第16話 『張る音』
「一年、待っていただけませんか?」
ティアがジークに向かって言った。その部屋にいるのはティアとジーク、そしてアレクとクレアの四人だけだ。
大臣たちは早々に退出してしまっていて、重苦しい雰囲気だけが部屋に残った。
「何故、と聞いておこうか?」
ジークの声にティアは顔を伏せようとする。しかしプライドが許さず、ジークと目を合わせたまま固まった。
アレクとクレアはわずかに顔を伏せ、互いの主の後へ立っている。どちらも互いの主が何をしようとしているのか分からないようだ。
また主である二人も、自分たちが何をしたいのかわからないようだった。
「わたしの立場は、あなたが思う王女ではありません」
わずかに、怒りが込められたような声が響く。
「知っている。“女王”だろう」
対するジークは喜色を滲ませていた。まるで彼女の怒りを感じて喜んでいるようにも見える。事実、そうなのかもしれない。ティアの顔に、アレクしか分からない怒りの色がはっきりと現れた。
嘲笑う色が含まれている声を聞いて、唇の裏を噛み締めているのがやっと分かる程度だ。
ここでいつものように口に出すのは簡単だ、とティアは自分に言い聞かせる。それでも頭に上る血はとめられそうにない。
二十歳の女王だと侮る大臣たちを黙らせるように、笑みを絶やさず要所を押さえて話せばいいというものではないと知っている。ティアの前にいるのは、今現在外交が上手くいっていない国の王子だ。
しかも大陸最強と恐れられている、軍事国家の跡継ぎ。一方ティア側は、自衛の策も満足に持てない軍事弱小国だ。
「それが何だ?」
ぎゅっとティアはドレスを握る。恐れてはいけないと、自分を鼓舞する。
「わたしは後一年、この国の王です。この国を離れるわけにはいきませんゆえ」
「たかだか二十歳の女王一人だろう? 才女で有名なあなたは確かに素晴らしい手腕をお持ちなのだろうが……。この国の宰相はやり手だと聞いた。彼に任せてもよいのではないか?」
たいしたことのない存在だといわれた。ふつり、と怒りが新たに込みあげる。
「民を裏切るわけには」
「結婚してここを離れるあなたは、一年待ってほしいと俺に言っている時点で裏切り者だろう? 今更あと一年いて何になる? それで裏切り者ではないと、胸を張って言えるとでも言うのか?
随分とあつかましい考えだな。リシティア姫? あなたはそういう人ではないと思っていたけれど」
そうジークが言った瞬間だった。ジークは立ち上がりティアのほうへ歩み寄る。そのとき、部屋の空気が一気に変わった。
その早い場面の移り変わりに、ついていけなかったように立っているティアを除いた全員が動いていた。
戦神の異名を持つ軍人兼隣国の王子とその侍従、国一と謳われるティア自身の騎士。戦う術を身につけている三人の行動はあまりにも早かった。
剣術を嗜んでいるはずのティアが呆然とするくらいには。
ティアが最終的に見たものといえば、自分をかばうように前へ出ているアレクだけ。
アレクはジークの手首を掴み、鋭いまなざしで睨みつけている。そんなアレクの首筋にはピタリと剣が押し付けられていた。
それを持っているのは、同じく鋭い目をしたクレアだ。ジークがにやりと笑った。罠に嵌った愚かな人間を見る残酷で好戦的な瞳だ。
戦場を経験した者しか見せない、いっそ清々しいまでの敵意。
「無礼者が」
それを聞いて、ティアは大きく目を見開いた後、アレクの前へ出た。その速さも、先ほどの三人には劣るが早い。
“パン”
乾いた音が軽く部屋へ響いた。ティアがアレクの頬を平手で殴ったのを見て、ジークは驚いたように目を開け、次いで悔しそうに口元を引き結んだ。予定通りに事が運ばなかったことを、よしとしていないようだ。
「痴れ者っ!」
アレクの首から血が一筋流れた。
ピタリと剣を突きつけられていたのに、ティアがそれを気にもかけず力任せに殴ったからだ。剣がアレクの首に少しだけ食い込んでいる。
厳しく見据えるティアとは対照的に、アレクは別のことを考えているように立っている。ティアはそれを無視して、ジークに向き直った。目を伏せ、腰を低くする。
「申し訳ありません、ジーク様。少々、狗の躾が甘かったようです」
その剣を、しまっていただけませんか?
ティアが一瞬だけ穏やかな声を崩し、クレアに言った。
態度はあくまで丁寧だったが、声は命令するように冷たく、威圧感に満ちている。
視線を受け止めるだけで精一杯のクレアは一度だけ身じろぎし、それから未だアレクの首に突きつけられている剣を引いた。
「アレク、下がりなさい。おって処分を知らせましょう」
「リシテ……」
「同じことを二度言わせるか? わたしに。それともエイル隊長を呼んで、牢に入れと命令しなければ分からぬか? 今ここで、そう言わねば、理解できないか?」
アレクがそっと頭を上げた。ティアはそれを表情の抜け落ちたような瞳で見つめる。
ジークはそれを物珍しげに見ていた。部屋の中に、妙な緊張が張り詰めてわずかな音をも立たなかった。
「申し訳ありませんでした。失礼します」
最後に、アレクはそう言って部屋を出る。ティアはその後姿を見ることさえしなかった。