1 始まり
この街は、どこを見ても灰色なんだな。
通路側の座席から車窓の外の風景をぼんやりと眺めながら、少年は一人つぶやいた。
眼前に広がる帝都の町並み。それは、彼が生まれ育った町のそれとは異なり、近年増えてきたという無機質なコンクリート製の建物が立ち並ぶ重苦しいものであった。中心部へと向かえば向かうほど、街の色から緑が薄くなっていく。
彼、ヨウ・マサムラは、そんな景色を瞳に映しながら水筒の水を一口あおった。
乗車してからもう何時間が経つだろう。シートの座り心地がこれまでの彼の人生の中でも最上のものであることは疑いようもなかったが、それでも朝から何時間も座り続ければ尻が痛む。
ヨウは相席の客に会釈し、おもむろに立ち上がると通路へと出て、今日何度目かの屈伸運動に明け暮れた。
アケノソラ帝国。大陸中部にあって空前の繁栄を謳歌する大国である。総人口は実に八百万、帝都メイキョウの人口は今や百万に届かんとしている。帝国及び帝都の人口の増大は今もなお続いており、都市部へと流入する豊富な労働力が帝国の持続的な経済発展を支えている。
その兵は精強な事で知られ、特に「帝国の矛」と称される精霊術士部隊は、帝国が誇る最精鋭部隊として周辺諸国に怖れられていた。今や、帝国が軍事力・経済力ともに他を圧倒する大陸中部の雄であることは疑いようもない事実であった。
その帝国が国家の威信をかけて造り上げたのが、広大な帝国を南北に縦断する帝国縦断鉄道であった。巨額の国費を投じて建設されたこの最新交通システムは、南は帝国の南端、港町イノハマから北は国境防備の要衝シロヤマまで、実に南北1800クロメ(約1200キロメートル)にも及ぶ距離をわずか十六時間で結ぶという驚異的なものであった。
イノハマから北へおよそ1200クロメ(約800キロメートル)のところには帝都メイキョウがあり、毎日鉄道の南端と北端から十二両編成の列車が出発しては、二日がかりで両端の往復を繰り返していた。
この十二両の列車の先頭にあって他の車両を牽引するのが、帝国がその技術の粋を結集して建造した最新式機動装置、精霊機関車である。精霊石から取り出された精霊力によって駆動する精霊機関を動力として走るこの車両は、現在主流である馬車とは比べ物にならない大量の貨物を運搬することが可能であった。
その走行速度も馬車の比ではなく、鈍く黒光りする巨大な鋼鉄の塊が風を切って地上を疾駆するその様は、見る者を否応なしに興奮の坩堝へと誘う。帝国において精霊石からより効率的に精霊力を取り出す技術が確立されたのはわずか数年前のことであるが、この精霊機関車はまさに、そんな帝国の他国に冠絶する技術力を体現する存在であった。
かように、精霊機関車は帝国中の期待を一身に背負う国力の象徴ではあったが、客車が一両しかないという事実は人々を大いに落胆させた。
現在はまだ帝国に二つしか配備されていない精霊機関車は、主に物資の運搬に用いられているため、乗客に割り振られる席は自然限られてくる。そのため客車に乗客として乗車できる者は必然的に貴族・金持ち・その他特権を持つ者に限られた。そしてヨウ・マサムラは、幸運にもほんの半月ほど前にその特権を手にすることができたのであった。
「間もなく帝都メイキョウに到着いたします。ご乗車の皆様はお忘れ物のなきよう……」
客車へと入ってきた女性が、目的地への到着をアナウンスする。屈伸運動を中断したヨウは、車内を軽く見渡した。
客車は二人一組で向かい合って座るタイプの座席が全部で八つ。それに横椅子が二つ、合計で五十人ほどが腰を掛けられる。もちろんどの席も客で埋まっているのだが、その構成が少々変わっていた。
客の大半は金のありそうな身なりのよい客であったが、その中にちらほらと、ヨウと同年代の少年少女が一人旅といった様子で混じっている。
もっとも、一人分でさえ四人家族を一ヶ月養うに十分なほどの高額な運賃ともなれば、子供が一人で気軽に乗るわけにもいかないはずだ。おそらくは彼らもヨウと同様、特権を手にした者たちなのであろう。
頭上の荷物棚から自分の荷物を降ろすと、ヨウは再び座席へと腰を下ろした。
しばらくすると、機関車が徐々に減速を始める。身体が椅子に押し付けられるような感覚に身を任せていると、速度が大分落ちたところで再びあの女性が客室へと入ってきた。
