第五章 終わりの景観
そろそろ、幕へと向かっていくと思う。
「私達。結婚しようよ」
テレサはソルティに告げる。
銀髪の美青年は、少し困ったような顔になった。
「うーん。うーん。えと……」
テレサは少し、妄想的な事を頭の中で思い描き続ける。
現実に実行出来るかどうか分からないけれども。
それでも、希望のようなものは必要なのだから。
気付けば、好きだった。それはまるで水が注ぎ込まれていくかのように。
お互いが存在しているという事が何だか、楽しい。
テレサは彼に惹かれている、彼の持っている魅力が染み渡ってくるかのよう。
ずっと、会話していたいと思った。彼の持つ雰囲気、香り、顔立ち、全てが好きだ。
テレサはソルティの儚さが好きだ。
彼の色気も。顔形も。髪の毛も。強く魅了されてしまう。
二人で同じベッドの中、寄り添い合う。
相手の体温が伝わってくる。
ソルティはぞっとするような死人のような肌をしている。
テレサとはまるで、反対のような様相。だからこそ、惹かれるのだろう。テレサは太陽のようだと友人から言われた事があるのだから。
対極だからこそ、惹かれるものがある。
彼からは、何故か。強い、死の耽溺のようなものが漂っている。
夢物語を信じているテレサ。
ソルティは彼女に合わせて、微笑みかけてくれる。
強い戸惑いの中で。何処か風のようなものを感じている。それは希望なのか、それとも空虚なのかまるで分からない。
それでも、この感触がどうしようもなく安心を覚えるのだ。
不可思議な距離感がある。
何故、彼の眼はこれほどまでに澄んでいるのだろう。
指先をなぞる、とても繊細で綺麗だ。
産毛が並んだ肌。陶器のような感じ。
自分の肌なんかよりも、よっぽど綺麗だ。
テレサはソルティの上半身に触れる。
彼とずっと一緒にいたい。凍えそうな零度の体温が、テレサの全身へと伝わってくる。
まるで、死神と抱擁しているみたい。それにしても、彼の本質は男なのだろうか? それとも、ひょっとすると女なのかもしれない。只、分かっているのは。テレサは彼を強く欲している事だ。
優しく髪を撫でる。同時に、自分の髪も撫でて貰う。
気付いた。
そう、これは初恋なのだと。もう、どうしようもないくらいに。全身が熱を帯びている。テレサはふと思った、自分は彼に出会う為に生まれて、今日まで生きてきたのだと。
どんどん、彼の心と一体化していくような感じ。
心と心が混ざって、溶け合っていけばいいと思えてしまう。
沢山、読んできた恋愛小説の内容を思い出していく。
どのように辿ればいいのだろうか。何だか空白の世界を埋めていくかのよう。
†
二人は婚約指輪を買う事になった。
ずっと、テレサが引っ張っていっている。
ソルティの全てが愛しくて堪らない。
毎日がどうしようもなく、優しい日々に思える。
幸福ってこういう事なんだなと、実感している。
今、自分は生きているのだと。それだけで、自分が生まれてきた意味があるのだと強く思えて仕方が無い。
この旅がいつまで続くのか分からない。けれども、彼とはずっといたいと思っている。片時も離れたくない。離れてしまった時、自分がどんな心境になるのか想像する事も出来ない。
二人の時間、これから、二人で旅路を続けていたい。そんな感覚。
今、強い思い込みに支配されているのが分かる。色々な妄想が膨らんでいく。幸せな生活。幸せな人生。頭の中でどんどん妄想が肥大化していく。
そして、ふと、自分でも何だか馬鹿馬鹿しくなる。飛躍し過ぎではないだろうかと。
指輪を買う事だって、ソルティの優しさからだ。テレサの好意に彼が付き合ってあげているだけ。
けれども、テレサは願うのだ。
いつか幸せが訪れるのだろうか。
ソルティの悲しみを全て飲み干してしまいたい。きっと、彼は生きている事がずっと辛過ぎたから。
少しでも、彼の支えになって上げたい。
多分、この先、こんなに人を好きになる事なんて在り得ないのだから。ずっとずっと、一緒にいたいという気持ちが重過ぎて。彼の事を正確に見る事なんて出来ない、盲目が自分の心を支配していく、けれども、それで良いのだと思う。
テレサは温かな感情を胸に秘める。どうしようもない気分。
「僕の『グール・ブレス』は君を……ザルファを。守れるかな?」
彼は儚げに微笑む。とてつもなく、優しい微笑。彼に会う為に、今日まで生きてきたのだ。彼に会う為に、自分は生まれてきたのだろう。
