5話 その一週間のこと
パンツだけの格好になって、手術着に着がえる。着替え終わると車いすに座るように言われて、僕はそれで病室から手術室まで運ばれるらしい。
自分で歩けるのに。と少し文句を言うと、それだと靴を履かなきゃ行けないから。って看護師さんに諭された。
車いすに座った僕を母さんが妙な顔をして見つめてくる。そんな顔をしてなにを言うのかと思ったら「頑張って。」だって。おかしくってちょっと笑う。だって頑張るのは僕じゃなくて先生なのに。
「あっそうだ、冷蔵庫に入れるなにか買ってきといてよ。」
思い出したように、ちょっとわざとらしかったかも知れない。
「今ペットボトル一本のために動かしてて、ちょっともったないしさ。」
放っておくと病室でじっと待ってそうだから。
「病院と言えばやっぱりリンゴかな?」
なんでも大げさにするのは母さんの悪い癖。
変な顔のまま固まってた母さんは、息を吐きながら気の抜けたような顔をして。
「じゃあ一番おいしそうなのを買ってこなくちゃね。」
と、そう言った。
手術室に入る前に、自分の名前と僕が今からする手術の内容を僕の口から確認され。それらが僕のリストバンドのバーコードと間違ってないかを確認される。リストバンドは入院した時からずっとつけているもので、患者の取り違えを防ぐためのものだとか。
ドラマなんかでしか見た事のない手術室。少しわくわくする。扉をくぐるとアニメソングのジャズアレンジがかかっていて、緊張しすぎないよう音楽をかけることは聞いていたけど、殺風景な手術室で音楽がなってるのは妙な感じだ。
車いすから手術台へ移ると周りの人が覗き込んでくる視点になって、ちょっと怖い。腕をクリップなようなもので挟まれたり、胸にシールを張りつけられたりしていると、心臓の音をはかる機械が動き出す。ピコン……ピコン……ってドラマでよく聞くやつ。どうなってるのか気になって見ようと思うんだけど、寝転がってるからよく見えない。そうやって試行錯誤していると、隣にいた看護師さんが「気になる?」と言って僕の見やすい位置に機械を少し移動させてくれた。
あの波形が僕の心臓の動きなんだっていうのは不思議な感じ。でも確かに、ちょっと遅れてるけどだいたいあってる。息をゆっくり吸うとだんだん早く。息をゆっくり吐くとだんだん遅く。
不自然に深呼吸していると看護師さんに「なにしてるの?」と聞かれてしまった。恥ずかしかったけど、正直に呼吸と心臓の早さの不思議を楽しんでる、と言うと。「心臓が酸素を運ぶためのものなんだって事がよくわかって面白いよね。」と共感されてしまった。
今言われて気がついたとは言えない。
そうやって少しお喋りしたせいか、先生が入ってきた時もあまり緊張はなくって、よろしくお願いしますってしっかり挨拶ができたから自己満足。先生は頑張るよって笑ってくれた。
麻酔の先生が「麻酔しますね。」って言う。僕は麻酔ってどんなものだろうって興味があった。全身麻酔なんてそうそう経験できないし。だから頑張って覚えて置こうと思ってたんだ、眠る瞬間のこと。でも点滴の針が刺さったなと思って、……僕のたくらみは失敗したらしかった。
——初めて原田先生にあった時のことだったと思う。
「僕が普段手術する人はね。常識や社会、自らの遺伝子にすら逆らって自らの道を生きてゆこうとする、そんな人達だ。」
診察の途中、ふいに先生は横道にそれて、そんなことを言った。
「だからそういう人達をいつも見ている僕からすると、君は少し不思議にも思える。まるで真逆だから。」
男子であることをやめるつもりがないのに、逆らうことなく受け入れた僕は確かに変に見えるのかもしれない。
「どうして君がその選択をしたのか聞いてもいいかい?」
きっと先生は僕のことを心配してくれていたのだろう。
「…………実はまだよくわかってないんです。……でも、どんな姿をしてたって僕は僕なんじゃないかって。それに、せっかくこんな星のもとに生まれたんだから、楽しまなきゃ損だって気がして。……なにより僕の中ではもうそれが選ばれてしまっていたから。」
言葉の間、先生は僕の言葉を確かめるように瞳をずっと合わせていた。先生は一度深い瞬きをして。
「……そうか。ありがとう。わかったよ。」
と言った。その言葉の響きが否定的でなかったことが僕は嬉しかった。
「真逆というのは少し間違いだったね。君のそのアイデンティティーに対するどん欲さは、とても似ているよ。」
この時は先生の言ったことがわからなかったけど。
「強く生きなさい。君のその生き方は時にしんどいだろうが、得られるものもきっと多いだろう。」
ただ、この人には僕よりも僕の未来が見えているのかもしれないと思った。
目覚めは思ったよりずっと良くって、むしろ気持ちがいい眠りに、もう少し眠っていたかったなと後ろ髪を引かれる気分だった。
もっともその余韻は僕が起きたことに気がついた母さんに、頭をくしゃくしゃにされてすぐに消えちゃったんだけど。
控えていた看護師さんに今の気分を聞かれる。神経が集中している場所を大きく触るのだから、術後は熱が出たりしんどかったりするかもしれない、と聞いていた。
体温を測ると微熱があるらしかったけど、僕自身そんなにしんどさを感じなくって。結構不安を感じてたから、少し安心する。
僕の様子に看護師さんもちょっとおどろいたみたいで、動けるからといって今日はベッドの外に出てはいけないと釘を刺されてしまった。曰く形成の痕が落ち着くまでしばらくはあまり動いちゃだめだとか。
