第21話 『暗闇』
こつり、と暗い中で足音がした。
こつこつという規則正しく、ゆっくりとした足取りに耳を澄ませば、すぐに誰のものか分かってしまう。
ヒール部分が高く、ブーツのようにがっしりとした造りではない靴。体重の軽そうな音。そして、足音の間隔は狭い。
小柄で、体重が軽く、ヒール部分のある靴を履いている女性。
ここへ入れる『そんな女』はたった一人だけだとすぐに気づいてしまう。妙に勘のいい自分を呪った。できれば顔が見えるまで、分かりたくなかった。
「どうして、来たの?」
彼女は後悔していないだろう。しかし傷ついていないかといえば、そうではないと思う。
優しいから、自分の判断に苦しんでいるのかもしれない。一番辛いのは彼女だと言い聞かせた。でなければ、ひどい態度をとってしまいそうだ。
「謝りに来たといったら、どうする?」
静かな声だ。穏やかではないけれど、怒ってもいなかった。そして決して、感情が表に出ないような話し方だ。
「思っていないなら、言わないほうがいい。あとでティアが傷つくだけだ」
こつん、と灯りとともに彼女は姿を現した。ゆらゆら揺れるランプの炎が白い肌を淡く照らす。
鮮やかな橙色が彼女の顔に影を作り、炎が揺らめくたびに陰影を変えていく。ブロンドの髪も、オレンジ色に染まっていた。
「明日には実家へ帰ってもらいます。そこで一週間、謹慎しなさい。女王の判断です。反論は許しません」
「謹んで、お受けいたします」
一人は牢の中で、一人はランプを持ったまま、感情の欠片も伴わない会話が二人の間で行われる。ティアの顔には色濃く疲れの色が見えていた。しかし今の自分は何も言えない立場であると思い出す。
「わたしに、何かを守るなんて無理なのかな」
ランプを角ばった岩でできた床に置き、ティアは牢の近くまでやってきた。
鉄の棒を白い手が掴む。止めさせたかった。汚いものを触るための手ではないことを自分はよく知っているはずだ。
彼女の手は錆びた鉄で汚れてしまう。そっと手を持っていこうとすると、ティアは闇雲にその手を揺らした。
がしゃん、と鉄の棒がわずかに動き、その音が低く、遠くまで響く。心が震える音だった。
ティアがまた、揺らす。ガシャン、と今度は硬いものにあたったような音がした。ぐっとティアの顔が歪んだ。その顔を見て、思わず体を乗り出した。
「ティア?」
「四年前も、守れなかったって言って、アレクを怒らせたけど、やっぱり分からない。ねぇ、守りたいものを守ろうとしたら、どうしてわたしは民を捨てなくてはいけないの?」
いつも澄んでいるはずの瞳は暗い。そっと近寄れば恐れるように鉄の棒から腕を外そうとする。
がちゃん、と大きな音を立てて、その手を捕まえた。ティアの瞳がはっと見開かれ、己を恥ずるように顔を背けた。
「ごめん。甘えだね」
アレクにこうやっていってる自体が甘えだって、知ってるのにね。
幼い口調に手の力が緩む。彼女はこんなに弱かっただろうか。こんなに脆かっただろうか。こんなに、泣きそうな目で自分を見ることがあっただろうか。
自分のせいでそうなってしまったのだとしたら、申し訳なくなって、少しだけ嬉しい。
それでも、嬉しいと思うことは許されなくて、心は痛い。泣いてしまいそうなくらい、痛い。
「アレクが帰って、もう会わなくなれば、わたしは元に戻れるのかな……」
民と国だけが大切で、そのためならこの身さえ惜しくはなくて、何にも惑わされずにいたあの頃。アレクも大切だけど、いざとなれば見捨てる覚悟もあったつもりになっていたあの頃に。
そう言って、ティアは笑う。こちらへ聞かせるつもりもあまりないのだろう。岩に反響しない、小さな声だった。
「でもね、アレク。思うのだけど、あの頃はきっと、強いつもりでいただけなの。アレクがいなくても平気だって言い聞かせてた。でも本当は、怖かったし、寂しかったし、心細くてどうしようもなかったんだと思う。
弱くて、でもそれに目を向けたら負けて、リシティア姫でいられなくなる気がした」
牢越しに抱きしめていた。精一杯腕を伸ばして、牢の向こう側にあるティアの体を捕まえていた。顔や体に当たる鉄の棒は冷たくて、頭を現実へ引き戻そうとしている。
鉄特有の錆びた臭いが鼻を刺して、彼女と自分の距離を思い知る。
ぎゅっとそれでも手に力を入れる。
無理な体勢なのは分かっているのに、どうしても彼女を離す気にはなれなかった。何故か今ここで離してはいけない気がしたのだ。
ぎゅっと、自分の体とティアの体の間の鉄の感触さえ抱きしめるようにもう一度腕に力を込めた。
「国もっ、民も大切なの。だけど、アレクだっていなきゃだめなの。女王でないリシティアがそう思うの!! 女王であるわたしも、そう思うようになっちゃうよ。
どちらも大切にしたいのに、どちらも大切にしなきゃいけないって分かってるのに、わたしは不器用でどうしようもない考えなしだから、一緒に守れないっ!!」
ぎゅっと背中の布が集まって、肩口にブロンドがふわっと落ちた。『どっちもちゃんと守れないよ』と泣き叫ぶような声が左の少し下から聞こえた。悲痛な声が、こちらの心まで揺さぶる。
彼女の手に残るものはなんだろうかと思いながら、その背を叩いた。
「守りたいのに、守りたいのに!!」
知ってるよ。守ってくれたよ。助かったよ。
何度も耳元で囁くのに、ティアは頑なに首を振った。『ごめん』と、それだけは言わず、時折呑み込むようにのどが動くのを感じた。それが彼女にとって、最後の砦であるのだろうと思う。
『ごめん』とそう言ってしまえば、彼女は正しくなくなってしまう。そうなれば彼女がよりいっそう苦しむことは目に見えている。そう思うと何も言えなくなって口を閉じた。