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姫と騎士  作者: いつき
本編
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第1話 『何があろうと』

場合により流血シーンがありますので、苦手な方はご注意。

またイギリスの中世っぽいですけど、正しくないので許せない方もご注意。

 昔々……今から五〇〇年程前のこと。ノル暦――全ての神の頂点であるノル神が誕生してからの年月の数え方――の一〇二五年のことでした。

 そう、今で言えば遠い昔のお話です。遠い、遠い昔のお話。もうそれが伝説か、事実か……。作り話かも、証明する術はない昔のお話です。

 長い永い戦争が始まりました。

 その長さから『一〇〇年戦争』と呼ばれる、人類の歴史の中でも有数の大きな、残酷な戦争でした。いいえ、残酷という言葉では、その悲惨な状況は伝わらないでしょう。

 ある人は「無の世界だ」と、またある人は「生きながら、地獄を見た」と、そう言ったそうです。

 今ではもう何が原因かも分からないような、でも悲惨で残虐な戦争だったと幾つもの文献が語っています。

 幾つもの国が成り立っては滅び、滅びては成り立ちました。何が正義で何が悪なのか、それは勝者が決めるものであり、決して正しいとは言えないものばかりでした。その犠牲者は何万人にも及んだそうですが、今では正確な人数を知ることは出来ません。


 たくさんある国の一つに、一際大きくて一際平和な国がありました。それが今、私たちの住む光国こうこく、リッシスクの前身であるカルス国です。

 カルス国の王は全ての国を押さえこむだけの、強大な武力と権力がありました。

 しかし、王は戦争に加わることを拒み、参戦するように進言する臣下たちに耳を貸すこともありません。王は有名な反戦者でした。その昔、家族を戦争で亡くしたからです。

 そしてある時、王は参戦に賛成する臣下の一人に殺されました。とても信用されていた、王の親友とも言える臣下に、です。

 一一一五年のことでした。『一〇〇年戦争』は九〇年にも渡り、まだ終わってはいませんでした。しかし、少しずつですが収束するような気配を見せ始めました。

 この戦争により、勝利国さえ貧しくなっていったからです。そんな中、長い間平和を守り続けていたカルス国の国王が亡くなったのです。


 その後カルス国は力を失いました。王の死を悼む間もないまま統率者のいない国は腐り始め、瞬く間に疫病が流行りました。

 戦争にも負け、隣国の寒国かんこく、ロッラールに土地と王の唯一の跡継ぎの姫を奪われそして滅びました。そのとき姫はまだ何も分からない、三歳でした。

 王が亡くなって、一年も経たない間に国はなくなってしまったのです。カルス国の民は隣国に奴隷として連れられ貧困と飢えに苦しみました。

 しかし、一一二八年、一六歳になったカルス国の王女は民のために立ち上がりました。

 かつてカルス国の大臣だったというその人に、以前の国がどれほど豊かで平和で、幸せだったかと言うことを聞き、そしてカルス国を救えるのは自分自身しかいないと知り――、立ち上がったのです。

 そして三年という短い月日で光国独立という壮大な夢を実現しました。その後、幾年月の間、何人もの王と女王とでこの国を守り、今に至るのです。

 もう二度とあんな悲劇を起こさぬよう、王女は自分の国を守るのみの騎士を残し、あとは止めさせ、一切の戦争に参加しないようにと指示しました。

 それ以来我が国、光国は一切、外国と戦争をしていません。しかし、ここ一〇〇年の間、隣の国寒国との国交が上手く行かず、いつ戦争が始まるかと言う危険な状態を保っています。

