第3話 我慢、それは人を蝕む毒
田所正則 検索。
昨日部屋でまた見た名前。田所正則。
「100年に1人の天才と呼ばれた心理学者。田所は今どこに」
「田所正則 執筆 ベストセラー 心の法則」
声に出して読んでしまった。講義中なのに。
「何一人でぶつぶつ言っとるん?」
隣の博貴に突っ込まれる。
「あーこの人、今どこにいるのかなーって」
そーいえば、ニュースとかで話題になってたのを思い出した。数々の賞を取って、数々の事件を解決したりしていた。なのにいつのまにかふっと消えた。
待て待て待て。
なんであそこに田所さんの賞状があったんだ?
もしかして先生が…
きっとそうだ。先生は、天才心理学者で大学の講師と偽って生活しているんだ。あんな有名な人と知り合いなんて俺はすごい。
でも、一つ腑に落ちない。
みかみさくらってなんなんだ?先生の本名が田所なら田所さくらってオチが普通だ。
それに、なんで名前を隠してるんだろ。
分からない。そう思うと、ひどく不安が募ってくる。いや、そんなことはない。
先生やさくらちゃんが、悪い意味で、というか俺を嫌って何かを隠しているとは思えない。いや、思いたい。
「はよ、次の教室いくで」
「あ、待てよ、博貴」
何かを考えている時って周りが本当に見えない。まるで、世界から断絶された異空間にいるような気分になってしまう。こうなることが俺にはよくある。授業の中身も入らなくなって、声が耳を避けていく。小さな音だけがうずまき管を通過する。こんなんだから、人の話を聞いてないとか耳が遠いとか言われてしまう。
俺は、博貴を追いかけた。
「ゆうまおにいちゃん、ちゃっくあいてるー」
これは恥ずかしい。しかも声が大きい。視線がつららのごとく、自分に刺さる。スーパーで言わなくてもね。俺は小走りで人のいないところに移動し、急いでチャックを閉めた。
戻ると先生は、つぼに入っていた。
「まさか、こんなに早く効果が出るとは」
「なんのことです?」
「いや、昨日さくらに、ズボンのチャックを閉めるように教えたのですよ。他にも、身だしなみについて一通り。」
先生の笑顔を見ると、やはり何か隠しているようには見えない。でも、気になる。なんで他の人の賞状なんて持っているんだ。
「かにかま、たべたい!」
さくらちゃんは先生ではなく、俺に差し出してきた。かにかまは、天井の蛍光灯の光を反射して眩しかった。赤い筋の集合体は、口に味を再現させた。ひどく食べたくなった。そして、食べたいとまっすぐな目で見つめるさくらちゃんも眩しすぎた。この年になっても人の話を聞けず、授業にも集中できないような俺には眩しすぎる景色だった。
「あ、うん、食べなよ、ね、先生?」
闇属性は光属性に完敗した。
「きっと、日野君に買ってほしいのですよー」
つい受け取ってしまった。さくらちゃんはもう喜んでいる。意外と高くて苦笑いした。
今日の料理はオムライスだった。オムライスは先生の得意料理らしかった。先生はオムライスだけには自信があると言っていた。確かに、できはすごかった。表面はあのスーパーでのかにかまのごとく光っているし、卵は崩れない程度に柔らかく、食べやすい。仲のケチャップライスも素晴らしかった。ケチャップの量が適切なのか、薄いことも濃いこともなかった。ライスが水っぽくないことが一番尊敬できた。なぜなら以前俺が作った時には、赤みがたりないかなとか思ってケチャップを入れすぎた挙句、水っぽいもの、ケチャップ漬けご飯(命名日野優馬)が完成してしまったからだ。
「おいしいです。」
でもだからと言って、テレビで食レポする芸能人のように喜ぶ才能が俺にはなかった。
「できは普通と言ったところですか」
なんて先生は言ってしまう。もっと大きな声を出して飛び跳ねながら、おいしいです、なんて言いたいけどそんなことはできない。天才心理学者なら、読み取ってくださいよ、と思う。
『天才心理学者』
俺は無意識に、ネットの記事と同じように先生を、心の中で呼んでいた。結局今日も先生に訊けそうにない。考えながら食べるご飯って味が薄い。ここで、KYな人間の魂が俺に憑依して、
「先生の部屋にある賞状って誰のですか?みかみさくらって誰ですか?」
なんて聞いてほしいけど、やっぱり結果が怖い。
「日野君、その…我慢しなくたっていいのですよ。」
………
…………………………………。
先生の顔は、泣きそうだけど、包み込むような優しさに溢れた表情だった。全てを受け入れたような、覚悟の顔だった。
「先生、俺、やっぱり気になります。」
もう訊こう。訊くことですべてが変わる!
「先生って…何者なんですか。」
表現に困って、答え辛い質問になってしまった。先生の顔は驚きでいっぱいだった。顔文字で表したようなそんな顔だった。いや、待て、どうしてそんなに驚く?先生は予億していたんじゃ…。
「えっと、オムライスの味についての本当の感想が欲しかったのですよ。なんだか、こわばった表情で食べているので…」
俺は、むせた。体もだが、精神的にむせて咳が止まらなかった。さくらちゃんは「大丈夫?」と言ってくれたが、大丈夫ではなかった。いつもなら笑う先生も複雑な表情をしている。
俺は、とりあえず感想を言おうと思った。もう何も怖くない。
「味は薄くも濃くもなくてすごく食べやすいし、卵も柔らかくて本当においしいです。俺が食べた中で恐らく、一番…」
先生は涙を流した。
「トイレに行ってきます。」
「ありがとう」
この言葉は今は我慢させてください。その代わり、涙は我慢できません。
私は、料理が苦手でした。いや、してきませんでした。いや、する必要がありませんでした。大学で、結果を出してからというもの、食事には困りませんでした。というより、周りが勝手に提供してくれました。多くの会食、多くの食料をもらい、研究場所には料理人がいました。たかが、大学生にそこまで尽くす意味はよく分かりませんでしたが、私は幸福者でした。
あの日までは…ね。
私はさくらのために料理を学びました。最初はこんなにも難しいのかと驚きました。
今や、日野君のナンバーワンですか。
よく頑張った。
日野君は私の正体を知りたいと言っていました。
教えます。日野君には。