とりのすけ
結論から言うと、チビ助に頼る作戦は思わぬ成果を上げそうだった。
言い出しっぺのアイヴィーがチビ助に憑依してみると、薄い豆腐のようなにおいとゴムのにおいが混じったものが嗅ぎ取れたらしい。
「お店は水場だったからな。このあたりも水浸しになることが多かったし、微かに豆腐の成分も混じっていたのかもしれない」
とりのすけは納得したように頷いた。
「ということは……追跡が、できる?」
チビ助に問いかけてみる。チビ助は従順そうな瞳をこちらに向けるだけで、うんともすんとも言わない。
気付いたら、アイヴィーが出てきていた。
「可能性はある、ってぐらいかも。あんまり強いにおいじゃない上に、遠ざかるほど薄れていくと思うし」
「でも、試す価値はあるわね。近付けるだけでも大きいわ」
私とアイヴィーだけなら、徒歩でチビ助に追わせるしかなかっただろうし、それでは日が暮れてしまう。だけど幸い、一羽ちゃんがいる。時間をロスするにせよ、致命的にはならないはずだ。
「一羽ちゃん、申し訳ないんだけど……」
両手を顔の前で合わせてお願いしようとすると、彼女は嫌な顔一つせず頷いてくれた。
「いえ。それが最善策でしょうし、問題ありませんよ」
一羽ちゃんは本当に察しが良い。つくづく出来た子だと思う。
私の願いを聞き届け、今度は一羽ちゃんがチビ助に憑依した。
「五七、どういうこと?」
「私たちがチビ助を追っかけるんじゃ、日が暮れるでしょ? それに疲れるし、追跡が失敗に終わったら無駄骨じゃない。だからチビ助だけを先に行かせて、行き当たったところで一羽ちゃんに迎えに来てもらうってワケ」
「おお〜! それはグッドアイデア!」
「あんたがもう少し使えたら、一羽ちゃんばっかりに苦労かけなくて済むのにね」
「うぅ。そんなこと言わなくても……」
私たちがそんな無駄話をしている間に、チビ助は意を決したように駆け出した。時折においを確かめながらではあるけど、それでも私の歩行速度よりは断然早い。
「さて、しばらくは待ち時間ね」
豆腐屋の玄関先で腰を下ろし、私は小さく息をついた。
「あ、そうだ。あんた適当に情報収集してきてよ。取り憑くなり聞き込みするなりさ」
「ひ、一人で?」
「私がついてったってしょうがないでしょ。むしろ怪しまれるかもしれないし。ほら、行った行った」
「ふぇぇん」
思い付いたようにアイヴィーをせっついて、情報収集に行かせた。普段ならもっと渋っただろうけど、一羽ちゃんに頼っているのもあってか、今回は素直に従った。足取りは重そうだけど。
「貧乏娘は人使いが荒いね」
とりのすけが、とぼとぼと歩くアイヴィーの背を目で追いながら言った。
「使えるものは使わないと。労力の損でしょ?」
「……貧乏娘が貧乏たる理由、わかった気がするよ」
「ちょっと、それどういう意味よ」
この猫、いちいち分かったふうに言うのがムカつく。言い返してやりたいけど、口喧嘩で勝った試しのない私が上に立てる自信もないから、諦めるしかない。
小さくため息を漏らして、私は話題を切り替えた。
「あんたの話、聞かせてよ。さっき話すって言ったわよね?」
膝を抱えて座る私の視線の先で、とりのすけは小さく項垂れた。やがて諦めたようにこっちを向いて、彼はのそのそと私に近付く。
そして、
「うわっ!」
わざわざ私を驚かせるような動きで玄関先の塀の上に跳び、ちょこんと座った。自分の話をすることへの照れ隠し、ということにしておこう。
塀の上に陣取ったとりのすけは、視線を遠くに向けたまま口を開いた。
「アイリッシュとは、もともと恋仲だった。互いに野良猫だった間はね。でもある日、彼女は忽然と姿を消してしまった。さながら今回の失踪のようにね。その当時は、どれだけ探しても手がかりすら見つけられなかったよ」
恋人というのは事実だったようで、悪質なストーカーというわけではなさそう。ただの早合点で良かった。