 寒国は以前のようにこの国を支配し、この国の特産物である金などを手に入れたいのです。

が、今の治世は賢君と謳われるユリアス王の御世です。

 どんなに危ない状態であろうとも、我らが王は決して相手に屈指はしないでしょう。そして、その血は――、あの王女から続いているのです。




「光国独立へと導いた女性の名はレイティア。レイティア・ローゼ・カルスはこの国の女神として、全国民に崇められています……か」

 パタン、と音を立て少女は本を閉めた。

 面倒くさいというのが分かるようなぞんざいな扱い方。革表紙の重そうで厚い本は、いかにも難しそうな重々しい雰囲気を振りまいている。

 今年発行されたばかりの歴史書にもかかわらず、その本が黴臭く感じるのはその雰囲気の所為だろう。

 そんな本を傍らにある机に置き、少女はベッドに腰を落ち着けた。フラフラとベッドから出された足が、行儀悪くも優雅に揺れている。そして大きく息を吐いた。

「わたしにどうなって欲しいから、こんな本を読ませるのかしら? ……ただの王女のわたしに」

 皮肉気に首をかしげ、唇に笑みを刷く少女の明るいブロンドには軽いウェーブがかかっている。

 ふわりと柔らかそうなブロンドに縁取られている顔は端整で、小さな唇だけが幼さを残していた。

 澄み切った瞳は深い蒼だが光が当たると翠にも見える。丹精込めて作られた人形のように美しい――しかしその顔に浮かべる表情はひどく冷たい印象を与えた。

 そんな少女の思考は部屋に入ってきた男に止められた。

「失礼します。リシティア様」

 夜の闇よりもなお深い漆黒の髪と瞳、貴族然とした整った顔。その顔に表情と呼べる表情は無い。

 あるとすればそれは、無表情だ。少女の冷たい顔が一瞬和らいだ。しかし、すぐさま元の表所に戻っていく。そして、抑揚のない声で"リシティア"と呼ばれた少女は不快そうに眉を顰めた。

「何? アレク。女性の部屋に無断で入ってくるなんて失礼よ」

 高く凛としているものの、穏やかな声には王族に相応しい気品と威厳がある。しかしアレクは動じる事無く、ベッドへと近づいた。

「何回もノックしました。それより早く公務にお就き下さい」

 ベッドに座り、身動きをとろうとしない王女に向かい、見下ろすようにアレクは声を掛けた。

 とても王女に対するようには聞こえないような、冷たい声。

 その声に相応しい、鉄面皮。幼い頃に一緒に遊んだ無邪気な笑顔はどこにもなく、あるのは自分を王女としか見ていない無表情、無関心な青年騎士の顔だけ。そう思い、大きく息を吐いた。

 最近全く『ティア』と親しく呼ばない、呼んでくれない。侍女や貴婦人たちがそっとため息をつくような顔の第一部隊(通称近衛隊)隊長はどこまでも仕事に忠実だ。

 だから時々、いや結構な割合で大変な目に遭う。公爵家の次男として、普通に生活していれば絶対に遭わないであろう目に……。

 本来騎士の身分は決して高くない。いや、この国では、騎士というのは爵位ではないから貴族でもないのだ。

 公爵家という、貴族の中で最も高い地位の子息はまず騎士にはならないだろう。親も決してそれを許しはしない。

 しかしアレクは公爵家の家に生まれながら、自分の意思で騎士見習いとなり、他の人間と変わらないように厳しい鍛錬に耐え、騎士隊の中でもエリートの集まる近衛騎士隊の隊長に若くして就任した。

 ようするに、貴族の血を持ちながら、貴族の地位にはいないのだ。いや、自ら貴族の地位を捨てたと言ってもいい。

 その考えがティアには今一分からない。

 何のためにアレクがわざわざ騎士になったのか。ましてや近衛中の近衛と言われる、近衛隊の中でも最も優秀なものが集まる『蒼の騎士団』の団長でもある彼が何故王ではなく、自分に仕えているのか。

