ぎれば、これほど考えている民や国のことも、身近にいるたった一人も何もかも守れなくなる。一年後には、そうなるのだ。それは当然のように。時間の経過とともに。