6話 着替えの意味
入院してちょうど一週間目の8月8日。
その朝、病室に原田先生がやってきてハイビスカスの髪飾りを贈ってくれた。
「本当はちゃんと花束を送りたかったんだけど。でも、これから街へ少し出てから帰るんだろう?」
そう言って先生は残念そうにした。髪飾りというには少し大きいそれは、よく見ないと造花とわからない程よくできていて、僕は少しおどろいた。
「ハイビスカスの花言葉って知ってるかい? 『微妙な美しさ』っていうんだよ。いや、もちろんきちっとした褒め言葉でね。本来は細かく複雑で趣き深い美しさって意味なんだけど、言葉の使われ方が変わってしまったんだ。他にも『常に新しい美』『繊細な美』『勇敢』なんて花言葉もついてて。それがなんだか君にぴったりだと思ってね。」
女の子がする髪飾りなことも含めて、そこに先生はいろいろな意味を込めたのだと思う。
ひょっとして、と思って先生を見る。
「一応ブーケにも見えるサイズで、とお願いしたから少し大きくてね。このままでは髪に挿せないだろうとお店の人に言われてしまったよ。」
やっぱり。先生に家に帰るまでに寄り道をしても大丈夫かと尋ねたのが二日前。オーダーメイドの髪飾りのことなんてよく知らないけど、少し時間が少なすぎる気がする。
……たぶん「生花の花束は持ち歩きにくいだろう」なんてのは後付けの理由だったのだ。
「受け取ってもらえるかな?」
先生が差し出したそれを僕は静かに受け取った。
「ありがとう先生。すごく……すごく気に入りました。本当に、とても。」
裏っかわに本当の意味がある花言葉も。髪を伸ばしたって使えない髪飾りも。そのすべてが今の僕にふさわしい気がしてきて。それがなんともいえず嬉しかった。そして、その感情を「気に入った」という言葉でしか伝えられないことが悔しかった。
病院のドアが開くと夏の熱気が一気に襲ってくる。うんざり感を感じながら、肌をなめる熱気に久しぶりと挨拶する。
来た時と同じ、PUMAのTシャツにダボっとした半ズボンを着て、いかにもな運動靴を履く僕は、きっと女の子には思われない。でも確かに違うのだと、キャリーバッグで揺れるハイビスカスが示していた。
病院を出て最初にやったことは、服と靴を買うことだった。
だって、今のままで僕は女子トイレに入れない。母さんは別にまだ男子トイレに入ってればいいと言うし、確かに僕もまだ覚悟ができてないのだけれど。でも本当に言いたいことは少し違って。つまり、今から行く場所で僕が男子に見られるのはちょっと問題なのだ。
今から行く場所はこれから引っ越す場所。もし同い年の子と出会ってしまって、男の子の格好で顔を覚えられたら……
母さんは考え過ぎと笑って、その通りかもしれなかったけど、僕にとっては譲れなかった。
Tシャツ一枚を選ぶ作業は思った以上に大変だった。とても奇妙なことに、今の僕は男子に見られることを恐怖していたけれど、その一方で女の子的格好をすることにも抵抗を感じていた。花柄やハートマークには拒否感があったし、ピンク系の色合いも避けたかった。フリル付きのTシャツなんて当然ダメで、ギャザーが少し入っていても候補から外した。
結局ユニクロで選んだのは女性ものXSサイズ、紺地にスヌーピーのTシャツで。ズボンは男子はなかなか履かない細めのジーンズ。靴は同じフロアの靴屋で紺色にドット柄のローカットスニーカーを買った。
靴を買うときに店員さんに「合わせて靴下もいかがですか」なんて言われて、女の子は靴下まで考えなきゃならないのかとちょっとめんどくさい気分になった。
そうして一通り着替えた僕は、一応女子っぽく見えて、不思議なものだなと思う。いや、なってくれないと困るのだけど。でも別にスカートを履いた訳でもないのに。「曖昧なんだ」と言った先生の言葉を思い出した。
父さんと母さんの反応は対極で、母さんは「靴以外大して変わっていない」と言ったし、父さんは「女性ものはやはりシルエットが違うんだな」と言った。ついでに父さんには「服を選ぶ時間までは女性っぽくならなくてもいいぞ」と笑われてしまい。時計を見ればたった三つの買い物に二時間以上を費やしていた。