 しかしティアにはそれを聞く勇気はなく、いつも口に出そうと思っては失敗した。

 いざ口に出そうと思うと、「あの冷静な声で『仕方ないからです』とか無表情で言われたらどうしよう」という考えが浮かんでくるのだ。

 そんなことをアレクから聞いたらきっと立ち直れないだろう。ティアはそう確信している。そんな想いを振り切るように、ティアはアレクから目をそらした。

「分かったわ。印を押して、大臣たちからの報告書に目を通す。これでいい?」

 諦めたような、どこか投げやりな声でそう言うと、ティアはひらひらと手を振り退室を促した。アレクは黙って騎士の礼をして、静かに部屋から出る。

 アレクが完全に扉を閉める音を背中で聞き、ティアは自分の背丈よりも大きい鏡台の椅子に腰をかけた。

 豪奢とはいえないものの繊細な彫りを施した鏡台に自分自身を移し、ティアは眉を下げる。

 そして豊かなブロンドを掻き揚げた。掻き揚げ切れなかった数本の髪がはらりと手から零れる。

 髪を上げると、幼かった顔が一気に大人っぽく、色気を放つ。首の左横に現れたのは王家の紋章だ。

「こんな紋章……」

 鏡に映る、銀色の線で彩られる紋章。指先で美しい幻獣ユニコーンがモチーフの紋章を緩やかに撫でた後、ティアは苛立ちをぶつけるようにきつく爪を立てる。

 白い首筋に紅い痕が四本走った。痛々しい紅い痕が白い首筋に蚯蚓腫れとして浮き上がる。

 王家の人間全員に例外なく彫られるユニコーンは彼女らを時には守り、時には縛る。死ぬまで王家から逃げられないように、裏切れないように。

 ティアはきつく唇を噛んだ後、まるで自分に言い聞かせるように口を開いた。

「わたしは、いつだって王家の人間よ。こんな証が無くてもわたしは」

 光国 リッシスク現王、ユリアス王の故王妃の一人娘だ……。第一王女 リシティア・オーティス・ルラ・リッシスクの立場はいつまでも変わらない。

 変わることなんて許されない。それが王族の唯一無二の役割である。

 五年前のあの日決めたのだ。血溜りの中に座り、為す術もなく恐怖に震えた時。ドレスが紅く染まっていくのをただ見ているしかなかった時。心の奥底に刻んだ。

 護りたいと思う人を、大切な人を、失いたくない人を……。この地位、権力、人脈……。何を使ってでも護ると。

 どんなに汚い手だと、卑怯だと罵られても……。護ると、護ってみせると決めた。

 これだけは譲れない。小さくティアは呟いた。



 

 五年前の冬。年も明けてすぐのこと。そう、ちらちらと雪でも降っていたかもしれない。

ティアは城下である新年の祭りのにぎやかな音に誘われて、城を抜け出した。

 服は侍女に無理矢理頼んで用意してもらった、城下の人間が着る質素なドレス。飾りもなく、冬なのに薄いドレス。

 色褪せた白色の布が頼りなげに宙を泳いだ。さすがにこれだけでは寒いので、同じ色の上着を羽織る。

 そして珍しい瞳の色を隠すため頭から紗も纏った。父王から剣術を学んだ時にもらった、護身用の小剣も懐に入れる。

 この国では一〇歳は大人になるための準備を始める年だ。光国では16歳が成人として認められる。その年になるまで、礼儀作法を叩き込まれるのだ。

 ティアも例外ではなく、先年の六月四日から、気軽に城下に出ることも、それまで習っていた剣術も禁止された。

 姫君にはそんなこと必要ないと、顔に傷でもついたらどうするんだと、そんな理由で止めさせられた。

 今から半年以上前のことだ。

 三歳年上のアレクは一三歳になったので騎士見習いを卒業した。後三年は雑用をこなし、いろいろな部署を回る新人騎士になったのだ。

 一六歳の誕生日に正式に騎士として配属されるのだそうだ。なので最近は忙しいらしく顔も合わせない。

 合わせても取ってつけたような敬語で話され、何故だか遠いと思った。その事がティアに腹立たしさを加え、こんな行動に駆り立てた。

 どこへ行こう。辺りを見回し、そんなことを考えながら、ティアの足は止まらず町の中心へと向かっている。とりあえずは何か珍しくて、城では食べられないものが食べたい。

 そう思っていると、新年を祝う祭りの行われる大通りを通っていると男女の言い争う声が聞こえた。

「いいじゃないか」

「や、止めてください」

 会話を聞いても、恋人同士、親子、友人どれにも当てはまりそうにない。しかも声が聞こえてくるのは怪しい、というか人通りの極端に少ない路地裏だ。女の声は怒声に近い叫び声だった。

