第2話 『死ねない』
「王が危篤」 この知らせは瞬く間に王宮内を駆け巡った。次々と議会の間は大臣たちを始めとする官吏たちで埋められる。
その顔は王の体に対する心配と、この国の行方を案ずる不安がない交ぜになったような表情だった。
「我が父、ユリアス王が危篤であるのは皆の知っている通り。だが今の王家には成人した男性はいない。次期王に一体誰を据える?」
ゆっくりと大臣たちを見渡し、聞いた。しかしそこで一人の大臣が静かに立ち上がった。大臣たちの視線が一斉にその大臣に集まる。しかしその大臣はその視線を悠々と受けて、動じもしなかった。
「リシティア姫。発言するのをお許しいただきたい」
朗々と、大きな声を出すのに慣れたしっかりした声が議会の間一杯に響き渡る。
「かまわない。ボールウィン大臣」
ティアはボールウィン大臣を見据えて言った。どこか挑むような視線を投げかけて。派手ではないけれど上質な衣装に身を包み、見るからに貴族然とした立ち姿。
この人が現ボールウィン家の当主であり、アレクの父である、シルド・ボールウィン。貴族の中で、最も位の高い公爵の地位を持ち、その公爵家の中でも筆頭の力を持つ。
王の信頼も厚く、今この国で宰相よりも強い発言権を持っているとも言われている。そして来年行われる宰相の選挙の有力な候補者でもある。
「リシティア姫はもうすぐ一六歳になられるはず。この国では女性が王の地位に就くことを認めています。ならば姫が王位を継ぐべきだと思いますが?」
『姫』という発音が嫌に大きい。この国を治めていたのは男だけではない。むしろ女のほうが多いのはこの国の守護女神であるレイティアの影響だ。
この国では女性は尊うべき対象であり、敬って当然の存在だ。
しかしティアはその言葉を聞き、不愉快そうに眉を顰める。あからさまなその態度に大臣たちはザワリとざわめいた。
「一六歳になったばかりの人間を王位に? わたしはまだ一五歳だが? ボールウィン大臣。確かに言いたいことは分からないでもない。
しかしそれで政治がままなるとはわたしには思えない。他の国が我が国を侮らないとも限らないのだから」
視線を落し、ぴしゃりとボールウィン大臣の発言を跳ね除けた。議会中、王族がここまで大臣の発言を拒否した例は他にない。間が一斉に騒がしくなった。
「騒がしい!」
しかしティアの静かな一喝で、水を打ったように静まり返った。
「誰も王位を継がないと言っていない。成人男性がいない以上仕方のないことだと思っている。本来我が国は男性が正統後継者。
しかし今この国にいる正統後継者はまだ十一歳だ。我が弟、シエラが成人するまでは仕方がない。シエラが成人する、その五年間なら」
そう言って口をつぐむ。シエラは現王妃の嫡子であり、ティアの腹違いの弟である。身分も三代前の王の妃を輩出したシエラの母と、旧王都の貴族のティアの母とで言えば、シエラの母ヴィーラの方が格段に上だ。比べ物にもならない。
そんな自分が王位に就けば、不満を持つ者も現れるであろう。身分の高いシエラを王位につけるべきだと反乱が起こるかもしれない。
謀叛がばれればシエラさえも無事だとはいえないだろう。
たとえ王族でも謀叛を企めば、打ち首は必須だ。ティアはそう思い、王位に就くのを拒否した。
王は一命を取りとめ、跡継ぎの問題は『シエラが一六歳になる前に王が崩御したら』という条件でティアに決まった。
ティアが渋々認めたといったほうが正しいかもしれない。ボールウィン大臣が巧みに言葉を操り、ティアを翻弄し、ついには頷かせてしまった。
その力量と話術の巧みさに大臣たちは心の中で拍手をする。会議の間から部屋に帰る途中ティアは小さく『あなたのお父様は策士で、狸よね』とアレクに聞こえよがしに呟くがアレクは反応しない。
「アレク。わたしの護衛より、シエラの護衛に言ったら?」
何でもないように、まるで世間話でもするような口調でいきなりアレクに話しかける。議会から帰り、部屋着に着替えたティアは、ベッドに座り議会の書類へ目を通している。
その瞳が話しかけているアレクに向けられたのは少し経ってからだ。アレクは目だけで続きを促す。ティアはそんな態度をとるアレクを睨みつけた後、再び口を開いた。
「あなた近衛隊の隊長でしょ? その近衛隊の中でもエリート中のエリートが集まるって噂の『蒼の騎士団』の団長でもあるのよね?