時間は大丈夫なのかと焦る僕に、実はもう下見や絞り込みは終わっているのだと父さんは言った。要は僕に否がないかを確認して、契約を結ぶだけらしい。退院祝いに予約した夕食までの時間つぶしという側面もあるのだとか。
大阪駅のコインロッカーにキャリーバッグとか大きな荷物を預けて、環状線に乗り換える。そうやってその駅に着いたのはちょうど二時頃だった。少しおどろいたことにその街はわが県の県庁所在地と同じくらい街で、だって中心部からは少し外れたお寺や学校が多い地域だと聞いていたから。
その駅の駅前には商店街があった。すごく活気があるって訳じゃないけど、ちゃんと商店街っぽさがある商店街。少し前から続いている商店街ブームの影響か、お洒落な喫茶店やアジアンテイストのお店なんかもできてるみたい。なにより行き交う人々が明るい顔をしてて、いい街だなと思った。
そうやって商店街をしばらく進み、右に折れ、道を一本渡ると、そこは駅前の雰囲気とは打って変わって落ち着いた雰囲気の通りだった。きれいに街路樹が植えられてるのもそう見える要因かもしれない。その通りを少し行けばもうそこが候補のマンションで、たぶん最短ルートを普通にくれば駅から6・7分くらい。今は僕がゆっくりしか歩けないから結構かかったのだけど。
四階までエレベーターで上ると、右手と左手奥にドアが二つ。ワンフロアに二戸の小ささに都会的なにおいを感じる。右の方の部屋のチャイムを母さんが鳴らすと、先に来ていた不動産屋さんのお兄さんが出てきた。
両親と挨拶した後、僕と目が合って「こちらが伺っていたお嬢さんですか。かわいらしい方ですね。」なんて、営業マンらしいただのお世辞なんだけど、僕にとっては何も知らない他人から女性として扱われた初めての言葉で。選んだ服が間違ってなかったらしいことへの安堵や、でも女性として扱われたことへ嫌な感じもあって、何とも変な感じがした。
部屋は3LDK。3つの部屋+リビングダイニングキッチン、今知った知識だ。一軒家な今の家に比べるとずいぶん小さく感じるのだけど、家族用としては割と多い大きさらしい。
「購入ならワンランク上も考えるんだけど、引っ越す可能性を考えるとやっぱり賃貸だからね。」
と母さんは言った。引っ越す可能性とはつまり僕が女子として馴染めなかった時のことだ。
一応ここが第一候補らしくて、理由を聞けば外を見てみろと言われた。……なるほど。そういえばマンションから道を挟んだ向かいは公園だった。「へー公園があるんだ」くらいにしか思ってなかったけど、それを上から見る景色は明るくってなんとも気持ちがいいみたい。夏休みだから小学生も遊んでいて、同級生っぽい子を探してしまう。
「南向きに遮蔽物がないってことでもあるから、夏はちょっと熱いんだけどな。」
と父さんが笑う。確かに、不動産屋さんが先に来て窓を開けていてくれたのだけど、そんなことは無意味と言わんばかりに部屋は熱い。
でも、うん。気に入った。この家で暮らす日を楽しみにするくらいには、僕はこの家を気に入ったと思う。
それで父さんがその場で不動産屋さんといくつか書類を交わし、契約は完了した。
マンションを出た所でふいに同い年くらいの女の子とすれ違ってドキッとする。向こうはこちらなんて気にする様子なんてなくって、隣の母親と話していただけ。でも、一瞬だけ目が合った……気がする。僕はどうみられたのだろう。自分の服をもう一度見下ろす。
不動産屋のお兄さんには女の子として認識されたみたいだけど、でもあれはやっぱりお世辞だから信用できないのじゃないだろうか。
そうやって色々考えてみて、思ったのは服装のことはやっぱり結構難しいってこと。母さんに聞いてもダメダメだろうし。……誰か先生がいればいいのに。
その後、通うことになるだろう小学校なんかも見て回ってたりしたんだけど、僕が「また同級生っぽい子に会わないか」「変に見られないか」って心配してるのを見てそれは早めに切り上げ。びくびくしてると余計変だって母さんに言われた。……びくびくしてるつもりなんてなかったんだけどな。
