第9話 『逃走』
「ジークフリート様」
連れてきた侍従の少女が後ろで声を上げた。
「王に怒られるって言いたいなら、心配するな」
ジークは慌てたように口元に人差し指をやる。
少女はその仕草でぐっと言葉に詰まった。が、すぐさま『しかし、ジークフリート様』と小さな声でジークの耳元に囁きかける。
どちらも目立たぬ紺色の衣服を身に着けていた。
少女の言葉に耳を貸さず、頭だけを草むらから出し辺りを見回すジーク。じれたように、少女はもう一度抑えた声でジークに呼びかけた。
「ジークフリ……」
「ジークと呼べと言っただろう。王子だとばれたらどうする」
「王に止められているのですから、早く王宮にお戻りください」
あれから何度か光国へ行く機会はあった。しかしジークに声がかかることはなかった。
戴冠式に出なかったジークの印象を気にした王が、ジーク以外に仕事を割り振っていたのだ。
そして一昨日、ジークはついに王へ“リシティア女王に会いたい”と直談判したが、『駄目だ』の一言で終わらされてしまった。
つまり王にその気はまったくないのだ。つめの先ほども。
『お前の不用意な言動で、国交が滞ったらどうするのだ』と思いっきり怒られるというオチもついている。隣にいる少女がこちらを気遣わしげにジークの方を見る。
黒髪を邪魔にならないように頭上でまとめている少女は、ジークに帰りましょうと告げた。大きな瞳はジークの碧眼をしっかりと見つめ、逃げを許さない。
もちろん、誤魔化しもである。
「やだね。リシティアって奴の顔が見たいんだ。直接」
「しかし目立ちます。じ、ジーク様の容姿は人目を引くんです」
草むらから再び顔を出しかけたジークが、ばっと少女を振り返る。
少女はとっさに身を引いた。侍従、ということは彼女はジークを守る役、つまり護衛なのだ。戦神と呼ばれる、彼の。
戦闘能力は未だに見たことのないジークだったが、その身のこなしからかなりの使い手だということは分かっていた。
「あー、でもまぁ、国境越えたらこっちのもんだろう。寒国の兵が光国に入ったら、それこそ外交問題に発展しかねない。国境まで後半日捕まらないようにすれば」
「ジーク様っ!」
少女がジークの体を引っ張って、草むらへ隠れる。
その前を、見知った制服を着た兵士たちが走っていった。草むらの中では彼女がしまった、と言う顔をして頭を抱えている。
つい癖で隠れてしまったのだ。この場合、見つかってしまった方がよかった。
「共犯決定だな」
にこり、とジークが笑う。
「なっ」
「感謝しろよ。俺一人でも逃げられたのに、わざわざお前を連れてきたんだ。でなけりゃ、のちのちお前が王の前に引っ張りだされて打ち首だぞ。俺の脱走を止められなかったって。
お前はお前で自分を責めるだろうと思って」
ぽんぽんと、ジークが少女の頭をたたいた。少女はその手を振り払う。
「おかげで私は帰ったら打ち首決定です。この命を差し出しても、この罪を償えません」
少女の頭をジークは小さく撫でた。からかいすぎたかもしれないと、少々反省する。どうしたもんかと唇を噛み締めている少女を見つめた後、うつむく。
目の端で自分の金の髪が揺れるのを見て、ジークは笑う。そして少女の軽い体を無理やり抱き上げて立たせた。
「来いよ」
一言、少女へ向かって言う。
「来いよ、クレア。命令だ。俺と共に光国へ来い。お前は、この命令に逆らえないはずだ。そうだろう? なら返事はひとつだけだ。返事をしろ」
「……」
少女がうつむいたまま返事をしようとしないので、ジークは少女の顎をつかみ持ち上げた。少女の顔が上を向く。
「クレア」
少女がぎゅっと一度手を握った。
「お供いたします。我が君」
ジークは満足そうに笑った後、空を見上げた。まぶしく太陽が光っている。ここが戦場なら、その暑さと血のにおいで相当参るだろう。
「さて、行くか」
草むらからゆっくりと出る。唯一の仲間を説得したのだ。簡単に捕まっては困る。
これが最初で最後のチャンスかもしれないのだから。少女も同じく草むらから出て、ジークの顔を見つめた。
「大陸一の才女の顔を拝見しに」
「大陸一の美女の間違いではありませんか?」
「そうとも言う」
もう一度だけ、雲一つない高い空を仰いでジークは笑う。クレアは黙ってジークについて歩き出した。
誰も気が付かないと思いますので、始めに報告。『クレア』の反対読みは……『アレク』です。名前が面倒だから、じゃないですよ!(きっと)
クレアとアレクが苦労人だということをお知らせしたかったのです。ジークは馬鹿でどうしようもないティアのイメージ。
彼女も一歩間違えば、こんなのになっていたかと思うと……無事育っていてよかった。