何故王やシエラではなくわたしなの? わたしには後ろ盾がないわ。わたしに付いていても、昇進に何の影響も及ぼさないわよ? まぁ、あなたはボールウィン家の次男。後ろ盾はそれで十分ということ?」
いつも聞けなかった言葉がついに口から出た。毎回聞きたくて、その度に自分で自分を止めていた言葉。
しかし今回は違った。アレクに何か言われると言う恐怖より、疑問が勝った。シエラが確実に王位に就くことは決まったのだ。
明日からシエラの周りは大臣になりたい人間が沢山集まるだろう。反対にティアに与しようとする人間は少なくなる。
今――明日に王が死んでも、ティアが王位に就くのはたかが五年だ。その後のシエラの代に比べればほんの僅かな時間だろう。
どちらの側につく?と聞かれれば、一〇人中一〇人が「シエラ」だと答えるの目に見えている。
なのに何故? 近衛隊の隊長といえば、騎士隊の中でも一番の発言権と権力を持つ。そして『蒼の騎士団』と言えばこの国の中で一番強い人間があるまるのだ。
ティアはぼんやりと黒地に白いラインの入った騎士隊の制服とその上に羽織っている濃紺のマントを見つめた。
制服は騎士隊の中で統一されている。正式な場で着るのは同じデザインの白地に黒のラインだが。隊によって違うのはマントの色。
近衛隊は濃紺。騎士隊は青緑。そして第二部隊(通称警備隊)は黒。さらに胸の所に付いているバッチで身分を表している。
アレクは上流騎士だから、白いバラの花がモチーフのバッチが三つだ。つまりアレクは騎士身分を持つものの中で一番地位が高くて、強い、ということになる。
上流騎士は確か今年から三人だった、とぼんやりと思い出した。アレクと、警備隊の一軍の隊長と、同じくそこの副隊長だった気がする。そんなティアの思考を逆なでするように、アレクは口を開いた。
「あなたは次期女王です。それ……」
「だからわたしを守るの?」
アレクの言葉を遮り、ティアは射抜くような鋭い瞳でアレクを見た。一番に浮かんだのは怒り、しばらくして浮かぶのは――何なのかティア自身にも分からない。
アレクはティアの言葉を聞き、肯定とも否定ともとれる不思議な笑みを浮かべる。
少しずつ、少しずつ変わっていくのは、人の心の常なのかもしれないけれど。仕方のないことなのかもしれないけれど。
だけど……。不変はないと分かっていながら、ティアはその事実に腹を立てずに入られなかった。
「アレクは……変わったわ。いつの間にそんな曖昧な態度、学んだの?」
感情を押し殺そうとして失敗した声は低くて震えていた。ティアは一回頭をふり「もういい」と冷たく切り捨てた。それを見てアレクはもう一度、小さく笑う。小さな、小さな微笑。
驚きと、悲しみで涙は出なかった。
ただ、昔のようにアレクが好きだと思っているのは、わたしだけなんだと再認識した。わたしはアレクにとってただの『次期女王』で、昔仲良く遊んでいたティアではないのだ。
いつまで子どもでいるつもりだと叱られた気さえしてしまう。
アレクの目に映っているのは『仕事』なのだ。
小さい頃はなんだかんだ言いつつ、アレクも一緒に遊んでいた。貴族らしく振舞おうとすればするほど、空回りしていたわたしたち。
王族として、貴族として、小さい頃から教え込まれた礼儀作法。仲良くもなく、取るに足らない相手なら粗相なくこなせる。そんな自信さえ持つわたしたちだった。
なのに何故か、お互いの前では礼儀が守れなくて、普通の子どもみたいにはしゃいでしまう。初めて会ったその日に、『お互いの前だけではそんな礼儀のこと気にしないようにしよう』と約束した。
わたしの遊び相手として、僅か八歳で王宮に上がったアレクはとても優しくて、いつもいつもアレクに与えられた部屋へ遊びに行った。
変わったのは、アレクが余所余所しくなったのはわたしが六歳、アレクが九歳の時だ。丁度わたしの母、王妃クラリスが亡くなった時。
