34 窮地
木陰から近づいてくる男は、周りに倒れている黒ずくめの人影とは異なり、ごく普通に街中で見かける若者のような身なりをしている。軽薄そうなその雰囲気とは裏腹に、その周囲からは隠しようもない精霊力の流れがにじみ出ていた。男が一歩近づいてくる度に、その圧力が強まる。
この男、一体何者なのだろう。男に注意を向けながら、チアキは思考を巡らせた。正規の精霊術士とも思えないが、我流で精霊術を研究したのだろうか。だが、それであれば精霊術士学院ないし士官学校へ進むのが普通であろう。
そもそも、なぜ合宿中の生徒会が狙われるのであろうか。いや、生徒会が狙われているのか、それとも特定の個人が狙われているのか。個人だとすれば、それは一体誰か。
「あれあれぇ~? ボクたち、どうしますぅ~? がんばって、オレとヤってみるぅ?」
チアキの思考は、男のふざけた台詞によって中断された。今は余計なことを考えている場合ではない。目の前の難敵をどうにかして退けなければ。
「ここは俺たちに任せろ! お前たちは下がれ!」
二年生のイッペイ・キノシタが叫ぶ。同じく二年のショウタ・ヨシダもイッペイと並んで男に向かい構えをとる。
「ははぁ? さてはキミたち、先輩かな? みずから盾になって後輩をかばうなんて、何て健気な先輩きゅんなんだ!」
二人を茶化すように身体をくねらせながら言うと、男は笑みを浮かべながら足を進めてくる。
と、不意に男が右腕を水平に払った。その手から、凶悪な風の刃が放たれる。
襲いかかる刃に、イッペイとショウタはそろって精霊力をみなぎらせる。二人の前に出現した炎と風の壁は、刃を弾き返すとそのまま消滅した。
「ほらボクたち、ちゃんと戦わないと大ケガしちゃうよ~?」
男が挑発的に言う。おどけた様子にはおおよそ似つかわしくない殺意のこもった攻撃に、二年生の額から冷たい汗が落ちる。
「ショウタ!」
「ああ!」
イッペイの声に答えると、ショウタの周囲を風が取り巻いていく。イッペイの腕にも炎がまとわりつき、その熱を増していく。
次の瞬間、二人の手から炎と風の槍が放たれる。『炎熱の投槍』と『疾風の投槍』だ。二つの槍は、真っ直ぐに男へと直進していく。
二人の槍は、チアキの『大地の投槍』よりも一段上の精霊力を感じさせた。対抗戦では意表を突く戦いぶりで見事イッペイを下したチアキであったが、もしも正面からの精霊力勝負になっていたならば、彼女には到底勝ち目がなかったであろう。
その強力な槍が、若い男へと迫る。今まさに男の身体を貫こうとした瞬間、しかし二本の槍は男の足元から突如現れた竜巻に飲みこまれ消滅してしまう。
驚きに硬直する二人に向かい、男が指を彼らへと向ける。すると槍を飲みこんだ竜巻は、その進路を二人の方向へと変え、周囲の大気を巻きこみながら彼らへと向かっていく。
我に返ったイッペイとショウタは再び精霊力の盾を目の前に出現させる。だが、竜巻は二人の盾をいとも簡単に打ち砕き、そのまま彼らの身体を紙くずのように空中へと弾き飛ばしていった。
「せ、先輩!」
轟音を立て、竜巻が大地を穿つ。鈍い音を立てて地面へと激突する二人に、チアキが悲鳴に近い叫び声を上げる。そんな彼女の姿に、男は実に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「う~ん、お嬢さん、いい声で鳴くねぇ。お兄さん、キミにはもっといろんな鳴き声を聞かせてほしいなぁ」
その笑顔に、チアキの背筋が恐怖で凍りつく。先輩たちを一蹴するほどの力の持ち主なのだ。自分たちの力では、この男には歯が立たない。だがしかし、ここで先輩たちを見捨てて逃げるわけには――。
「チアキさん、君はこの場から離れて!」
チアキの思考を遮ったのは、切羽詰まったカナメの声であった。我に返って振り向くと、やや顔を紅潮させながらチアキは彼に向かい叫ぶ。