「放してください。お願いです」

 女の声に恐怖が宿り始める。通り過ぎようとしていたティアの足がピタリと止まり、路地に入って行った。

 いたのは地元の人間と思われる中年男と身なりの整った女。女のほうは中流階級の身分だろう。上流階級の人間は馬車もなしに移動しない。女の手首を握っている男は酒によっているのか赤ら顔だ。

 そう冷静に分析すると、ティアはツカツカと男に歩み寄り、不快感をそのままに男の腕をつかんだ。

 問題を起こしたら、もう町へ降りることは叶わなくなる。そう思うが女を見捨てることが出来なかった。

「この人、嫌がっているのが分からない?」

 声には最大の威厳を、男の腕をつかむ手には精一杯の力を込めた。男の顔が小さく歪む。痛みと驚きがない交ぜになったような顔だ。

 男の腕をつかむ力は華奢な腕からとは思えないほど強く、その声と表情はとても一〇歳の少女が持つそれとはかけ離れていた。

 しかし腕をつかまれた男は一瞬と惑うものの、下卑た笑みを浮かべると反対にティアの腕をつかみ返した。

「何かい? あんたが相手をしてくれっるてぇのか?」

 つかまれた腕を中心に一気に鳥肌が立ち、背中がゾクゾクとした。今まで経験したことがないような不快感だ。

 しかしそれを相手に悟られないように、気丈に男をにらみつけた。酔っ払いの目の焦点が合っていないのを見て、ティアは"この酔っ払いが"と呟いて、腕を振り払った。その拍子に男がたたらを踏む。

「一〇歳の子どもに何の相手をしろと言うの?」

 そのまま腕を組み、笑った。普通の少女ではまず出せないような艶を見せ付けて。そして、女の腕をつかみ大通りへと向かおうとする。

 チラリと横目で観察すれば、女はまだ一五、六歳の少女と呼べる風貌だった。真っ青な顔色と、がたがたと震える体を見て、早く連れ出さなくてはと気が逸る。

「お嬢ちゃん。これは俺とその女の問題だ。痛い目見たくなかったら、とっととその女をこっちにやって逃げるんだな」

 ティアの前に立った男の手に刃物があるのを見て、ティアは目を眇めた。

 そして小さく"見境をなくしたか……"と呟き、そのあとに二言、三言、とてもではないが城で口に出来ないような言葉で男を罵り、そ知らぬ顔で通り過ぎようとした。

 しかし、男はそれを馬鹿にされたと思ったらしく、刃物を持った手を思いっきり振り下ろそうとする。

 しかしティアはそれを横目で見ただけでにやりと笑い、無駄な動き一つなく横によけ男の足を払う。

 そして今度こそ女を引っ張りながら、まっしぐらに大通りに向かって走り出した。




 いつもと違う質素で軽く、動きやすいドレスのお蔭ですごく走りやすい。靴だってヒールの高くないブーツなのだ。らくらくスピードは上げられる。

 ティアだけなら男を振り切れただろう。そう、ティアだけなら。しかし手を引いている女の方は外出用の正式な服。ペチコートやコルセットのせいでスピードが上がらない。

 "早く"心の中で誰かが叫ぶ。どう考えても男のほうが早い。土地勘ではこちらは絶対に不利だ。我知らずティアは唇を噛んだ。このままだと二人とも捕まるのは目に見えている。