何がきっかけだったのか分からない。ただ突然、本当に突然態度が冷たくなった。『ティア』と呼ばなくなったし、わたしが遊びに行っても話さなくなった。
どうしてだろうと思う暇もなく、アレクは騎士見習いとして働くようになり、めったに会わなくなった。
そして三年前からわたしの護衛騎士となり、わたしの傍にいるようになった。初めは時間がなかったから話さないようになったのかとも思ったけれど、護衛騎士となり、いつも一緒にいるのに会話はなかった。
やっぱりわたしは王女としか見られてないんだな、と思うと、『あの言葉』をずっと覚えていたわたしが馬鹿みたいに思えて、自分で自分を笑った。
まだ小さくて、父と母の立場もよく分からず、その忙しさも分からなくて、寂しくて……。
傍にいてくれず、たまに会いに来てもすぐにどこか行ってしまう両親は、きっとわたしのことが嫌いなんだと思っていた時期があった。
侍女たちが必死になってそんなことはないと言っていたけれど、それでも不安で、悲しくて仕方がなかった。
ある日、そのことをアレクに話すと、アレクはにこりと笑った。なんでも相談できる。そしてアレクはいつだって正しい答えを出してくれる。そう信じて疑わなかったあの頃。
アレクの笑顔はとても優しくて、わたしが誰の笑顔よりも大好きな笑顔。
アレクはその笑顔で、そっと耳打ちをするようにわたしに話してくれた。
「それは王と王妃が忙しいだけだよ。ティアはきちんと愛されてる。王と王妃は皆が噂するほどティアを愛しているよ。その証拠に僕が毎日ここにいるでしょ?」
と。どういうことか分からなくて、首を傾げるとまた小さく笑い今度は耳元に唇を寄せた。
「王と王妃が『ティアが寂しくないように』って僕をここに呼んで下さったんだよ。ね、ちゃんと愛されているでしょう?」
そう言われると、本当にそう思えてきて、愛されているんだと思うととても嬉しくて……。
でもわたしはあることを思いつき聞いた。
「じゃあアレクはお父様とお母様に会えなくて寂しくないの?」
と。するとアレクは少しだけ困った顔をした。本当に少しだけ、困った顔をして……それ以上に嬉しそうな表情を出した。それがどうしてなのかは今も分からないけれど。
「僕のお姫様はどうやらとても賢いらしい」
と笑いながら。『僕の』と言われると少しだけ恥ずかしかったけれど、『お姫様』という響きはあまり好きじゃなかったけれど。でも、アレクに言われると何だか嬉しくて。
「僕は寂しくなんかないよ。だってティアがいるもん。そうでしょう?」
そしていきなりぎゅっとわたしを抱きしめる。優しく抱きしめられると温かくて、どんなところよりも居心地がいいと思ってしまう。アレクはわたしの頭を撫で、言葉を続けた。
「だからティアが寂しい時にはいつだって傍にいるよ。だってティアが好きだから。大切だから。だからね、僕が寂しい時は傍にいて? ティアが僕のことが好きで、大切なら」
そう言うアレクがとても寂しそうだったから、わたしは抱きしめ返しながら『傍にいるよ』とだけ返した。するとアレクは本当に嬉しそうに笑ったのだ。
もうアレクは覚えていないほど昔の話だけど。だけどあの言葉が全ての支えだったのに……。寂しいと思う時、いつも思い出した。
今のアレクはもう、わたしが好きで大切だから傍にいるんじゃない。わたしが王家の人間だから傍にいるんだ。そう思うと、ベッドの上で身を縮めた。
「寂しい……」
寂しい時には傍にいるよ、といった人はもう遠い。そう感じずにはいられない。もうあの頃には戻れないんだと改めた認めさせられる。
忘れられない自分がもどかしかった。
「北の方角で王に反旗を翻すもの現る。応援を求む」 この報告がティアに入ったのはそれから一日経った時のこと。