食べ物も明日までは食べちゃいけないことになっていて。しょうがないからその代わりにリンゴジュースを飲む。水分は管がついていてそれで出すから問題ないらしい。……あまり気持ちよくはないけど。
母さんが手術の間に買ってきた瓶に入ったリンゴジュース。結構……ううん、かなりおいしい。母さんも値段相応と喜んでいた。買ってきたのは焼き肉を食べたあの駅前のデパートらしい。
でも僕は確かにリンゴと頼んだけれど、青果はもちろんリンゴジュース、リンゴゼリー、リンゴクッキーとリンゴ尽くしなのはどうかと思う。
夕方には父さんがやって来て「ああ、ちゃんと生きてるな。」なんて冗談めかして笑った。三人でするのは、これまであんまりしなかった父さんの家や暮らしの話で。こっちの野菜は微妙に高いとか、その代わりマイナー調味料の揃いはいいとか、昨日は夜ってこともあって母さんが迷いそうになったとか。
その流れで「引っ越し先が決まりそうだ」と言われた。
引っ越し先選びの何で時間がかかっていたかと言えば、小学校の学区だった。30人学級制が導入されてから、小学校の質は全体的によくなったと言われてるけど。それでも女の子に変わっての初めての学校だからと、二人は小学校の評判集めに腐心してくれていた。
結局、父方の親戚の人の話で、その人が前に住んでいた地域の小学校が今の時代もまだいいと言う情報に一番信憑性があって。実際、町の雰囲気もよく、そこでほぼ決まりにするらしい。不動産屋さんに問い合わせるといくつか候補の賃貸があるから、後は実際に見て周り決めるだけ。「退院の後、少しよって、それで決めようか」と言われた。
その話がでてから、ずっとイヤな感じがしていた。どうしてか、否などないはずなのに。
ふと視界の端にタブレットが映った。……そっか。どうやら僕は千夏ちゃんとの別れが惜しくなったらしい。
それから二日間はとても暇だった。僕としては普通の体調なのに、歩いてはいけないといわれてはどうしようもない。しかも、歩けるまでに便意があればベッドの上で看護師さんか家族に手伝ってもらってする。なんて聞けば食欲も自然薄れてしまう。
最初は本でも読んでれば一瞬かと思ってたけど、次にと選んだ本が微妙に合わなくて。一番の楽しみは日に何度かの千夏ちゃんとのメールのやり取りになっていた。
そこでふいに宿題の話題が出て、もうすぐ終わりそうだという千夏ちゃんに、慌てて鞄からドリルを取り出したのはないしょだ。
歩けるようになってからも、暇なことはやっぱり変わらず。ドリルをしながら時たまタブレットをいじる僕を、土日だからとやって来た父さんと母さんや、馴染みの看護婦さんが「楽しそうだね」なんてからかっていって、少し恥ずかしかった。
そして四日目。
その日はまず、おしっこを出すために尿道についていたカテーテルというのを外した。外すときに少し痛いといわれて身構えたけど、割と平気だった。でも「イチ・ニッ・サン」で抜くと言っておいて、「サン」を言う前に抜いてしまうのはちょっとひどい。……そのおかげで痛くなかったのかもしれないけど。
その時に初めてそこを見た。感想は、思ったよりも普通。だって、形成してすぐはあまりいい見た目じゃないと結構脅されてたから。縫い糸がまだあって傷痕っぽさはあるけれど、そんなに悪い見た目には思えなくて、少し安心した。無くなってしまったことに対する感情が何かあるかもと思ってたけど、それはあまりなかった。安心感や好奇心の方が強い感じ。
その後はトイレの練習とシャワー。トイレに練習がいるのは、尿を出す感覚が変わってしまうと上手くできなくなることもあるからだとか。看護師さんに付き添われてトイレへ向かう廊下、そう言えばどっちのトイレなのだろうと思ったけれど、入ったのは障がい者用トイレで安心する。
トイレは別に何か難しいということもなくできた。感覚は確かに違ったけど、なによりその様子が全然違うのがとても奇妙に映って。どこか遠くから見るように、流れていく水を眺めていた。
トイレットペーパーで水気を取ることに新鮮さを感じながら、いったん水を流すと。横で控えていた看護師さんに消毒薬を渡される。曰く、一応まだ傷痕に近い状態だから一週間くらいはトイレとお風呂の後に消毒をするように。だそうだ。でもこうして、トイレのときに看護師さんが横に立ってるのも、消毒の方法を教えてもらうのも、手術の前だったら絶対嫌がってただろうに。これははたして、ただ医療行為としてあきらめてるのだろうか、それとも僕が変わったのだろうか。
シャワー室に入ると鏡があった。裸の全身を移してしまうと、確かに僕は男には見えなくって。かといって女の子らしさなんて欠片もなく。
その中途半端さが面白いと口元をつり上げてみる。……その笑みは馬鹿みたいに不自然だった。
五日目には抜糸があった。
「うん、上手くいったんじゃないかな。」
診察の後、原田先生はそう言った。
「二次成長期前の形にするなんて僕もなかなかやったことがなかったし、難しい面もあったのだけど、とても上手くいったよ。左右の皮膚もそのまま落ち着こうとしているように見えるしね。」
つまり、穴が塞がった状態を正常な状態だと体が認識していれば、体がまた塞ごうとしたりして、もう少し面倒なことになる可能性もあったらしい。
「それじゃあ、予定通り明日に退院だね。おつかれさま。」
その言葉はやけにあっさり響いた。