9 信任選挙
少しずつ秋の気配が深まってきた九月の下旬、学院の生徒会三役信任選挙は粛々と行われた。
生徒は学年ごとに時間を区切って講堂に集められ、選挙管理委員会の指示の下、投票箱へと票を投じていく。投票は無記名の秘密選挙で、即日開票されて夕方前には結果が生徒会へと知らされる。
もちろんヨウも、一生徒として新三役候補に投票する。候補者の氏名の下に書かれた「信任」と「不信任」の文字。ヨウは「信任」に大きく丸をつけ、投票箱に用紙を入れた。
教室に戻ると、フィルがため息をつきながらやってきた。
「ふう、何だかスゲえ緊張したぜ。投票って、思ったより緊張するな」
「そうかな? 僕はみんな受かれーって思いながら投票したからちょっと興奮したけど」
「いや、人を認めるってのが何か慣れなくてよ。相手は先輩たちだし」
「ああ、それはあるかもね」
ヨウが笑うと、あちらからチアキが神経質そうな顔でやってきた。彼女には珍しく、妙にそわそわしている。
「ああ、大丈夫かしら……」
「珍しいな、お前が心配するなんて。いつもならオレらに向かって『副会長を信じられないっていうの!?』とか言いながらキレるのによ」
裏声でチアキのものまねをするフィルを、チアキはぎろりと睨みつけた。
「何を言ってるの? 副会長が信任されないわけないでしょう。私は副会長が信任率の最高記録を更新できるかどうかを心配してるのよ」
「なるほどね、さすがチアキ」
ヨウが思わず噴き出す。どうやら視点が違ったようだ。記録に残る過去の最高得票率は確か93%、これを超えるのは並大抵のことではないだろう。
何となく落ち着かない気分のまま、ヨウはその後の講義に臨んだ。
講義を終え、フィルやチアキと共に生徒会室に入ると、ここもいつになくそわそわとした雰囲気が漂っていた。
まだ人もまばらな生徒会室の一角で、副会長候補のイヨ・タチカワとその補佐、ハナエ・ミヤモトとミナミ・カワグチが何やら話しこんでいた。
少々ピリピリした空気を感じながらも、ヨウがイヨにあいさつする。
「こんにちは」
「あ、ヨウ君、こんにちは。みんなもこんにちは」
後輩の声に、イヨが少し表情をやわらげる。普段は落ち着いているのに、今日はどうしたのだろう。気になったので、ヨウは聞いてみた。
「先輩、何かあったんですか? 少し緊張されているみたいですが」
「ああ、ごめんね。いえ、投票の結果が気になっていただけよ」
「あ、そうだったんですか」
ヨウが納得してうなずくと、イヨの隣の二人が口を開く。
「イヨちゃんて、意外と心配性なのよね。そんなに気にしなくても、きっと大丈夫よ」
「そうそう、不信任になんてなるわけないじゃない。しっかりしてよ、副会長」
「私が心配してるのは得票率よ。もし八割を切っていたらどうしよう……」
フィルが能天気に質問した。
「え? 得票率って過半数超えてればいいんじゃないんすか?」
「それはそうなんだけど、八割を切るってことは、二割は反対ってことでしょう? そんな結果になったらと思うと、私怖くて怖くて……」
「もう、イヨってば、そんなことにはならないから。しゃきっとしてよ」
「そうだよ。別に八割を切ったからって命を取られるわけじゃないんだし」
「でも……」
イヨをなだめる二人を見て、選挙って大変なんだな、とヨウは思う。単に信任されるだけでは駄目なのだ。より多くの生徒に認めてもらえるよう、生徒会の役員は常に努力する必要があるのだ。
「はぁ~、ずいぶんとハイレベルな悩みだな、おい」
そんなぼやきと共に、会計候補のイッペイ・キノシタが部屋へと入ってきた。隣にはショウタ・ヨシダとその補佐の姿もある。
今の話が聞こえていたのか、こちらへやってくると肩をすくめながら言う。
「俺なんか、八割どころか生徒会の史上最低得票率を更新しないかどうかで気が気じゃないんだぜ? まあ、そこまでいかずとも、ワースト10、いや、せめてワースト5には入らないでほしいなあ……」