独立から四〇〇年以上経とうとする今、この国にも『反乱』は起こる。少しずつ貴族は力を持ち始め、市民は不満を持つ。
「すぐに兵を送り鎮圧してください」
ティアの言葉に警備隊の隊長は「承知しました」と短く答える。まだ年若い、警備隊長になって一年しか経っていない隊長は確か数少ない上流騎士であり、アレクの同期だった。
いつも飄々としていて、騎士隊の中でも一番の変人だ。扱いにくい人材だが優秀で全てを任せても大丈夫だろうと判断した。
その警備隊長の人のよさそうな笑顔はなりを潜め、厳しい表情を作っていた。そして足早に部屋から出て行く。それと入れ違いにアレクが入ってきた。
「リシティア様、お話……」
「今日は何もないわ。わたし、忙しいの」
話しかけてくるアレクに冷たく言い放しながら、ティアは書類にペンを走らせ、捺印を押していく。
王は未だ病床についている。意識はあるものの政治を執り行うような力があるはずもない。その政務が全てティアにのしかかる。
「隣国のにらみ合っている今、反乱に騎士隊の中でも戦闘力重視の『紅の騎士団』を割くわけにはいかないの。だから王都の警備を主としている警備隊を出したんだけど……」
寒国から独立した光国を未だに狙う国は多く、特に寒国とは長年不仲だ。そんなときに、戦の先鋭である『紅の騎士団』を送ればたちまち寒国が攻めてくるだろう。
「だからアレク、悪いけれど話ならまた明日に……」
「軍や隊を割く余裕はないのでわたしが行こうかと……」
その言葉を聞いてティアは目を見開いたまま、しばらく固まった後小さく呟いた。
「どう言う……ことですか?」
いつのまにか口調が変わっていた。穏やかそうな声で実はひどく冷たい声にアレクは表情を変えずに答える。
「はい。青の騎士団を残し、白の騎士団も連れて行こうかと思います。指揮は私が。もちろんリシティア様には別の護衛を呼びますし、警備隊の一軍を連れて行くので早く鎮圧できます。それに……」
白の騎士団は少々騎士隊の中でも浮いている騎士団だ。中流貴族の息子はある一定の税を納めない限り、一年間だけ騎士隊に入らなければならない。
しかし大抵の貴族は跡継ぎを万が一失ってはいけないと思い、税を支払うので騎士隊に入る人数は少ない。
それに一年間だけなのでほぼ役に立たない。そういう落ち零れの人間を集めた騎士団が『白の騎士団』だ。この白の騎士団はめったにこない国賓を迎える、仕事のない部署だ。
反対に警備隊とは王都であるライラの公序良俗を守る、治安維持を目的とした隊だ。罪を犯した者の処罰もここの管轄であり、近衛隊の次に強い発言権を持つ。
一軍、二軍に分かれており、一軍は『蒼の騎士団』『紅の騎士団』に続く、優秀な騎士の集まりであり、『黒の騎士団』とも呼ばれる。
しかしティアにはそんなことは問題じゃなかった。
「どうして近衛騎士が反乱を鎮圧するため王宮を離れるのですか?」
感情を押さえ付けようとすればするほど声は冷たくなって……。冷静になろうとすればするほど口調は余所余所しくなった。
「あなたたちは王をお守りすることが誇りのはず……。なら何故近衛隊の隊長がここを離れる必要があるのです?今の発言、職務放棄と取られてもおかしくないのですよ」
厳しく問いただすような口調になり、ティアは口を噤んだ。そして一度息を吸い込むと無理矢理笑顔を張り付けた。
「あなたたちが行く必要はありません、アレク。いつも通りの仕事をして下さい。兵については大臣たちと決めましょう」
諭すような口調と声。ティアはそれだけ言うと部屋を出て行こうとした。
「リシティア様、しかし」
「人手が足りないことは分かっています。分かっているから大丈夫です」
扉に手をかけ、振り向きもせずティアは答えた。呼び止めたアレクの表情をティアは知らない。ドアノブを握っているティアの表情をアレクは知らない。
