袖の羽風
「兄上。どうかしましたか?」
兄上と呼ばれた男性は窓から差し込む夕日に目を細めながら、暫しの間見つめていたが、話しかけられて、窓をカーテンで隠し、後方へと身体を向けた。夕陽の光が遮断されても、前もって電灯をつけているので暗くはなく、顔がよく見える。いつもと反する行動とは裏腹に、いつもの不愛想な少女の顔である。
男性はふっと、口元を緩め、小円の伊達眼鏡を取り外した。
「どうかしたのはおまえだろう。近頃はやけに素直に花嫁修業に精を出している。なにか企んでいるのではないか?圭」
針仕事を中断して仰ぎ、男性と視線が絡ませること数秒。圭は針仕事を再開させた。針仕事の基本中の基本、雑巾の手縫いである。縫い目をとても細かくして進めているので、少しばかり目が疲れていた。気分転換も兼ねて外の景色が見たかったのに。男性越しにカーテンを見ながら圭は思った。
「花嫁修業をしてもしなくても私にはなにがしかの疑いがかけられるわけですね」
「疑っているわけではなく心配しているんだ。前は外に飛び出てばかりだったからな。それなのに今は城に閉じ籠ってばかり。具合が悪いのを隠しているとか?」
「すこぶる体調はいいですよ」
「身体は。つまり精神は元気ではないと?」
「心身ともに良好です。まったく。いつも口やかましく言って来る兄上の顔を立てて花嫁修業に勤しんでいるのに。こうやって監視に来るなんて。よほど私は信用ないんですね」
「監視なんてひどいな。ただの物見遊山だ」
「兄上の仕事は終わったのですか?」
「いや。まだ」
「悪びれもなくそんな満面の笑みを向けないでください。もう。補佐役が怒鳴り散らしている姿が目に見えますよ」
「休憩を取ってなにが悪いんだ?」
「ならもう休憩は終わりです。執務室にお戻りを」
「ならお茶を淹れてくれないか?」
見送ろうと席を立った矢先にそう言われてしまった圭。目を離さないつもりかと辟易する。
「またそんな顔をして。私はひどく傷ついた。明日の休憩時には圭の手作りお菓子がないとこの傷は癒されない」
「丹精したとまとを持っていきます」
「私がとまとが苦手なのを知っているくせに」
「みにとまと一つくらいは平気でしょう?」
「小指の第一関節くらいの大きさなら大丈夫だ」
「わかりました。持っていきます」
「よろしい。では行こうか」
一旦言葉を切るや男性は圭の元へ向かってはその場に傅き、圭の掌に自身の掌を合わせるように甲斐甲斐しく触れて、仰ぎ見た。
「九尾の妖狐に選ばれし幸運な姫よ」
「……」
うっすらと無言で笑みを刷いた圭もまたその場で傅き、自身の掌で男性の掌を挟み込むように添えようと、はせずに、男性の手首を掴んで下ろさせた。
「人間国の次期王たる塁様」
「今はおまえの兄上。名前で呼んじゃだめだろ」
「ずっと塁様って呼んでたんですけどね」
「救世主たる九尾の妖狐様に祝福の言の葉を直接捧げられた時点で、王族と同等の義務と権利が発生したんだ。けれどおまえの両親は海の向こう。支える人間が必要だった。だから国王は実子と同等の子としておまえを迎え入れた。つまりは私の義理妹も同然。納得済みだろ」
「納得しようがしまいが国王の決定に逆らえるはずがないじゃないですか」
「そうか?おまえの両親と一緒にこの国を出てしまえばよかっただけの話だろ。別に追いはしなかったぞ」
「…今日の塁様は本当に変ですよ。言動がいちいちねちっこいです。いつもは爽やかじゃないですか。なにかご不満でもおありですか?」
ぱちくり。男性、塁はおもむろに瞬きした後、交じり合わせていた視線を一度躱してはすぐに戻し、苦笑を零した。
「おまえが他人行儀な言動を取るから悪い。と言いたいところだが。疲れてしまっていてな。つい苛めたくなった。悪かった」
「…明日は散歩にでも行きますか?」
「補佐役をどう説得するかな」
(これは行く気がないな)
圭は内心で嘆息をついた。
(主の体力はまだ余力はあるだろう、が。まだ連絡がないという事は、こちらに戻ってきていない。つまりはなにかあった、か。常より時間がかかると考えて、こちらも体力の温存を図った方がよいだろう)
(本音は胸がざわついて仕方がない為だが)
傅いた時に一度は叶ったが、圭もまた膝を曲げてしまったので、もう仰ぎ見る事はできなくなってしまった塁。いつもの如く、見下ろす体勢になってしまった事に不満を抱きながらも、流れるように立ち上がっては歩を進めて部屋の扉を開き、次いで、圭にも立って執務室まで一緒に行くように促した。そして、部屋を出て並んで石畳の廊下を進みながら、塁は口を開いた。
「圭。石英殿と雲母殿は息災か?」
「元気も元気。兄上が顔を見せなくなったと嘆いていますよ」
