独立を寿ぐ裏で二人の若者は
世界に重い灰色の霞みをかけていた長い戦争が終わり、今度は、インドが一つの国として独立することになった。
来月には仕事の引き継ぎが済むから、そのタイミングになるだろう。やっと帰れるんだ。嬉しかろう。
このカルカッタの地で大使をしてらっしゃるお父様に、そう告げられてから、今日で一ヶ月。
いよいよ、明日の朝一番の船でスコットランドへ帰ることになった。
だから私は、海から離れた丘の上の本邸に帰る前に、戦前、日本のペンパルが、銀座の好事家の間で秘かに流行っていると言っていた魚介料理を用意させた。
「ご所望の品でございます、ジョセフィーヌ様」
そう言って、私の目の前に静かに料理を置いた浅黒い肌の青年は、この屋敷で召使をしているインド人のサンカル。
私とそれほど歳は変わらないらしいけど、大人びたエキゾチックな表情や落ち着いた仕草を見る限り、パーティーに来る政府のお偉いさんより、よっぽど謙虚で紳士的に思える。
「軍艦という厳めしい名前の割には、小さな舟なのね。変わり種のデザートみたい」
「さようでございますね」
さしずめ、このカーボンで巻かれたビネガーライスが船体で、上に乗っているオレンジの海産物が大砲といったところか。
下関から瓶詰めで送られてきたもので、たしか、海栗という名前だった。
栗のような棘の毬に包まれてる挿絵が、書斎の図鑑に載っていたのは覚えてる。
はたして、どんな味がするのかしら。
「お嬢様。そちらは海藻を乾燥させたもので、そのままお召し上がりいただけます」
「あら、そうなの」
カーボンをケーキのフィルムを剥がす要領でフォークの又に挿し込んで巻き取ろうとしたら、サンカルからストップがかかった。
かといって、巻き直すのも体裁が悪い。このまま、カーボンだけいただいてしまおう。
*
海栗の味は、非常にクリーミーで、大変おいしゅうございました。
インド生活最後の晩餐は、サンカルのおかげで申し分ないものとなった。
食後の紅茶も済み、あとはベッドの上で明日の朝が来るのを待つばかり、……という、うまい具合には、いきそうにない。
あとで落ち着いてから手紙に認めようと思っていたけれど、やっぱり直接伝えることにしよう。
「眠れませんか、ジョセフィーヌ様。ホットミルクでも、お持ちしましょうか?」
もう寝るところだっただろうに、サンカルは嫌な顔ひとつせず、私に気を配ってくれる。
その優しさが、たとえ召使としての職務を果たそうという義務感から生まれるものだとしても、つい、甘えてしまいたくなる。
だけど、それではいけないんだ。
「何も要らないわ。ただ、聞いて欲しいことがあって」
「なんでしょうか?」
窓から射し込む満月の明るい光が照らす、長い睫毛の下にある漆黒の澄んだ瞳に見つめられたことで、不意に高鳴る胸を抑え、私は勇気を振り絞って言った。
「私、サンカルのことが好き」
「私も、お嬢様のことをお慕い申し上げております」
「ううん。ライクじゃなくて、その、……ラブの方よ」
「はぁ、さようでございますか……」
サンカルは、私から目をそらし、窓の外へと視線を移した。これは、困った時にサンカルがする仕草だ。
そう分かっていた私は、言わない方が良かったかもしれないと、急に後悔の念が渦巻き始めた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、サンカルは視線を戻し、甘いテノールで諭すように言った。
「私は、大した学も無いインド人で、お嬢様は、器量と教養を兼ね備えたスコットランド人です。到底、つり合いませんよ。お嬢様には、もっと相応しい殿方が居られるはずです。――さぁ。これ以上に夜更かしすると、明日の船旅に障りますから、お休みください」
そう言って、サンカルはタオルケットを両手に持ち、そっと私の肩に掛け、眠りへと誘おうとした。
きっと目が覚めたら、いつもと変わらない笑顔で朝を告げ、そのまま何事もなかったかのように爽やかに送り出してくれることだろう。
いつだったか、私が「サンカルも一緒に来られたら良かったのに」と呟いたとき、サンカルは「今のスコットランドに、私は必要ありません」と言った。
真面目で、誠実で、誰に対してもにこやかに応対できる彼なら、この先、インドがどんな国になろうとも、うまく世を渡っていくことだろう。
そこに、私が介入する隙は無いだろうし、サンカルが私のことを必要とすることも、おそらく無いのだろう。
たとえ、私がサンカルを必要としているとしても。
どうして、異なる人種が存在するのだろう。
どうして、地球上に国境線が存在するのだろう。
どうして、私はサンカルと出会ってしまったのだろう。
どうして、私はサンカルを……
答えの無い問いを頭と心に渦巻かせつつ、私は、静かに両瞼を下ろした。