分からないから部屋から出るのだし、それを引き止めない。
だから、どちらの所為でもない。これから後悔しても、どちらが悪いわけでもない。
「仕方のないことです。リシティア姫。お諦めください」
「そんな……」
大臣たちは力なく首を振る。そしてそれ以上の話し合いは無駄だというように次々と席を立っていった。しかしそれはティアに反撃の糸口をつかめさせないためだった。
「我が国は戦力が少ないのです。レイティア様がそうお決めになったからです。あの方は争いを嫌ったと、その頃の書籍に書いています。
ですから、兵は出せません。これ以上出せば寒国は必ずやってくるでしょう。ですから今回はアレク殿たちに任せましょう」
大臣の声が今も耳の奥で響いている。"何故?"と問うその声も大臣たちには届かない。
『王女』というその立場が、『次期女王』というその立場が、泣き叫ぶことも自分の意見を押し押すことも許さなかった。
ただ議会の間にティア一人がいた。
「守れないのは……どうして?」
こんなにも、こんなにも悔しいのは大切だから。無くしたくないから。
「リシティア様。出立の挨拶に参りました」
いつもの黒い制服に旅行用のマントを羽織った姿。いつものような目に鮮やかな濃紺のマントはつけていない。
執務室の窓からは、もう準備を終えた騎士たちが揃っているのが見えるだろう。しかしカーテンはきつく閉じられていた。
「そう……。ご苦労様」
ティアはアレクに背を向けたまま、振り向きもしなかった。目が合ったら、何かしてしまいそうで怖かった。
王女らしい自分が保てなくなるんじゃないかと、何か余計なことを言うんじゃないかと。それが怖くなって、逃げた。そうするしかなかった。
そう思うと面と向かって何か言うのは気が引けた。本棚に向かい本を開いたまま、それ以上口を開こうともせずに退室を促した。その背中が語っているのは何なのかアレクは分からない。
アレクが騎士流の礼をして、ドアノブに手をかけたとき、背中に小さな衝撃が走った。足元に淡い水色のドレスがチラリと見える。
「リシティア様?」
呼びかけはしたものの結局振り向かず、ティアの言葉を待つ。
「そのまま聞いて」
いつもより荒めに話すティアに、アレクは頷くだけで答えた。
ティアは今更ながら自分の行動に驚くが、このまま別れて、もし何かあったらと思うと顔も見ずに、言葉を交わさずに送るのはどうしても嫌だった。
「アレクが王宮に来てから、全然会わないなんてことなかったから、それに」
ティアはコクリと喉を鳴らした。何かを飲み込むような仕草。マントを掴む腕の細さを見て見ぬふりをして、アレクは前へ向き直る。
「い、いなくなっちゃったら、文句も言えなくなるから」
最後の上はうやむやになってティアの喉に消えた。
「何で、何で近衛隊長がここを離れるのか分からないし……、わたしの護衛がわたしから離れるのかも分からない……っ!!」
次々と出てくる不満にアレクは何も返さなかった。
「アレクが、アレクが全部悪い!!」
震える声に思わず振り向きそうになる。しかしそれを必死に止めた。今振り向けばきっと北の地へ行けなくなるから。ティアをここへ置いて行けなくなるから。
「何とか言ってよ、アレク。もしかしたら、あなた、私を置いて……帰って、来ないかもしれないのよ? そんな可能性だってないわけじゃないのよ?」
後ろの声が強くなる。責めないとやりきれないとでも言うようにアレクの背を叩いた。しかしその叩く力は弱くて、全然痛みを感じなかった。
「ウソでもいいから。だから、一言……。死なないって、言って……」
そうじゃないと、離れられない。
ティアはこれまで王族として振舞ってきた。気弱なところなんて、いつも隠してたのに。本当に行かなければならない時になって何故、こんなことをする?
