第1話 悲しみ、それは原点
「お願いします。教えてください。勉強もしたいんです。心理学の。」
正直恥ずかしかった。いきなり話しかけて、図々しくお願いをしている自分が。
「心理学に興味があるのは嬉しいことです。しかし、その………落ち込んでいる時どうしたらいいのか、という質問には答えられません。そんな明確な答えがあるなら私だって知りたいですよ。」
「そう…ですよね。」
そりゃそうだ。心理学の教授とは言え、その魔法のようなことを知るはずもない。分かっていたけど。
「大丈夫ですか?私で良ければ話を聞きますけど」
「えっと、その…」
話すべきかどうか、分からない。だいたい失敗を引きずっていること自体、本当に情けないと思う。さらに知り合ったばかりの人に話を聞いてもらうなんて図々しいにもほどがある。
「とりあえず、私の家に来たらどうです?頼みたいこともありますし。」
少し考えた。
「すいません。ありがとうございます。」
頼みたいことが何なのか気になったがそれについては触れなかった。とりあえず、先生の役に立てることは嬉しい。それに先生とゆっくり話をしてみたかった。だから俺はお邪魔することにした。
歩いて3分ほどで先生の家に着いた。住宅街の中にある少し大きめの家。さすがは教授だ。
「申し訳ないですが、用事があるので、少し待っていてもらえませんか。」
生返事をすると、速水先生は行ってしまった。疲れたのでリビングで横になった。人の家で横になることが失礼かどうかは分からない。だが、疲労がその疑問に問答無用の烙印を押した。
少し寝てしまったようだ。辺りを見回すと隣の部屋が見えた。表彰状に本や写真が並んでいる。写真はなんだか見たことがあるような気がした。先生は眼鏡を付けているし、髪が黒い。やっぱり先生はすごい人だった。たしかに先生の講義は、面白い。俺が知る中で一番。
「あれ、この表彰状の名前、田所?」
思わす声を出してしまった。田所正則って誰だろう。でもこの名前、既視感がすごい。思い出せ、思い出せ。
「ただいまー!!」
小さい女の子の声が家と鼓膜に鳴り響いた。驚いて急いで部屋を出る。
「わ!どろぼう!」
「ち、違うよ!」
「あ、言い忘れていました。さくら、この人は泥棒じゃありません。」
「え、じゃだれ?」
「自己紹介お願いします。」
「日野優馬です、よろしく」
先生は後ろで笑っていた。
「ご飯早く―!」
さくらちゃんが元気に声を出す。俺には目もくれなかった。
「ではご飯にしましょう。日野君も一緒にどうですか。」
「いいんですか?」
「ええ。話も聞けますしね。」
先生はひどく優しい。怖いくらいだ。先生は若々しく、顔も声もすごくかっこいい。こんな人になれたらな、と思う。きっと悩みなんてないのだろう。
「今日はハンバーグですよー」
「ええ、このまえたべたばっかりじゃん!」
「はい、ごめんんさい。」
「うん、いいよ」
先生のハンバーグはとてもおいしかった。
「では、なにがあったのか話してもらいましょうか。」
「おとうさん!おかわり!」
「あーはいはい、なんだかごめんなさいね。日野君。」
「いえいえ」
話したい気持ちもあるけれど、なんだかさくらちゃんを見ていると、色々忘れてしまう。心が軽くなるというより、自然と笑顔になってしまう感じ。
食べ終わり、片付けをしていると、さくらちゃんがズボンをかわいらしい強さで引っ張った。
「ゆうまおにいちゃん、あそぼう!」
ゆうまおにいちゃんかー、名前を覚えてくれたことがひどく嬉しくてにやけてしまう。
「うん、分かった」
それから1時間、さくらちゃんとままごとをした。というか気が付いたら、1時間経っていた。自分でも驚いた。ままごとをするのはいつぶりだろうか。さくらちゃんの言うことに従うだけで笑顔が見れた。それがたまらなかった。
「さくら、お風呂の時間ですよ」
「はああい」
随分お風呂に行きたくなさそうだった。
「包丁に、フォークにスプーン、はし、にんじん、ピーマン、全部ある。」
偉い。しっかりしていると思った。
「前に、おもちゃを無くしたことがあるのです。それからは毎回確認していますね。では、お風呂に入ってきます。」
「分かりました。」
先生たちがお風呂から出た後、俺も入った。三人でテレビを見た後、さくらちゃんは眠ってしまった。
「では、ゆっくり日野君のお話でも聞きましょうか。」
「やめてください。そんなに改められたら話ずらいですよ。」