『少しでもいい。何とか足止めできれば』

 そうすれば女だけでも逃がせるだろう。そうしたら後は何とでもなる。もし捕まれば、何をされるか分からない。

 相手は酔っていて、逆上しているのだから。襲われるかもしれない。殺されるかも……。そんな不安がティアの中で広がった。

 と、その時、前方から男が現れる。ティアは女の手を引っ張り反対側に逃げようとする。

「いや!!」

 しかし女は咄嗟に持っていたバックを男に向かって投げる。それは見事な円を描き男の頭に命中し、男は後に仰け反った。

『確かに、足止めは出来たけど、これでは……』

 男がゆらりと立ち上がる。その目は怒りに燃えていて、女はそれを見ると「ひっ」と小さく息を呑み、その場に膝をついた。

「このガキが!!」

 なりふり構わず刃物を振り回す男に、ティアは慌てて小剣を懐から出し応戦する。鋭い金属音が路地裏に広がった。

 しかし後で腰を抜かしている女の所為で思うように攻撃できない。いくら剣術を習っていると言っても、腕力の差と逆上した男の読めない動きに小さな躊躇が生まれた。

「あっっ」

 ガキン、と一際大きな金属音とともにティアは押し倒され、足で踏ん張ることも出来ずに尻餅をついた。

 しかし男は倒れたティアに構う事無く、女の前に立つ。そして思いっ切り刃物を高く掲げた。

「殺人は重罪よ!!」

 そう叫んで、突き飛ばす。しかし男はあろうことかそこから刃物を女にめがけて投げた。

 早いはずの刃物の動きがとてもゆっくりに見える。女が何か叫んでいるにも拘らず、その声は聞こえてこない。全くの無音の世界。

 ギラリと路地裏に差し込む弱い光が反射して、その鈍い光が瞼裏に残った。

 生々しいまでの刃物と驚愕の色に染まる女の顔。

「一〇歳の体で、どれだけ彼女が守れるの? 王女の立場のわたしが何故こんなことをするの? わたしが死んだらさぞかしこの女の人は厳しく罰せられるだろう……」

 そう嘲笑する声が頭に響く。それでもティアは女に覆いかぶさった。ぎゅっと痛さに備えて目と口を瞑る。

 一瞬後に焼け付くような痛みに意識が揺らめく……はずだった。



 目に入るのは、真っ白な雪がうっすらと積もっている茶色いレンガ。頬に感じるのは女の暖かな体温とねっとりとした生暖かい液体。

 むっとするような血の臭いがするのに、自分はどこも痛くないのを不審に思い恐る恐る目を開く。ゆっくりとぼんやりとした視界がはっきりとしていく。

 ありえない色が目に入り、ティアはハッと息を呑んだ。ティアの色あせたような白色のドレスと、うっすらと白く雪の積もる茶色いレンガが緋に染まっていた。

 白い雪が血溜りに落ち、緋に染まる前に溶けていく様子をどこか他人事のように見ている。

 カランという何かが落ちた音を合図に振り向く。

「ア……レ、ク?」

 目に映る後姿は見慣れたものだった。黒い上質な制服の上に新人騎士特有の白いマントを羽織っている。

 しかし、"新人騎士の期間は、何色にも染まらず、ありのままの騎士の姿を学べ"と言う教えの元、身に着けることが義務付けられている白いマントは肩口から大きく破れ、緋に染まっている。

