豆腐屋前
あたりの風景は、なんとなく見た事のあるものだった。小規模な田園風景と堤防が視界のほとんどを占め、残りの幾らかが家屋だ。
確かここらは、シャーロット邸があった街の隣町ぐらいだろうか。隣とはいえ、歩けば三時間はかかるだろう。この猫はよくもまあ、運良くシャーロットに出会ったものだ。
「で、豆腐屋ってのは?」
「後ろだよ」
猫の呆れた声が下から聞こえてきて、私は振り向いた。
目の前には閉ざされたシャッター。一軒家のガレージのようで、豆腐屋には見えなかった。閉店を報せる張り紙の類も見当たらない。
「本当にここなの?」
「僕がそうと言うんだ」
そう言われては納得せざるを得ない。ひとまずシャッター横の玄関を確認して、インターホンを押す。
応答がない。
「……ここの人って、何人で暮らしてたかわかる?」
「お爺さんとお婆さんが切り盛りする姿しか記憶に無いね」
「じゃあ二人暮らしか」
外出というよりは、耳が遠いせいで聞こえなかったのかもしれないと、もう一度インターホンを鳴らす。
……やっぱり応答はなかった。
「ねえアイヴィー、ちょっと中の様子見てきてよ」
「えぇ……不法侵入になっちゃうよ」
「霊体のあんたに法律も何もないでしょうが。ほら、さっさと行く」
こんなことで一羽ちゃんにお世話になるわけにはいかない。気分だけでも貸しは作りたくないし、下っ端の仕事はできるだけアイヴィーにさせないと。
そうして渋々ドアをすり抜けていったアイヴィーは、二、三分程で戻ってきた。
「誰もいなかったよ。もちろん猫さんも」
「生活感は?」
「どの部屋も綺麗に片付いてて、旅行でしばらく家を空けるような感じだった」
その一言にはっとして、猫の方を振り返る。
「そうだ、旅行! 店じまいじゃなくて、旅行に行っただけじゃないの?」
しかし彼は、やれやれといった具合で首を振った。
「それは無い。二人はかなり高齢で、体力もなくなってきたと言っていたからね。店を続けるので精一杯だっただろう。それに、毎日通っていたけどそんな話は微塵も聞かなかった。夫婦からも、アイリッシュからもね」
そこまで言われては納得するしかない。
しかし妙だ。突然店じまいをしたというのに、部屋が綺麗だというのは。
「あら、お使いかい?」
その時、背後から誰かが声をかけてきた。振り返ってみると、手押し車をお供に連れた優しそうなお婆さんがいた。
「え、ええ。そうなんです。母に頼まれて来たんですけど、閉まってるみたいで……」
「おお、偉い子だ。だけどこのお店の主人、何日か前に倒れちゃったらしくてねぇ。次の日には帰ってきてたみたいだから、大事ではなかったみたいだけど」
「それはお気の毒に……いつ頃お店を再開されるんでしょうね」
幸運だった。事情を知っていそうな人から声をかけてくれるなんて。
私は不審に思われないよう、自然な会話を心がけつつ老夫婦の所在へと話を誘導しようと試みる。
「残念だけど、もうお店は開かないそうだよ」
「えっ……どうしてですか?」
「倒れた一件で、息子夫婦がえらく心配したらしくてね。そっちで一緒に暮らすみたいなんだよ。いつも贔屓にしてもらってたからって、昨日お店の主人がわざわざ挨拶に来てくださってねえ。寂しくなっちゃったけど、あの二人が親孝行な子に恵まれて良かったよ。あ、どうでもいいことまで話しちゃってごめんねえ」
「いえいえ、それを聞いて私も安心しました。お豆腐が買えなくなってしまったのは残念ですが」
所在までは聞けそうにないけど、かなり有力な情報を手にすることができた。
「そういえば、看板猫のことはご存知ですか?」
「ん? ああ、あの綺麗な猫ちゃんのことかい。アイリッシュだったかねえ。洒落た名前の、気位の高い子だったよ」
「その子も、お店の方と一緒に出ていったんでしょうか?」
「たぶんそうじゃないかねえ。置いていくようなことも、誰かに引き渡すのも考えにくいから」
それもそうか。何にせよ、息子夫婦の行方を追えば道は開けそうだ。できたらそこまで聞き出したいけど、これ以上は怪しまれる気がする。
