『蜘蛛』の『糸』
俺は目覚めた。
薄暗く、しかし不思議と埃っぽくないこの空間を、俺はよく知っていた。
昨日はこの木造のボロ屋敷にある彼女の部屋(2階)で一緒に寝たのだ。
「‥‥‥あー。そういえば昨日は途中で落ちたんだっけか」
俺は布団から起き上がり、まだぐっすり眠っている彼女を残して1階の浴室まで降りる。木造の階段がギシギシと唸る。1階に到着し、これも木製のドアノブを捻り、電気を点けつつ浴室へと入る。
少しばかり広い脱衣所で服を全て脱ぎ、洗濯機へ。そして浴室への引き戸を開ける。
タイルばりの浴室には、俺が丁度2人入れるぐらいのバスタブとシャワーが備え付けられている。バスタブ以外は彼女が不自由しないように広く設計されているので、俺が身体を洗うには十分すぎる広さがある。
俺が持ち込んだボディーソープで、粘性の体液が付着した体を洗う。
べたべたがなくなるまで。隅々まで。
シャワーで泡を全て洗い流す。体表面を水が心地よく流れていく。
いつまでも水浴びをしている訳にはいかないので、浴室から脱衣所へ出る。
昨日のうちに乾燥機に放り込んでおいた着替えをきる。白のワイシャツに黒のスラックス。アイロンがけをしていないのでしわっしわだ。
脱衣所を出て、キッチンへ向かう。エプロンをつけ、朝食の用意に入る。
タイマーで仕掛けておいた炊きたてのご飯と、インスタントのみそ汁、そしてふりかけ(鮭)を2人分用意。
それを居間のテーブルに置いて、お茶をいれにキッチンに戻る。
その間に彼女がやっと起きたらしく、2階からコツコツという足音と共に降りてくる。
ワイシャツを羽織ったスレンダーな女性の上半身。寝起きなのでちょっとゴワゴワしているが、黒くて綺麗な長髪。そして、蜘蛛のような下半身。
「おはよう」
「んー。‥‥‥はよ」
若干目が覚めていないようだが、そのまま浴室へと消える彼女。
俺はお茶をテーブルにおいて、彼女が浴室から出てくるのを待つ。
俺の彼女は、女郎蜘蛛だ。
詳しいいきさつはメンドクサイので省くが、要するに俺は生け贄としてこの屋敷に送られたらしい。
どうも俺の親父殿が権力を得る為に利用したのがこの女郎蜘蛛で、その対価として俺の体が支払われたようだ。
普通ならそのまま食べられてハイお終いなのだが、どうもこの女郎蜘蛛、俺がとても気に入ったらしく、そのまま同棲生活みたいなことになっている。
外から見るとかなりのぼろ屋敷なこの家だが、中身は割と充実していて、何処から引いてきたのか分からないが電気や水道も通っている。
お陰で何不自由無い暮らしをおくれている訳だ。
俺の人権以外は。
「糸ー。髪くくって」
「あいよ」
浴室から出てきたロウは、居間に座り、手招きしながらいつも通りの要求をしてきた。
俺は苦笑しながらいつも通りゴムを用意し、ロウの髪を手早くまとめる。
ロウとは、彼女の愛称だ。女郎蜘蛛の郎でロウ。アラクネとか色々候補はあったのだが、「体の中に蟲とか飼ってそうだから却下」と言われた。
ポニーテール風に髪をまとめ、ロウの髪から手を離す。相変わらずサラサラで綺麗な髪だ。
「ん、終わり」
「ありがとー。糸は優しいね」
「どういたしまして。褒めたっておかずは増えねぇぞ」
「ケチ」
会話をしつつ、席に着く。
ロウはワイシャツを羽織った状態、つまり裸ワイシャツと何ら変わらないような格好をしているが、見慣れた今となっては直視しなければどうということはない。
「んじゃま」
「「いただきます」」
朝食タイムのスタートであった。
「「ごちそうさまでした」」
15分ぐらいで食べ終わり、食器を片付ける。
一度サッと水洗いをすまし、見える汚れを大体落とした後、スポンジに洗剤をつけ丁寧に洗う。
「糸ー。暇ー」
言いつつ後ろからしな垂れかかってくるロウ。下半身が蜘蛛で、俺より背が高いという事もあり、全身でもたれ掛かられると割合重いもので。
「暇って、俺もそろそろ大学行かなきゃ−−−って首締めるな!」
俺の首にサラサラとした糸状のものが巻き付いている。
「ひーまー」
「暇だからって俺で遊ぶな!しかもこれ髪の毛か!?大事にしろよ女の子なんだから!」
「んふふ。私を女の子って言ってるのは糸だけだよ」
「何だ、嫌だったか?」
「んーん。凄く嬉しい」