 ぽたり、ぽたりと垂れ下がった左腕からは血が流れ出し、指先から落ちる。懸命に右手で抑えてはいるものの、効果は見られない。

 滴る血がレンガに模様を描いていた。その鮮やかさに、一瞬ティアは息を呑んだ。

 知らず知らずの内に名前を読んでいた、恐怖と驚きでかすれた声に呼ばれた相手は顔をしかめながらこちらを振り向く。

「あれだけ大人しくして下さいと常日頃から言っているのに……」

 呆れるような怒るような、それでも少しだけ声に安堵を混ぜた、そんな声でアレクはティアに呼びかけた。こんな時まで敬語で。

 一方男は血を見て酔いが一気に醒めたようだ。先程まで持っていた血まみれの刃物とアレクの肩の血を見て一目散に逃げていった。



 それからのティアの記憶はあやふやではっきりとしたことは何も覚えていない。

はっきりと記憶があるのは、アレクの容態が落ち着き、ベッドで寝ているところだ。

 血に染まったままの緋色のドレスは今ではもう赤黒く変色している。外は真っ暗で、随分と長い間アレクの傍にいたのだと思った。

 アレクの苦しむような表情を見るのが嫌で、ティアはベッドから背を向け、この国の守護女神であるレイティアに祈っていた。

「連れて行かないでください。お願いです。まだ、まだアレクには……しなくちゃいけないことがあって、この国を守ることが、アレクの目標で……」

 なんと言っているのか自分でも分からず、だけど必死にティアは言葉を紡いだ。紡いでいないと、アレクがどこかへ言ってしまいそうで、それが怖かった。その時だ。

「リシティア……様」

 後ろから小さな声で呼びかけられる。無意識に体が硬くなって、思うように振り返れなかった。どんな顔をして、アレクを見ればいい? ティア自身の所為で怪我を負ったのに。

 そこでやっと思い当たった。わたしの傍にいるのがいけないんだと。アレクは本来騎士になるような身分じゃないんだと。そう思うと少しだけ、心の中が沈んだ。

「ごめんね。アレク」

 口から出た声は、ティア自身でも驚くぐらい低く、無表情だった。何か言わなくてはと、アレクのベッドの傍に膝をついた。

 それでも何と言っていいか分からなくて、結局何も出てこずにこれ以上一緒にいると泣いてしまいそうになった。それを誤魔化したくて、ドレスを翻し、扉の前に立つ。

 その時になってやっと言葉が出てきた。知らず、口から出てきた言葉。

「アレク、あなたをボールウィン家に帰します。本来あなたは公爵家の次男として、お兄様を支え、領地を整える人間です。

護衛騎士になるような身分ではありません。ボールウィン大臣もきっとあなたの身を心配しているでしょう。もちろん、貴方のお兄様でもある、セシル様もです。だから」

 そこからは何故か言葉が出てこなかった。事務的な声に感情が見え隠れしそうで、本当は遠い、ボールウィン家に帰って欲しくないのが分かってしまいそうだった。

 もうここで別れれば社交界という、狭い世界でしか会えないのは目に見えている。それでも、自分の所為で傷つくのは見たくなかった。それがたとえ、アレクの夢を壊すことになっても。

 自分の自己満足でしかなかったとしても。自分の……独りよがりだったとしても。

 自分自身の心を無視するように、ティアはさらに言い募った。

「あなたは……守られる人間であって、決して守る人間ではないのです。わたしを守るより、自分を守ればいいのよ」

 ぐっと手に力を込めて、言い切った。アレクは無表情にこちらを見ている。心なしか表情が少し硬かった。

 当然だろう、国と王のために日々頑張ってきたのに、いきなり何の関係もない姫に帰れと言われる。

 それでもティアは気にせず、扉から出て行こうとした。

「私は、あなたを守ります。あなたを守る、この仕事は私が唯一命を落としてもよいと思える使命なのですから」

 驚いて振り返った。子供の頃とでは比べ物にならないけれど、最近見ていなかった微笑がそこにあった。

 冷たい、氷の貴族様と呼ばれ、どんなに貴婦人から熱心に話しかけられても必要以上の会話をしないアレクの笑顔が、実はとても優しくて暖かいと知っているのは、ティアだけだった。

「だからって……。わたしは……」

 そこまで言って何もいえず、慌ててティアは扉から出た。命を落として欲しくない、死んで欲しくないと思いつつ、それでも守りたいと言われればどう反応していいのか分からなかった。




 知らない内に、五年も前の記憶に浸っていた意識をティアは現実に引き戻した。いつの間にかティアは微笑んでいて、自分自身でも驚いた。

「守ります、ね」

 正直、嬉しかったというのが本音だ。いつもそっけなかったのに、そう言われると冷たくされていても許してしまう自分がいる。

 それと同時に自分の所為だという後悔もぬぐえなかった。それは五年たった今でも変わらない。アレクが自分を守るように、同じようにとはいかなくても自分もアレクを守りたい。