「そうですか。無理に話さなくたっていいのですよ」
先生は笑いながらそう言った。俺も笑ってしまった。
「話しますよ。僕は、今サッカー部に所属しているのですけど、昨日試合があったんです。僕は1年生ながら試合に出ました。」
「それはすごいじゃないですか」
「まあ、少しの時間ですけど。安定してレギュラーになるためにも、短い時間で結果を残そうと思っていました。」
「なんだか先が読めるような気もしますが」
「はい。1失点で迎えた後半。僕の出番が回ってきました。そしてサイドの選手が僕に決定的なパスを出してくれました。あとは決めるだけってシーンで僕はまごつき、キーパーにボールを取られてしまいました。決めていれば同点でした。それからボールを触る機会はなく、その日を終えました。」
「なるほど、分かりました。私もスポーツをしていたので、その気持ちは分かります。落ち込むのも無理はありません。」
「ですよね。昨日はそのあと、一人で練習しました。眠れなくて、心理学の本をずっと読んでました。」
「それは大変でしたね。ちなみに何という本ですか?」
「心の法則という本です。」
「え、あ、あの本ですか!」
「あ、はい、そうです。作者は確か、すごく有名な………」
「ゴホン!それで、今も悲しいですか?」
「あ、えっと、意外と楽になったと思います。」
「それは良かったです。なぜだか分かりますか。」
「いや、それは分かりません。」
「まず、あなたは、私になにがあったのか話しました。話を聞いてもらうと、結構楽になると思います。」
「確かに、そうですね。」
「はい。自分には理解者がいると再確認できるからだと思います。昨日なんかは孤独感を感じませんでしたか?」
「あの、苦しくやるせない気持ちは、孤独感だったのかもしれません。」
「他にも理由はあります。今日、私はお風呂に入る時間を遅めにしました。なぜだか分かりますか?」
「えっと………。もしかして、さくらちゃんと遊ばせるためですか?」
「その通りです。これは個人差がありますが、小さい子供と触れ合うことはストレス解消効果があります。」
「と、とても楽しくてびっくりしました。」
「それはよかったですよ。あと、最後に一つ、言っておくべきことがあります。悲しさとは非常に大切な感情だと思います。」
図星を突かれた気がした。俺は落ち込むことがよくないことだと躍起になっていた。
「さくらがきちんと確認をしてから片付けるのには理由があると言いましたよね?」
「はい。無くしたことへのショックが原因ですよね。」
「物分かりがいいですね。そういうことです。悲しさを避けようとして、成長することもあるのです。」
「先生、ありがとうございます。すごく勉強になりました。でも最初、先生は明確な答えはないって言っていましたよね?」
「はい、その言葉に嘘はありません。ただ、仮説と経験をもとに、努力したまでです。それから、今日はもう遅いですし、泊っていくといいでしょう。ベッドも余っています。」
「なにからなにまで、本当すいません。」
今日はよく眠れそうだと感じた。先生には感謝の気持ちしかない。今度お菓子でも買ってまた来よう。しかし、先生の知識には驚いた。ただものではないオーラも感じる。少し気になったのは本の話をした時の先生の態度だ。あの本となにか関りがあるのだろうか………。
ひどく眠くなってきた。部屋を移動しようとすると、さくらちゃんの荷物があった。少し散らかっていたので、軽く整理した。その中に薄汚れた名札があって、そこにはみかみさくらと書かれていた。ベッドへ行き、俺は眠りについた。
パソコンのメールフォルダには、10の文字が書かれていた。相変わらず、生徒からの質問は殺到する。もちろん嬉しいことだが、その質問達にうまく答えられるかが不安である。
自然と足がショーケースの前へ進んだ。過去の栄光にすがるわけではない。ただ、自分を励ましているだけである。
がさがさと音がした。日野君か。彼は最初に会った時とはまるで別人のように元気ですね。いや元気になったというより、「成長した」という表現の方が適切でしょうか。彼なら悲しみを克服出来るかもしれませんね。私とは違って……。
ショーケースに指紋が付いている。朝、拭いたはずなのですが。もしかしたら、日野君は見てしまったのかもしれません。まあ、いいでしょう。
心の法則………
私はびりびりに破れた本を整え、その本を閉じた。