「皆様、大変お待たせいたしました。間もなく帝都メイキョウに停車いたします。お降りの際はお手荷物をご確認の上、こちらへ切符をお渡しくださいますよう……」
女性がアナウンスする間に、甲高い金属音を立てながら精霊機関車が停車する。ヨウは相席の無口な老人に軽く会釈すると、女性に切符を手渡して乗降口を降りていった。
駅に降り立ったヨウの目にまず飛び込んできたのは、貨物車の荷の積み替えをすべく押し寄せてくる男たちの群れだった。短い停車時間の間に積み替えを終えなければならないとあって、その辺りはまるで市場のような活気と熱気に満ちている。
そんな様子を横目に待合室の方へと向かっていくと、降車する乗客を見つめている人だかりの中に懐かしい顔を見つけた。彼女もこちらに気づいたのか、軽く腕を上げて手を振ってくる。
ヨウは早足で彼女の下へと向かった。
「久しぶり、ノリコ」
「ヨウちゃん、お久しぶり」
ノリコと呼ばれた少女が、桜が花開くかのような可憐な笑顔を見せる。肩のあたりまで伸びた艶やかな黒髪、愛らしい黒い瞳に桜色のふっくらとした唇。十人中十人が振り向くであろう美少女であった。
「今日はおつかれさま。どのくらい乗ってたの?」
「ざっと六時間くらいかな。ずっと座りっぱなしで身体が痛いよ」
「あらら、それは本当におつかれさまだね。荷物、持ってあげようか?」
「いや、女の子に力仕事はさせられないよ」
「ふふっ、ヨウちゃんはあたしのこと、今でも女の子扱いしてくれるんだね」
いたずらっぽく言うと、ノリコはさして広くもない待合室の出口へと向かう。ヨウもその後に続いた。
「これが、帝都か……」
駅から出たヨウが開口一番に発したのはそんな平凡なセリフだった。駅前には楕円状の広場があり、その縁には精霊機関車の乗客や積荷を待っているのであろう多くの馬車が並んでいる。
コンクリートで塗り固められた広場の中央にはいくつもの巨大な銅像が並んでおり、そこをぐるりと囲むように歩道が整備されている。この国の歴史にその名を刻む偉人たちを模したという青銅の巨人たちは、歩道を行き交う者たちを広場の中央から物言わぬ目でただじっと見下ろしていた。
広場の向こうには背の高い建物がいくつも連なっている。ヨウの故郷では見たことのない三階、四階建ての建物も、ここでは珍しくない。道は人で溢れており、その中を掻き分けるように走る馬車は、さながら黒い海を進む船のようでもあった。
「噂には聞いていたけど、本当に人でいっぱいなんだね」
「そうでしょう。驚いた?」
「まあね。ほら、試験だって僕らはアサカワだったし。あそこも大きな町だけど、やっぱり比べ物にならないね、帝都は」
「そうだね。あたしも去年ここに来た時にはびっくりしたなぁ……」
そう言いながら、何かに気づいたかのように慌ててノリコが手を口に当てる。
「あ、ご、ごめんねヨウちゃん。変なこと言っちゃって」
「え? 変なこと?」
「あの、その、去年のこと……」
「なんだ、そんなこと? 全然気にしてないよ、そんなの」
「そ、そう? よかった……」
言って、ノリコがほど良く膨らんだ胸を撫で下ろす。一呼吸置いて、再びノリコが口を開いた。
「それじゃ、馬車を拾おっか」
「いいよ、歩いていけるよ」
「ヨウちゃんがよくてもあたしが嫌なんです。ね、乗ろ?」
そう言うやノリコが一台の馬車へと近づいていく。相変わらず強引だな、と思いながらヨウは苦笑した。
御者に行き先を告げて二人乗りの馬車に乗ると、ヨウはノリコと隣り合わせに座った。ゆっくりと馬車が進み出し、そのまま人込みの中へと分け入って行く。
この手の乗り物に慣れていないヨウが馬車を見上げる人々の視線を気恥ずかしく思っていると、ノリコが口を開いた。
「でも本当によかった。こうしてヨウちゃんが合格してくれて」
「そうだね。僕もホッとしてるよ」
「何と言っても、天下の帝国精霊術師学院だもんね。おじさんとおばさんも喜んでいたでしょう?」
「それはそうだよ。何せ去年のこともあるしね」
そう笑うヨウに、ノリコは少し怒ったような口調で続ける。
「本当なら、今頃ヨウちゃんも二年生のはずなのに」
「それは仕方ないよ、ノリコ。去年の僕には力が足りなかったんだから」
「そんなことないよ! 学院側にヨウちゃんの力を正しく測るだけの目がなかったんだよ!」