「そうか。それは悪い事をしている。調べものが多くて行く暇がないと謝っておいてくれ」
「わかりました」
「今日も帰るのか?」
「帰りますよ」
「おまえの家は城だろうに」
「ずっとあそこで暮らしてきたんです。石英と雲母も心配ですし。毎日通ってきているからいいでしょう?」
仰ぎ見られれば、言葉に詰まる。上目遣いはやはり恐ろしい体勢である。しかも斜めから窺うように見られればもう、白旗を上げるしかない。どれだけ可愛さを倍増させる気か。塁は意味なく持っていた眼鏡に何度も触れた。眼鏡のフレームがひんやりと冷たかった。
(くっ。私も圭を仰ぎ見る事が叶えば、こちらの意見も通しやすいだろうに)
「結界の傍に居を構えているだろう。もしも。と考えると、心配だ」
「結界の傍ではなく、さいかいの泉の傍ですよ。石英と雲母は水守ですから仕方がないじゃないですか」
さいかいの泉。
結界の傍にある巨大な湖の名称であり、中央にそびえ立つ一本の紅色の竹と深さが捉えきれないくらいに澄んだ水が特徴で、この湖の水が国中に行き渡っており、農業、生活用水、工業、すべての水を支えている。
水守はさいかいの泉や湖から派生している川や池、沼の管理を担っている。国民が進んで管理しているので湖を見守る以外に水守はあまり出番がないが、解決できない問題が発生した時に助言を仰がれている存在であった。
(くっ。寂しげに告げても効果なしか)
叶うのなら城の中で一緒に生活をしたかったのに。
塁がその願いを口にした事はまだなかった。
「圭も水守になりたかったか?」
「いえ」
「即答だな」
「ええ。なる人がいなかったら考えたでしょうが。幸い後継人はもう決まっていますし」
「後継人はまだ決めなくていいくらいに石英と雲母はまだ若いだろう。それなのに、おまえはじっちゃんばっちゃんと呼んでいる」
「親はいるから代わりに祖父母の役割を担ってやる。だそうですよ」
「おまえの両親は船に乗ってよく家を空ける事が多いからな。寂しかったか?」
「いえ。両親の嬉しそうな顔を見るのは、私も嬉しかったですから。石英も雲母もいますし」
「私もいるしな」
「…ええ、そうですね」
「そこも即答しないか」
「ええ。寂しくなかったですよ。兄上には勉強に付き合わされましたし。九尾の妖狐に出会う前だったので、必要なかったはずなんですけどね」
「私だけが勉強漬けなんて不公平ではないか」
「補佐役の二人も一緒に勉強していたじゃないですか」
「あいつらは嬉々として励んでいただろう。嫌がるやつも道ずれにしなければ私は耐えられなかった」
「見つからなければよかったですよ」
「おまえの両親が城で勤めている以上、出会いは必然だったさ。恐らく、九尾の妖狐様とも、な」
塁は横目で圭を見た。探っている事など感じさせないように、とても軽く。そして自然に前へと視線を戻す。圭に変化はない、ように見える。
「おまえはなぜか知らないが気に入られたと言っていたが、私は違うと睨んでいる。おまえが引き寄せたとな」
圭は肩を上げて下ろした。
「そうだと仮定しましょう。なら理由はどう考えますか?」
(ほお。流されるかと思ったが、付き合ってくれるのか)
「烏天狗国と妖精国に行く為。この二か国だけは結界を通らない限り行けないからな」
「行く暇なんてないじゃないですか」
「そうだな。ほとんど城か家を行き来しているくらいだな。不自然なほどに」
「やんちゃな時期が過ぎただけですし、家から城までどれくらいの距離があると思っているんですか?歩いて二時間はかかりますからね。それに色々寄り道もしていますし」
「だから馬で送ると言っている」
「いえ。徒歩は健康の秘訣ですから結構です」
「おまえはつれないな」
そうですか。顔を向けては素っ気なく告げて、前へと顔を戻し、ところでと言葉を紡ぐ。
「いつまで足踏みを続けていればいいのでしょうか?お出迎えのお二方の睨みが怖いのですが」
ふっ。塁は爽やかな一笑を零した。
少し前にはもう執務室には辿り着いていたが、扉を開きもしないどころか、三歩離れたところでずっと足踏みをしていた塁。付き合ってくれた圭に感謝しながらも、笑って生み出された風に乗って、泣いている補佐役も怒っている補佐役もどっかに行ってくれないかなと思った。切に。未来永劫とは言わない。二、三日くらいで構わない。
「おまえの部屋に戻ろうか?」
「却下です」
無情な。一言恨まし気に告げては補佐役二人に謝る塁を見ながら、圭は一言だけ正解だと告げた。無論、心中だけで。
いい暇つぶしだ。よかろう。おまえに預けるが。さあ見ものだな。
そう言って笑った顔が今でも忘れられない。
嘲笑っているように見えて。怒っているようにも見えて。泣いているようにも見えたから。
(2019.6.26)