離れられない
振り切れない
置いて行けない
手放せない
この気持ちにあなたは、気付いていますか? だからこんなことするんですか?
アレクはそっとティアから離れる、これ以上ここにいれば、何かやってしまいそうだった。
「あなたを残して死んだりなんかしません。絶対に、一人にさせませんから」
その言葉にティアがようやく顔を上げた。その顔に笑顔はなかったけれど、涙もなかった。ティアはアレクの顔を両手で包み、その額に自分の唇を押し当てた。
「汝に神の祝福があらんことを」
泣き出しそうな顔でティアは笑う。
「ただの反乱ですもの。警備隊の一軍は優秀だし、きっと大丈夫」
ティアは自分を励ますように笑うと、アレクの背中を押した。
相手の手を掴んで、引き寄せようとするのはティアかアレクか――。
しかしその邪念が通るはずもなく……また相手に通じるはずもなく、互いに離れて行く相手に願いをかける。どうか無事で……と。
相手に対してできる事は、ここまでだと二人とも知っている。だから主と護衛の関係は崩れない。良くも悪くもずっと。
彼女はリッシスク―光国―の王女であり、次期女王。彼は大貴族の次男であり、王直属の近衛隊隊長。
彼らはその地位に誇りを持ち、自分が為すべきことを悟っている。だからこの関係はこのまま。
「今日付けでリシティア姫の護衛に就かせて頂くことになりました。第二部隊一軍の副隊長のプルー・ハリルです。よろしくお願いします」
代わりの護衛は明るい色の茶髪がよく似合う……凛とした女だった。少しだけ男より長い髪の毛はきちんと結われており、剣を扱うのを邪魔しそうにない。
淡く、薄い金色の瞳は鋭く、それでもその奥にちらりと柔らかさも垣間見れた。顔は中性的な少々女より。しかし背が高い所為か華奢な少年騎士に見えなくもない。
珍しく近衛隊以外の部署から来たと思ったら、どうやらアレクとエイルの推薦のようだ。女性同士の方がいいだろうと。
「あなたがあの隊長の部下?」
―すごくまともそうな人だけど……。口には出さずに思う。警備隊の隊長は、仕事振りは見事だが、中々の曲者である。
その部下もきっと変人だと思っていた。それに警備隊の隊長が言っていたことを思い出した。
『今回来るのは、まぁなんて言うか。迷惑かけるかもしれないですけど、姫様を守りたい気持ちはあります。話も合うと思いますよ』
少し心配そうに話す彼を初めて見て、どんな人が来るのだろうと思っていた。あの食えない隊長を困らせるのだ。余程問題のある人間なのかと思っていた。
(意外に……隊長も……)
下世話な想像をして、微笑みが含み笑いに変わる頃プルーは話しかけた。
「我が隊の隊長は、エイル・ミラスノですが」
そう言って眉間にしわを寄せた。その様子に首を傾げる。
「でも……、警備隊の副隊長さんが何故ここに?」
警備隊は北の地へ行っているはずですよね? そんな意味を込めて言うとプルーはますます苦い顔をする。
「馬から落ちて足を挫いて、一応治ったんですが、しばらくは馬に乗るなとエ……いえ、隊長に言われました」
エイル、と言いそうになって慌てて言い直しているのが面白くて、クスリと笑う。馬鹿にしたような笑みではない、どちらかと言えば温かささえ感じられる笑み。
歯切れの悪い説明も笑いを誘った。しかし顔を引き締めて、悔しそうに俯くプルーに笑いかけた。
「あなたの噂なら少し前に聞きました。男と偽って騎士になった、と」
そう言うとプルーはアッと口を押さえた。まさか王女の耳に入っているとは思わなかったのだろう。焦ったように視線を泳がした。