「途方に暮れ、諦め、彼女のことを忘れかけていた頃のこと。風の噂で、人間の店で看板娘になった猫がアイリッシュに似ているという話を耳にした。そうして仲間のつてを頼りにたどり着いたこの豆腐屋で、彼女を見付けた。元の縄張りから随分距離が離れているからね、僕は心底驚いたよ。そして、改めて確信した。やっぱり僕には、彼女しかいないと。だけど彼女は、僕のことを忘れているようだった」
「それって、人違いというか猫違いじゃないの?」
私が問いかけると、彼は首を少しだけ動かして視線をこちらに向けた。
「いいや、人間の感覚ではわからない話だから説明は省くけど、絶対に間違いではないよ。ただ、間違いかと思うほど気性は変わっていたけどね。どこで拾われたのか、飼い猫になっている時点で驚きだった。アイリッシュは僕以上に、人間のことが嫌いだったというのに」
そうしてまた、彼は視線を虚空へと投げる。
「僕達にとって人間は恐ろしくて、醜い生き物だった。僕の親やアイリッシュの兄なんかも人間絡みで命を落としていたから、嫌悪感を通り越して憎悪にも近い感情を抱いていた。そんな思いを共有していたはずの彼女が、飼い猫になるとは夢にも思わなかったよ」
「それでがっかりしなかったの?」
「愚問だ。アイリッシュへの愛は、その程度で塗り替えられやしない。それに、あれだけ人間を嫌っていた彼女が飼い猫にまでなったのには理由があるはずだと、確信していたからね」
思いのほか事情は複雑なようで、口を挟むのも躊躇われる。
「僕は彼女に、理由を尋ねた。なぜ人間と一緒にいるのかと。しかし何度尋ねようと、汚い野良猫に話すことはない、の一点張りで埒があかない。それ以上は口を開いてくれなかったから、僕はまず人間への理解を深めるところから始めた。アイリッシュが人間と一緒にいる理由に繋がるヒントが、何か得られるはずだと信じて」
私に対するとりのすけの言動がどこか挑発的だった理由が、なんとなくわかった気がした。人間に慣れはしたけど、まだ完全な信頼を置いていない、とか。
「この近くに縄張りを移して、毎日ここに通って、アイリッシュに問いかけてはあしらわれ、店の夫婦や客の話に耳を傾ける。それを延々と繰り返すうちに人間への理解も深まり、いつしか人間に名前まで与えられていた。プライドのようなものと一緒に、人間への嫌悪感もいつしか殆どなくなっていたよ。それでも彼女が僕を頑なに拒む理由はわからなかった」
「飼い猫じゃないから……ではなくて?」
とりのすけは首を振る。
「そう思って一度は飼われたこともある。だけどダメだった」
彼は寂しげに背中を丸める。
「結局、いまのいままでわからず終い。最近になって一つだけ気付いたことは……」
とりのすけと視線がぶつかる。宝石のように澄んだ瞳は、哀しい色を孕んでいた。
「ああ、そうか。君にはわかるんだね」
こういう時にも、とりのすけは察しがいい。
「なんとなくだけど……ね。仕事柄なのか、生まれつきなのかは分からないけど」
「そうかい。どちらにせよ、少しだけ親近感が湧いたよ」
「え? 親近感って?」
「なんでもない」
誤魔化すように、とりのすけは塀から飛び降りて四つん這いで伸びをした。
「さて、僕の話は十分だろう。あの死神さんの様子でも見に行ってくるよ」
「それは助かるわ。もし下手なことでもしてたら、連れ戻して来てくれる?」
「まったく。人使いだけでなく猫使いも荒いとは。ま、過度な期待はしないでくれ」
「うん。それじゃ、ここで待ってるから」
彼は振り返りもせず、尻尾で返事をして歩いていった。
空を仰ぐとだいたい昼時かな、という感じがする。幸か不幸かお腹は空いていなくて、空腹よりも春風に混じる冷たい空気が気になった。
「まだ衣替えには早いか」
少しでも風を避けようと塀に近付き、私は薄手の上着をきゅっと身に寄せた。