結局、商店街にあって気になっていた喫茶店で少し時間をつぶして、早めの夕食の時間。
母さんが退院祝いに予約した店というのはなんと焼き肉屋さんで、思わず父さんと顔を見合わせて苦笑する。そういえば母さんには言ってなかっただろうか。
マンションの辺りから少し行ったその一帯は焼き肉で有名なのだと、母さんは妙に意気込んでいて。引っ越せばいつでも来れる距離なのにと僕はちゃかした。
連続の焼き肉でちょっと飽きるかとも思ったけど、おいしいものはやっぱりおいしくて。一切れがステーキサイズの大きいお肉なんて本当に「ホッペタが落ちる」って感じ。でもテールスープやチヂミなんかのサイドメニューもおいしくってどれから食べていいかわかんなくなってしまう。「これはおいしいから少しでいいから食べてみろ。」と進められたキムチも、確かに嫌な感じがしなくて、僕はその日キムチ嫌いを克服した。
新大阪駅で新幹線に乗るといろんなことがやっと終わったって気分がしてくる。ふう、と息を吐きながら椅子に座った所で気がついた。慌てて自分のキャリーバッグをあさる。荷物を取り出してトイレへ。
トイレで着替えながら、自分でも変だなと思う。二つ県をまたぐ間に、女子から男子へ。まるでスパイ映画みたいだ。……現状は母さんに曰く「大して変わらない」着替えだけど。
でも、僕はそれをせずにはいられない。きっと僕は、これから女の子になることも、今まで男だったことも、そのどちらも知られたくはないんだ。だってきっとそれはあまりにも「違う」ことだから。
家に着く頃には空ももう真っ暗。着いた途端に疲れが吹き出してきて、お風呂に入るのもおっくうだ。
そんな僕を見て父さんが「ずっとベッドの上だったからなまったんじゃないか?」なんてからかう。母さんに促されてお風呂へ入ると、そう言えばちゃんとしたお風呂は久しぶりだったと思い出した。病院のお風呂はなんとなく安心できないし、せかせかしてしまうのだ。この家のお風呂がちょっと古くて、鏡が小さくてよかったと思う。
お風呂から上がると母さんがコーヒーを入れていてくれて、ブラックでも飲めなくはないんだけど、好きなのはやっぱりちょっとのコーヒーに牛乳を入れた『コーヒー(の香りがする)牛乳』だ。
そうやって一息ついた所でタブレットを取り出して、メールを作成。やっと帰ってこれたとか、久しぶりの家は安心することとか、明日はゆっくり休めって父さんに言われたけど、明後日からはラジオ体操にも顔を出すことや、でも病院の先生には実はやらないように言われてることなんかを書いて千夏ちゃんに送信。
送信すると急に眠気が襲って来て、母さんにせかされるまま布団につくなり僕はすぐ眠りに落ちた。
今回のあとがき少し長いです。
というのも、主人公の服装の描写が上手くできなくて、やっぱり写真見てもらった方が早いなと思い至ったゆえ。
特に今回服装と着替えに焦点があるので。
例えば『コンタクトを外して着替えとお化粧で変身! ……これが、私?』みたいな、よくある描写ですけど「実際どんなもんよ!」と思ったことないです?
私自身そう思うことは多くて、だから今回話を書くときは色々服の写真を集めたりしてリアルにある変身を模索しました。
そういうことは活動報告にしとけって意見があれば、ぜひ言ってください。
前置きが少し長くなりましたが、それでは主人公の着替えについて。
まずは Before
「PUMAのTシャツ」
「ダボっとした半ズボン」
「いかにもな運動靴」
そして After
「女性ものXSサイズ、紺地にスヌーピーのTシャツ」
「細めのジーンズ」
「紺色にドット柄のローカットスニーカー」
だいたいのイメージですけど、どうでしょう。印象、変わると思いますか?
私はズボンのシルエットと靴が変わると結構違って見える気がします。
ちなみに主人公の今の家は岐阜。手術した病院と引っ越し先は大阪にある。という設定です。決めておくと交通機関の描写なんかに重宝します。
あと大阪で評判のいい小学校なんかにも少し詳しくなりました。