「いえ、咎めようと思っているのではありませんよ。ただ、わたしがアレクに『何か変わったことはないの?』と聞くのが習慣になっていて、それでアレクが答えたのを覚えていたのです。『つい最近、女性初の騎士が入ったのですが。なんでもその人は初め、男として入って来たらしいですよ』って。
中々面白い話だったからどんな人なんだろうと気になっていたの」
朗らかにそう言い切った。咎めようと思っていない。そう言うとプルーは肩の力を抜いた。そして、アレクの名前が出てくると、ピシリと再度固まってしまった。
「あの、アレク様の、お耳にも入っていたのですか。え、ど、どうしよう。怒ってましたか? 神聖な仕事なのに、とかなんとか」
真っ青になって聞いてくる。アレクは相当怖がられているらしい。その反応が面白くて、またクスリと笑った。
「いいえ。怒っていなかったわ。むしろ女性の体であの鍛錬について来れるなんてって、とても驚いていたと思う。
でも、そのあなたがまさかエイル隊長のところにいるとは思いませんでした。女性初ということで風当たりも強いでしょうが頑張ってください。何かあれば言ってもらっても構いませんよ。一応、騎士のことはわたしの管轄ですから」
そう言って笑うとプルーはにこりと笑った。侍女たちがするような柔らかな微笑ではない。どちらかというと幼い子どもがするような女性らしさの少ない、可愛らしい笑みだった。
それにつられてティアも小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。命に代えても守ってみせます」
プルーにまるで当然のように言われ、ティアは眉を八の字に下げた。
「お願いだから、そんなこと言わないで。命に代えてもだなんて……」
嫌いだ、そういう風に言われるのは。自分の所為で人が死ぬなんていやだ。それは偽善なのかもしれないけれど。自分のために人が死ぬ、なんて後味が悪い。という偽善でしかないのかもしれない。だけど……。
人が死んでいくのを、見たくない。そうなるのが、怖い。
「わたしだって王国の姫です。自分の最低限の身は守れるわ。プルーは命に代えなくてもいいから」
もしかしたら騎士としてのプライドを傷つけたかもしれない。でもそんなこと二度と言って欲しくなかった。
ティアの言葉を聞くと、プルーは不思議そうに首をかしげ、それから何かが分かったようにふわりと笑った。とても優しい笑み。
「リシティア様はお優しい方なのですね。エイルが言っていた通りだ」
つい素が出てしまい、プルーは慌てて背筋を伸ばした。優しいなんて言われるのは何年ぶりかで、少々照れくさくもあったが、素直に『ありがとう』と受け取っておくことにした。
「あ、プルー……って呼んでいい? もう呼んでたけど」
ついつい年が近い所為で言葉遣いが崩れる。しかしプルーは侍女たちのように言葉遣いを煩く言わなかった。それが好感度をますます上げる。
「あ、はい。みんなそう呼んでいますから。あの、私はリシティア姫、でいいのでしょうか?エイルは姫様って呼んでいるんですけど」
エイルは特別だ。リシティア姫、と呼んで欲しくないといったら、次からは『姫様』になっていた。侍女たちと同じ呼び方で、面白くてついついそのままになっている。
「あ、エイルはいいのよ。何度かアレクの代わりとしてきて仲良くなったから。面白い話たくさんしてくれるし。
だから、そうね。ティア、って呼んで欲しいの。わたしの小さい頃からの呼び名だから。リシティア姫、とかリシティア様、って好きじゃないのよ」
そう言うとプルーはにこりと笑って、『ではティア様にします』と言った。いつか『様』も取れてくれれば言いな、と思いつつティアはプルーに笑顔を返した。