第22話 『笑み』
こんなに心が揺らいでいるのに、それを表に示すことはできない。
目の前の王子に、これ以上何かを知られてはいけない。知られてしまえば、負けてしまう。何もできなくなってしまう。
「アレクが今、城を出ました。見送らなくても、よろしかったのですか?」
エイルの声が耳に痛い。胸にも響く。それでも表情一つ、変えることはない自分がいる。
「わたしが出て、情況が好転するならいくらでも出たわよ」
エイルの言葉に返しつつ、目の前にいるジークを見た。
そしてそっと一度だけ目を伏せてから、再び視線を合わす。ジークがにこりと笑った。どこか勝ち誇ったような、人を従属させて楽しむ目だった。
それに答えるように笑おうとする。しかしできずに、曖昧な表情になった。アレク一人いないだけでこんなざまを見せるなんて、本当は許されないことなのに。
「よかったのですか?」
ジークはそれを分かって聞いてきているのだ。
『本当に、よかったのか?』と。
『女王としての態度を保つことができるのか?』と。
憎たらしいほど、心を読まれているような気さえした。
「たかだか一人の騎士が謹慎するのに、女王の見送りが必要だとは思えません。それ以上に重要な公務が立て込んでおりますから」
ゆったりとイスから立ち上がり、美しく笑おうとする。
しかし窓の外が目に入って失敗してしまった。見慣れてしまった蒼いマントが目の端にちらりと映ったのだ。何もこんなときに目に入らなくてもいいのに、ともらすが、どうにもならない。
「忠誠を誓った主が来ないというのは、辛いでしょうね。彼にとって」
同情したような声に、感情が波立つ。いや、事実同情はしているのだろうか。呟いたジークの顔からは、人をからかおうとする笑みは消えていた。
今部屋にいるはずの侍従を思い出しているのかもしれない。
まっすぐに、こちらを見た目が印象的だった彼女だ。あの少女の目には穢れを知らない忠誠心があった。四年前に見た、アレクの瞳もあんな色を映していた。
そしてその瞳は、確かにわたしを映していたはずだ。
穢れを知らない、まっすぐな瞳は『リシティア姫』を見ていた。……もしかしたら『ティア』を見ていたのかもしれないけれど。
「リシティア姫はあの騎士を大切に思われているのではないのですか?」
核心を突く問いだったが、アレクを見たことで逆に冷静さを取り戻したらしい。肩が揺れることも、表情が変わることもなかった。
「大切ですよ。我が国の民は、皆大切です」
大切ですよ、と口に出した瞬間、エイルの顔が見える。思わず笑いそうになってしまった。あまりにも驚きすぎだと思う。
普段口に出さないだけで、ちゃんとアレクのことを大切にする気持ちはあるのに、と少しだけ不満にも思ってしまう。
もしかしたら、エイルはそう思うことより、それを口に出したわたしに驚いているのかもしれないけれど。
「自分の身より?」
「もちろんです」
この心も、躰も、血肉一片さえ他のことに使うことは許されない。
王族とは本来そういうものでなくてはならない。そういうものであるようにと、幼い頃から言われ続けるのだ。
決して他のことに使ってはならない。
それを不幸だと思ってはならない。
全てを国と民に捧げることが絶対だ。それが他の人間にはない、与えられた使命であり、幸福な役目なのだ。選ばれた人間にしかできない、特別なこと。
たとえそれが、自分にとって国と民と同じくらい大切なものを失うことになっても。
迷うことさえ王族は許されていない。
ずっとそうだ。王族である限り、そうでなければいけない。
どこかで泣きつつ、それに目も向けず行動しなくてはいけない。
後悔してはいけない。誰か一人だけを守ろうとするなんて、あってはならない。
王族とは、そうするためだけにあるものなのだ。そうでなければ、存在価値などありはしない。なのに自分は、たった一人を守ってしまった。誰よりも何よりも守りたいと、思ってしまった。
「では、一年後、俺の妻になるんだな?」
先ほどの口調とは打って変わった鋭い声。偽りを見抜こうとする、厳しい瞳。
ああ、この人も、多分根っこでは王族なのだ。自分とはかけ離れているけれど、違う国ではあるけれど、この人もやはり王族なのだ。
そしてこの人は、国を守る兵士でもある。役目は違えど、その瞳にはアレクと同じ色がある。
『笑え』
誰よりも気高く、美しく。何よりも、威厳を持って。この人にアレクの『色』を求めている時点で、それはできないと決まっているけれど。
彼が……アレクが誰よりも愛する、白薔薇姫として。
国外で才女と言われる、大陸最年少の王として。自分は、この国の王だ。
『わら、え』
助けられたはずだ。アレクの命を。アレクの命の代償なら、安いものだと言い聞かせる。
アレクを助けたのは民だから、幼い頃から受けた恩のようなものがあるから。だからだ。そうやって嘘を自分に言い聞かせる。
大切、民だから。そう言っていなければ、アレクにしがみつきそうになっている自分がいた。本当に思っていることを、話してしまいそうになった。持つべきでない想いを、ぶつけそうになった。
「貴殿の、意のままに」
自分が傷つくことで、アレクが救えるのならよかったのに。そう思いつつ、ジークを見つめる。
もしそうなら。残る傷跡さえ愛しい気がした。それだけアレクを大切にしているのだという、証のような気がした。
でも現実は違って、自分が傷つくことではアレクを救うことなどできはしないのだ。そればかりか、自分が傷つくことによって、アレクを傷つけ、苦しめてしまうこともある。そう思ってから、にっこりと上手く笑って見せた。
これは、『リシティア女王』の笑みだと、『ティア』は泣きながら思った。