「はい、そこまで。試験は試験だからね。それに、今さら終わったことを言っても仕方ないよ」
「うぅ……」
不満げにノリコが黙りこむ。余程腹に据えかねていたのだろうか。ヨウは苦笑しながら視線を空へと向けた。
帝国精霊術師学院。精霊と契約を交わすことによってその強大な力を行使する特殊能力者、精霊術師を育成するために、帝国が巨費を投じて設立した全寮制の教育機関である。
精霊術師一人の力は百人の兵に匹敵するとも言われ、各国ともその発掘・育成に力を注いでいるが、帝国のそれはその規模において他国を凌駕している。学院は毎年百六十名もの生徒を新入生として迎え入れ、生徒たちは学院での三年間の教育を経て帝国軍に尉官として任官する。
このシステムの導入により、現在では帝国は常時実に三千人を超える精霊術師を安定的に確保することに成功した。他を圧倒する帝国の軍事力の源泉、それが帝国精霊術師学院なのである。
もちろん精霊術師への待遇も破格である。高給と巨額の退職金に加え、終身年金、戦傷保険と魅力的な条件が並ぶ。
高待遇は精霊術師の卵たる学院の生徒にも及び、生徒たちには軍属としての身分が与えられ、毎月帝都の平均的な労働者の二倍にあたる給与が支払われる。合格した新入生が学院に初めて来る際、あらゆる交通機関を無料で利用可能になるというのもささやかな特権の一つと言えよう。
そんな精霊術師の登竜門たる学院には、毎年憧れや野心を抱く多くの若者たちが集まってくる。十五歳から十七歳までの帝国臣民に受験資格が与えられ、成人である十八歳を過ぎた者は学院ではなく士官学校の精霊研究科を目指すのが通例であった。
試験は帝国全土の主要都市で行われ、その試験を突破した者には晴れて学院の生徒としての生活と輝かしい未来が待っている。
もっとも、学院の合格者が定員の百六十名を満たすことは滅多にない。それほどまでに試験の壁は高く、それは裏を返せば合格水準に達するだけの精霊の力、すなわち精霊力を持つ者が数限られているということの表れでもあった。
そんな学院の入学試験をヨウは昨年受験し、そして見事に不合格の憂き目にあったのであった。学科も大半の実技も極めて優秀な成績であった彼が落ちた理由はただ一つ、肝心の精霊との契約ができなかったの一点に尽きる。ヨウの精霊力は、最低位の精霊とも契約できないほどに低いものだったのだ。
その結果に心底落胆したヨウであったが、そこで腐ることなく一年間精霊力の研鑽に励み、二度目の試験日のわずか五日前、遂に最低位の地の精霊・グラスウィルとの契約に成功したのだった。その結果、試験では辛くも学院の要求する最低基準をクリアし、ヨウは末席での学院入学を許されたのであった。
昨年ヨウと共に入学試験を受験したノリコは、そのまま試験に合格して今年二年目の学院生活を迎える。幼なじみであった二人は、今や上級生と下級生の関係にあった。
「でも、本当によかった。ヨウちゃんの力がようやく認められて」
「まあ、僕もこの一年間頑張ってきたからね」
「そういうところは相変わらずだね、ヨウちゃん。あたし、もう聞いてるんだ。ヨウちゃん、精霊関連の項目を除いた成績では今年ぶっちぎりだったって」
「へえ、そうなの? でも学院は精霊術師を目指す場所だからね。他がどんなに良くたって、肝心の精霊力が低いんじゃ始まらないよ」
「そんなことないよ! だってヨウちゃん、昔から何だってできたし、それにヨウちゃんにはあの力だって……」
「そこまでだよノリコ、それこそ精霊術師には関係のない話だからね」
「もう、ヨウちゃんってばぁ……」
ノリコが頬を膨らませながら恨めしそうにヨウの顔を見る。そんな会話を続けているうちに、目的の場所が見えてきた。
「ほら、ヨウちゃん。あれが学院の正門。これからヨウちゃんが暮らす場所だよ」
ノリコが指差す先には、コンクリートと鋼鉄で造られた巨大な門と扉がそびえている。入り口の手前で馬車を降りると、二人は鷹の紋章が刻まれた重厚な造りの門の前で立ち止まる。
「いよいよ、僕も学院の学生になるんだね」
「そうだよヨウちゃん。それじゃ、改めて」
そう言うと、ノリコがヨウに向き直って笑いかける。
「ようこそ、帝国精霊術師学院へ」
かくして、ヨウ・マサムラの学院生活は幕を開けた。