「冗談を言わないで! あなたや先輩方を見捨てて私一人逃げるなんて、そんなことできるわけないでしょう!」
「そうじゃない! 君は会館に戻って先輩たちの助けを呼ぶんだ! 僕らじゃ二人がかりでも彼には勝てない!」
「で、でも!」
「時間は僕が稼ぐ! チアキさんは早く会館へ!」
平生見せることのない強い口調でカナメが言ったその時、会館の方から大きな音が聞こえてきた。さらには浜辺の方からも、何かが炸裂したかのような音が聞こえてくる。
「あ~、始まったなあ。今夜は花火大会ですぜ、ってね」
楽しくて仕方ないといった様子で、男がけらけらと笑い出す。そんな男を前に、チアキは苦渋の表情を浮かべながら決断した。カナメに鋭い視線を向けながら言う。
「わかったわ、すぐに助けを呼んでくる。だから、絶対に無事でいるのよ」
「もちろんだよ。僕だってまだ死にたくはないからね」
そう言ってカナメが笑う。そんな彼に笑みを返すと、チアキは男に背を向けて会館へと駆け出そうとする。
「おおっと、どこに行こうっていうんだい? お嬢さん」
男の声と共に、チアキの足元から風が吹き上がる。風はそのまま壁となり、彼女の行く手を阻んだ。
「チアキさん!」
「他人の心配をしてる場合じゃないぜ、少年?」
こちらを振り向くカナメに、嘲笑含みの男の声が浴びせられる。その声に、カナメは男と正対すると精霊グロウサラマンダーを召喚する。
「これでも、食らええええっ!」
絶叫と共に、精霊の口から炎の柱が放たれる。カナメの必殺技、『炎熱の放射撃』だ。灼熱の炎が一直線に、男へと伸びていく。
だがその炎は、男が放った竜巻に飲みこまれて進路を上空へと捻じ曲げられる。昨日の疲労も残っているのだろう。渾身の一撃をあっさりと防がれ、カナメが地面に片ひざをつく。
「さぁて、おいたをする子にはお仕置きをしないとねぇ……」
にやにやと笑みを浮かべながら、男が右の手のひらをこちらへと向ける。その手に、今までにないほどの精霊力が蓄えられていくのがわかる。
「カナメ!」
「チアキさん、来ちゃダメだ!」
駆け寄るチアキをカナメが制止する。もっとも、風の壁で逃げ道をふさがれたこの状況ではとりうる手段も限られている。
そんな二人に、男は実に楽しげな笑い声を上げた。
「あっははは! 大丈夫だって、心配しなくても二人ともまとめて楽園に送ってあげるからさ!」
無慈悲にそう言うと、カナメのもとに駆け寄り肩に手をかけるチアキに向かい、男はその手の力を放つ。それは荒ぶる暴風となり、二人を切り刻まんと襲いかかる。
チアキは己のうちにある精霊力の全てを注ぎ、目の前に鉱物の壁を作り出す。だが、それが迫りくる嵐の前には薄板ほどの役にも立たないことを、彼女ははっきりと理解していた。死が目の前に迫るのを感じ、チアキの思考が混濁する。駄目だ、これでは二人とも助からない。誰か、助けて――!
目を閉じたチアキの耳に爆音が飛びこみ、足元の大地が鳴動する。意外にも音と揺れはすぐに収まり、あたりは静寂に包まれる。ああ、私、死んじゃったんだ……。
ゆっくりと目を開いたチアキの網膜に、周囲の光景が焼き付けられる。そこは死者の国などではなく、先ほどと同じ演習場の一角であった。ぼんやりとしていた思考が、速やかに覚醒する。
そして、カナメを抱えるチアキの目の前に一つの人影があることに気がつく。その後ろ姿に、チアキの心がまるで母に抱かれるかのような安心感に満たされる。
ああ、もう大丈夫なんだ。チアキは目の前の人影を見つめながら、肩の力が抜けていくのを感じていた。この人が来てくれたなら、もう何も心配することはない。自分が最も尊敬する、憧れの人。
「あなたたち、もう好きにはさせません」
生徒会副会長、ノリコ・ミナヅキの声は、怒りに震えていた。