「大丈夫ですよ、イッペイ先輩はあのヒサシ先輩の下で会計の仕事をしていたわけですし」
「お、ヨウ、お前かわいいこと言うね。まったく、役なしのショウタが羨ましいよ」
「まあ、お前らを見てると、そのあたりは自分でもそう思うね」
イヨとイッペイの顔を見比べながら、ショウタが苦笑する。
そこに、ちょうど生徒会室に来たばかりのマサトとカツヤもやってきた。
「そうそう、役がないと余計な心労がなくていいよな」
「と言っても、お前も遊んでいられるわけじゃないけどな」
「わ、わかってますよ、先輩」
ホントか~、などと言いながら、カツヤがショウタの首に腕をかける。
実際、その年の生徒会の特徴は三役に就かなかった三年生役員がどんな仕事を担当するかで決まってくるなどと言われている。渉外担当なら外交に、生徒指導担当なら風紀の取り締まりに力を入れるといった具合だ。
その意味では、間もなく交代する第五十八期の生徒会は異色と言えた。何せ、無役の三年生が二人いるのだ。実際、五十八期生徒会は学院史上最強の布陣などと評されてきた。
そうなると次の五十九期のハードルが否応なしに上がるわけだが、これについて特に不安が囁かれるようなことはなかった。何と言っても、五十八期の中核メンバーであるノリコ・ミナヅキ副会長が満を持して会長に就任するのだ。むしろこれによって生徒会の権力はより盤石なものになるだろう、というのがもっぱらの見立てであった。
ひとしきり話し終えると、ヨウは自分の担当分の書類を取りに、書類が山積みされた机に向かった。
生徒会室がいつものように賑わい始めた頃になって、ノリコはアキホと共に部屋に入ってきた。
ノリコにしては珍しい。いつもはヨウたちより早く部屋にいることが多いのだが。今日は何かあったのだろうか。
そう思って彼女の顔を見たヨウが、ぎょっとして目を凝らす。ノリコはいつになく暗い顔で何事かをつぶやいていた。
その様子がいつもとあまりに違っていたので、ヨウは思わずノリコに駆け寄った。さすがにこのまま放ってはおけない。
「ノ、ノリコ、いったいどうしたの?」
「ヨ、ヨウちゃぁん……」
今にも泣きそうな顔でノリコがヨウを見上げてくる。本当にどうしたというのか。
「ど、どうしよう……」
「何かあったの? ノリコ」
「せ、せ、選挙が……」
やはり選挙をきにしているのか。ノリコほどの人物でもプレッシャーを感じるんだな、と思いながら、励ましの言葉をかける。
「大丈夫だよ、ノリコなら。落ちるわけないから」
ノリコがふるふると頭を横にふる。
「そうじゃないの。そうじゃなくて、あたし……」
「そうじゃなくて、何?」
「あたし、去年より信任票減ってたら、どうしよう……」
「へ……?」
ぽかんとするヨウに、アキホが困ったように笑う。
「さっきからこの調子で、私も困っちゃってるんだよ」
「そうでしたか……」
世の中、上には上がいるものだ。そもそもノリコは去年九割以上の信任票を獲得しているのだから、それを超えるのは並大抵のことではないだろう。ぜいたくな悩みとはこのことか。
ノリコがすがるようにヨウを見つめてくる。
「ヨウちゃん、どうしよう……」
「大丈夫だよ、きっと。ほら、とりあえず席に着こう?」
「うん……」
すっかり肩を落として、ノリコはヨウの後に続いた。今この場にチアキがいないのは幸いかもしれない。彼女がいたらまたややこしいことになっていただろう。
席に着くと、どこか上の空な様子ながら、それでも何とかノリコは仕事を始めた。しばらくすれば、選挙管理委員会から結果が知らされる。それまでは、ノリコも気持ちが落ち着かないかもしれなかった。
五時を過ぎた頃、選挙管理委員会から信任選挙の結果が伝えられた。
生徒会三役候補、全員信任。中でもノリコ・ミナヅキは、無効票を除いた信任票の得票率が実に98.8%に達し、それまでの記録を遥かに超える歴代最高得票率記録を樹立した。