「あら、とりのすけじゃないかい」
「へ?」
ふと何かに気付いた様子のお婆さんは視線を下に向け、少し身を屈めた。
「お前さんも懲りないねぇ。何度あしらわれたら気が済むんだい」
お婆さんが語りかけているのは、紛れもなく猫だ。とりのすけというのは、この猫の名前という理解でいいのだろうか。
「残念だけど、あの子はもういないよ。今の話、聞いてたんだろう?」
「にゃあん」
猫ーーとりのすけは当然喋ることなく、いかにも猫らしい声を上げてそっぽを向く。
「とりのすけったら、まだ諦めないのかい」
お婆さんは何故だか、とりのすけの気持ちを察したようだった。お店を贔屓にしていたというから、互いに馴染みがあってなんとなくわかるのだろう。
お婆さんは少し愉しそうに笑って、よいしょと腰を持ち上げた。
「ふう。とりのすけに会うなんて、気まぐれでこっちの方を散歩してみるもんだねえ」
「お婆さん、この猫と親しいんですね」
「そうさね。お店に来るとよく見かけたもんだから、話しかけてたよ。人懐っこいとは言わないけど、とりのすけはよく話を聞いてくれる子だったから。アイリッシュはちょっと近付くだけで距離を置かれたから、それと比べるとね」
そんな話を聞くと、看板猫はとりのすけの方だったんじゃないかと思える。実際に話すといけ好かないところはあるけど、確かに話を聞く忍耐力はありそうだ。
「長話をしてしまったねえ。わたしもそろそろ帰らなくちゃあ。それじゃお嬢ちゃん、またね」
「色々聞かせていただいて、ありがとうございました」
手押し車に手をかけ、お婆さんはゆっくりと歩き去っていく。
私はその姿を見届け、話声が聞こえないぐらい遠ざかったところで身を屈めた。
「あんた、とりのすけっていうんだ」
「ああ。勝手に人間がつけた名前だよ」
「なんで猫なのに鳥なの?」
「僕の知ったことじゃない。それより、アイリッシュを追いかけたいんだが」
「ああ、そうね……あれ? そういえばお婆さん、あんたがアイリッシュにあしらわれてたとか言ってなかった? 恋人じゃないの?」
私の疑問に、とりのすけは押し黙った。とりのすけという名前を頭の中で呼ぶ度に、おかしくて笑いそうになってしまう。さっきから堪えるので必死だ。
いや、そんなことより二匹の関係だ。とりのすけ本人は恋人と言っていたけど、お婆さんの話とは噛み合わない。もし、恋人というのがとりのすけの妄想だとしたら……
「わかった。話すよ。だけどアイリッシュの元へ向かう道中で、だ。時間がないと言っただろう?」
「わかった、わかった」
とは言ったものの、足取りは結局掴めていないんだった。息子夫婦が連れていったという情報だけ。
「一羽ちゃん、息子夫婦の行方って追えたりしない?」
「いまの情報だけでは無理ですね」
「あー、やっぱり無理かぁ」
こうなると聞き込みしかない。怪しまれる覚悟でさっき聞いておけばよかった。
「ねえ、五七」
「あん?」
「あ、あのさ、チビ助に頼ってみるのはどうかな?」
「チビ助……か」
唐突に意見したアイヴィーの案は、警察犬まがいのことをさせようということだろう。
どうせ上手くいかないとは思うけど、面倒な聞き込みを始める前に試してみてもいいかもしれない。奇跡でも起きれば、聞き込みをしなくても済むし。
「よし。一羽ちゃん、悪いんだけどチビ助を連れてきてくれる?」
「はい。もちろんです」
返事を終えて間もなく、一羽ちゃんはチビ助を連れて立っていた。
「ワン!」
どこか嬉しそうに吠えたチビ助を見て、とりのすけが飛び退く。
「案外可愛いところもあるのね」
「勘違いしないでくれ。騒々しいのが嫌いなだけだよ」
「あらそう」
猫は耳が良いと聞くし、本当に怖がったわけではないのかもしれない。でも今は、そんなことはいいんだ。
時間がないと言うとりのすけを何が追い立てているかはわからないけど、早くアイリッシュに近付かなければいけない。
何故か私の予感が、そう囁いていた。