とかいいつつ首締めの体勢から抱きつきの体勢に移動し、遂には持ち上げられ運搬される。
「おい、洗い物どうするんだよ!てか大学!」
「後でいいって」
連れてこられたのは2階の寝室。換気とかしてなかったから昨日の残り香が鼻をついた。
「ちょ、まだ朝だぞ?」
「おねーさんは褒められて嬉しくなってムラムラしてきました」
「う、わっ!?」
一時限目は諦めた方がよさそうだった。
一時限目どころか二時限目にまで遅れ、大学に到着した。
大学の研究室。
特に研究とかをしている訳ではないが、高校時代に付き合っていた先輩にこの研究室に連れ込まれて、それ以来この研究室に配属みたいな形になった。
研究内容は『日本の伝奇』。
現在進行形で怪異に巻き込まれている俺からすればちゃんちゃらおかしい話である。
よって俺は研究には参加せず、先輩の助手みたいな立ち回りでこの研究室に存在している事になる。
今日も今日とて先輩はいつも通りのジーパンにフライトジャケットという色気の無い格好だった。プロポーションはいいんだからもっとお洒落をしても良さそうなものだが、「行動力が+2されるんだよ」という訳の分からない理由でフライトジャケットを脱ごうとしない。
女性なんだから自分の格好には気を使ってほしいものである。髪だって自分で切りましたと言わんばかりの短髪だし。
「糸。お茶用意して」
「はい」
先輩専用のカップに手早くインスタントのお茶を作る。
それを研究室に1つしかないソファーに陣取っている先輩に手渡す。
「ん、あんがと」
「いえいえ」
「糸は良いお嫁さんになるよ」
「いえいえ」
「‥‥‥可愛くないなぁ」
肩をすくめ、先輩は目の前の机に置いてある資料の解読に取り掛かる。
その間に俺は資料を集め、統計の作業に移る。この研究室、無駄に資料が多いので集めるのも一苦労だ。
「そういえばさ、糸」
「はい?」
「糸って付き合ってる子とかいるの?」
「いますけど」
「ふーん。………………って嘘ぉ!?」
わざわざソファーから立ち上がる先輩。おお、さすがに普段から行動力がどうこう言っているだけあって身長は俺と同じぐらいか。
「この年代なら付き合ってる子の1人や2人ぐらいいるでしょう」
「2人!?おまっ、2股かけてんのか!?」
「え、いやいや。俺はかけてませんよ。彼女一筋ですよ。もうイチャイチャラブラブですよ」
彼女が。一方的にという情報は、伏せる。
すると先輩は急に拗ねたような、玩具を取られた子供のような表情になった。
「そっ………かーーー。残ァーーーン念」
ぎしっと椅子に座る。
そのまま机に両腕を乗せ、両手の指を組み、口の前に持って行く。
「何故ゲンドウ」
「あーあー。糸ならいいお嫁さんになれると思ったのになぁーーー」
「先輩、逆です。逆」
そこで先輩の顔がにわかに真剣味を帯びる。
「いや待てよ、婚約でもしていない限り既成事実の方が優先されるのでは?」
「先輩先輩。俺婚約してます」
「何ィ!?指輪は!?」
「してきてませんよ、目立ちますし」
実際は生け贄なのだが、ものは言い様だった。
「くっそー。羨ましいなこんちくしょー。今度その彼女見せろ。アタシが鑑定してやる」
「先輩、俺の彼女に値段は付けられませんよ」
「惚気か畜生!」
先輩が悔し紛れに投げてきた消しゴムを避ける。
惚気ではなく、本当は手が付けられないだけなんだが………。
「っかしホント変わったね、アンタ。前までアタシがちょっと怒っただけでビクビクしてたのに、今はなんっつーかこう」
「大人びた?」
「そうそれ………って自分で自分を褒めるな!」
今のは確実に先輩が引っかかっただけなのだが、揚げ足を取るとその足で絡んできそうなのでやめた。
「つーか、ホント。ねぇ………」
「何ですか」
「アタシとヨリ戻す気、ないの?」
机にべちゃっと潰れたまま、上目遣いに聞いてくる。………それで何人の男を落としてきたのか。
「嫌ですよ。どうせまた飽きたら捨てられるんでしょ?」
「そんなことない!アタシはマジだ!」
「前もそんな感じでしたけどね」
一方的に告られて、一方的に振られた。軽くトラウマものである。
確かに先輩は魅力的だが、常に2股はかけていると有名な人のマジの何処を信じろというのか?