 そう思うことはいけないことだろうか。自分の力では出来ないだろうか。

「もうすぐ、一六歳」

 そう、後数日もすれば一六歳。この国で言う成人だ。成人すれば、今よりもっと拘束されるだろう。

 王家という堅くて、動けば己の身さえも傷つけるような鎖に。自由がなくなり、もう気軽に城下に出て行くことは許されないけれど。だけど

「もっと守れるようになる」

 成人すれば、権力も少しは大きくなるだろう。自分の考えを曲げることも少なくなるかもしれない。

 護りたいと思えるものが、護れるようになるだろう。緋色に染まってしまったのはドレスでも、たおやかな手でもなく……心だと思っている。



 コンコンという扉を叩く音の所為で我に返り、慌てて髪を梳くふりをする。それと同時に扉は開かれ、いつもと変わらない顔が現れた。

 『早くしてください』と語っている瞳に答えるようにティアは立ち上がり、滑るように扉から出て歩き出す。その数歩後をアレクがついてくる。絶対に隣を歩くようなことはしない。

「ねぇ、アレク」

 あの言葉を信じていいだろうか。あの言葉に頼って許されるだろうか。

 穏やかな声。暑さを少しだけ含んだ風がそれを運ぶ。

「何でしょう、リシティア様」

 礼儀正しく、騎士らしいそっけないその言葉にティアが眉を顰めたのは言うまでもない。それでもティアは変わらず話を進めた。

「信じてるから。六年前の――あの時の言葉」

 分からないかもしれない。心配になってアレクのほうを振り向いた。もう覚えてないかもしれない。

 もしかしたら、煩い姫へのあしらいの言葉だったのかもしれない。それでも……。騎士としてでなく、ボールウィン家の人間としてでもなく。よくティアのことを知る、幼いころから一緒に遊んでいるアレク自身として。

 あの日から五年という月日が経とうとしている。たくさんのことを学び、忘れ、覚え……。得て、失った。

 その言葉にアレクは何も返さず、しかし微笑んだのを感じ、ティアは目を細めた。覚えていたんだ、そう思うと心が温かくなった。


 不満は少なからずあるけれど。間違いなく平和な日々。

 永遠に続くわけがないと知りつつ、永遠を望まずにはいられない。

 どうかこの平和が続きますように。どうかこのまま……。

 そう願うことは、いけないことですか?

 そう願うことは、許されますか?


 しかし、今、この瞬間。その日々に終止符が打たれた。

「ひ、姫様。大変にございます。王が、王が、危篤にございます!!」

 走ってきて、焦ったような侍女の言葉。息を切らし、肩を上下させたまま言葉を紡ぐ。王宮での礼儀も忘れ、侍女はティアに駆け寄った。

 この一言が全ての合図。

 ゆっくりと歯車は動き始める。小さな狂いは少しずつ、少しずつ大きくなっていく。

 歪みが歪みを呼び、どうしようもなくなってしまう。もう取り返しがつかないような歪みが生じる。

 誰がこの時、それを予想できただろう……。誰がこの時、その結末を想像できただろう。

 きっと神にさえ、できなかったに違いない。

「すぐに、議会を開く。準備を」

 ウソ、と叫びそうになる自分を必死に叱りつけ、ティアは俯きそうになる顔を上げた。

 ピンと張り詰めたような、しっかりとした声は紛れもなくティアのもので、数日のうちに成人する若い少女の声というよりは、国政に何十年も携わってきた、何でも分かっているというような老臣のような低い声だった。

 冷静で、動揺がないティアの姿を見て我に戻った侍女は非礼を詫び、すぐさま議会の準備にと行ってしまった。

 しかしその一方で、ティアは手を握り締めていた。左手を右手で包み、何とか震える手を止めようと必死になっている。しかし決して前を見つめる瞳が揺らぐことはない。

「信じてるから……」

 自分を奮い立たせるように、もう一度だけ呟いた。


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