「〜〜〜っ!」
突然先輩はガタンッと立ち上がり、俺の方に近づいてきた。
「………何です?」
「………」
ぎゅっ、と。
抱き締められた。
「アタシはマジだって言ってんだろ。いいからアタシと付き合え!」
顔は見えないが、よほど緊張しているのであろう、フライトジャケット越しに心臓の音が聞こえる。
どくん、どくん、と。
『いいんじゃないか?』
俺でない俺が囁く。
『毎日毎日アイツの相手なんて疲れてるだろ?生け贄なんて言い訳で逃げるなよ。先輩のモノになってしまえば、いまの状況から脱却できるんだぞ?』
しかし、それでは先輩を巻き込んでしまう。
『いいじゃあないか。先輩もお前を愛してくれているんだ。大丈夫だよ』
………。
俺の心がぐらりと揺れる。
瞬間、先輩が喋った。
「………そんなに今の彼女がいいのか?」
「………ッ!」
俺は先輩を振り払う。
そうだ、忘れちゃいけない。俺はアイツの所有物だ。俺の人生は捧げられたんだ。
俺には何も、ないんだ。
「………えっと」
「………」
沈黙。
突然振り払ったんだから当然と言えば当然だが、仕方が無い。
俺に対する物事の決定権は、全てアイツが握っているのだから。
「………それじゃあ、先輩。また明日」
「え、あ、うん。じゃあね」
挨拶を済ませ、俺はそそくさと部屋を去った。
「えっと、アタシ、振られた、のかな?」
呆然と立ち尽くすアタシ。
不思議と涙は出ない。今までが今までだから、この程度での事で涙は出ないようになっている。
「ってか、はぁ………」
あそこまで綺麗に振られると思わなかった。
今までならアタシが離すまで腕の中にいてくれたのに。やはりこの1年で何かあったと見るべきか。
アタシは両手で顔を包む。
案の定両頬は熱を帯びていた。
「なにやってんだ、アタシ」
襲って犯って付き合ってたあの頃が懐かしくなったのか?糸に許嫁が居るって聞いて急に危機感を覚えたのか?
糸が、欲しかったのか?
「あっつい」
分かりきった事だった。
「ただいま」
「あ、糸。おかえりー」
俺は大学からの帰り、食料調達にスーパーによってからぼろ屋敷に帰ってきた。
「今日は良いジャガイモがあったんだが、どんな調理が良い?」
「えっとね、生!」
「そんなとりあえず生みたいな」
言いつつ台所にスーパーの袋を置き、ジャガイモを1個ロウに放り投げる。
ロウはそのジャガイモを難なくキャッチ、そのまま口へと運ぶ。
「やたっ………ん〜〜〜!おいしっ」
「そりゃあ良かった」
食料を冷蔵庫に入れる。
「糸ー。私肉じゃががいいかも」
「そういうだろうと思って肉も買ってきました」
「わーい!糸大好き!」
そういって抱きついてくるロウ。
「………?」
「?どうした?ロウ」
抱きついた体勢のままロウは動かない。
そしておもむろに俺の首元に顔を埋めると、
首がちぎれる程に噛み付いてきた。
「っが!?」
「………」
「か、かっは!ごぼっ!」
「………こりっ」
ロウの歯が首筋にある触れてはいけない血管に触れる感触がある。
血が出ている。気管が潰れて息が出来ない。苦しい。痛い。
色々な感情が渦巻いていたが、1番表層に出ていたのは困惑だった。
何故。
何故俺はこんな事をされなくちゃならない?
「ごあ、あ、あああ」
「五月蝿い」
俺の口内にロウの細くて長い指が這入ってくる。それにより無理矢理声を抑えられる。
「ん!うんんんん!!」
「ねぇ糸」
ポタポタと、口から赤い液体を滴らせながら、ロウは言う。
「糸から違う女のヒトの匂いがするんだけど?」
「………あぁ?」
舌を押さえられている為に間抜けな声しか出なかった。
違う女の人?先輩か?
ロウは指先で俺の舌を嬲りながら、顔を覗き込むようにして囁く。
「糸は私のものなんだよ?私のもの。私私私私の。分かってる?ねぇ分かってるの?分かってないの?アナタは私の生け贄なの。私に全て捧げられたの。アナタには人権はないの。選択の自由も発言の自由も何の自由も無いの。アナタは私のものなの。ア・ナ・タ・は・わ・た・し・の・な・の。アナタが生きていけるのは私の気まぐれ。私の機嫌を損ねるような事はしないでちょうだい。そんなことされたら私は悲しくてアナタを殺さなくちゃいけなくなるから」
「………ああ」
………ああ。
そうだった。そうだ。そうなんだ。
俺には何もないのだ。
夢も希望も自由も人権も。
何もかも。
俺の両頬を掴んで持ち上げ、顔を覗き込んでくるロウ。まるで今にも補食しそうに。
首の出血は、止まらない。
「ねぇ糸?私のこと、好き?」
「ああ、愛しているよ」
これは、『蜘蛛』に捧げられた『糸』のオハナシ‥‥‥。