そんな風に、強い空想が広がっていく。
「僕はちゃんと君を愛せるのかな?」
「分からない?」
「未来の事なんて分からないよ」
「そう」
ぽつりぽつりと雪が降り注いでいく。握り締めた掌が温かい。
†
デス・ウィングは山頂の上を歩いていた。
高く険しい場所だった。猛吹雪が吹き荒れているが、何故か彼女の周囲には吹雪が当たらない。
人間の持っている悪意。それは彼女にとってとても、神聖なもの。
恋愛など出来なく、人の温もりも感じる事の出来ない彼女は、ただただ人間を観察する事のみに意味を見い出している。本来ならば、存在してはならない者なのかもしれない。
この肉体は、人の身体をしていない。そして、この心も、人の心など持ち合わせてはいない。
みな、何を信じ、何に生きるのか。そして、どうすれば彼らが縋っていくものが壊れていくのか、それをただただ、眺めていたい。
戦争が始まる。いや、もう始まっている。
デス・ウィングは全てに喜びを見い出している。
彼女は、背徳を生きる。この世界の道理に背いて、世界を俯瞰する。
人間だった頃の事を微かに思い出す。ずっと、怠惰な生活を送り続けていた。今もそうだ。貴族の出身故、大切に育てられたのだろう。
沢山の人間の闇が記された書物を読み漁った。それらを恐怖する事無く、好んでいった。
そして、書物に記されている世界観をこの両目に焼き付けたくて、旅をする事となった。
人間の持っている総体的な負、それは彼女にとってはとてつもなく好ましいものなのだ。
そういうものと触れ合っている時に、強く生きている実感というものが湧き上がってくる。とてつもなく楽しくて仕方が無い瞬間がやってくる。
強く嗜好している反転した世界。それが彼女が見ている世界なのだ。
それにしても、両親がいなくなって、どのくらいの月日が流れていったのだろう。いや、そもそも、自分は本当に人間だった時間が在ったのだろうか。もはや、あまり思い出せない。
ただ、この世界は無常だと考えている。その中で、自分はどのような位置を占めているのか。あるいはその事をずっと思索してきた。
「さて、貴方はどうするんですか?」
後ろに、性別不明の存在が立っていた。
他人の死と名乗る者。
デス・ウィングは少しだけ、笑った。
「見届けたいな? さて、テレサやデュラスがどう動いていくのか。興味がある」
自分は孤独なのだろう。その孤独は持て余してしまう程のもので。
何もかもが凍り付いていく中、二人の周りには風や雪がすり抜けていくかのようだった。
まるで、二人は切り絵のようにその場所に佇んでいた。
この世界が抱えている重力。
†
誰でも幸福になる資格があるのだと思う。
ソルティはザルファを幸せにするにはどうすればいいのだろうと悩んでいた。彼はずっと、苦悩し、過去のトラウマと戦い続けている。
いつになれば、ザルファは解放されるのだろう。彼を縛っている鎖とは、一体。何なのだろう。過去を変える事は出来ない。でも、未来の彼は心の底から笑っていればいいと願っている。流れていく時間。ザルファの傷は深く、深く、掘り込まれていく。
ソルティはザルファの背中に彫られた逆十字の刺青を知っている。
姉によって、彫られたもの。
死ぬその瞬間までに、刻印された悪徳そのもの。
精神錯乱の果てに、ザルファを慰め物にした姉。
そして、ザルファはいつも、明滅するような姉の幻影のフラッシュバックに襲われ続けている。
…………自分を信じれば、テレサは不幸になるだろう。それは間違いない。
夢は叶わない。
何処かで知っている。
この凍えそうな空間の中で、ソルティは一人悩む。
戦争寸前のヴァーゲン。グローリー。
全ては神の掌のようで。
自分の生い立ちを考えて、何処か幸せになる事を拒んでいる。
人々は熱心に新聞に読み耽っている。
みな、不安によって彩られている。
他国の脅威、テロリスト達による内乱。新聞記事には不安を煽るような文字ばかりが並んでいる。人々は愚痴り合い、そして溜め息を強く吐き出す。
祝祭日の日に向けて、みな。祈りを捧げている。それは祖国に神が存在して、信仰があった事の証なのだから。
今や、誰も。この大地に神が存在するという事を信じていない。確かに教会は存在する。大聖堂に布施も集まる。けれども、何処かで、みな、神の存在を疑っている。
信仰が次第に死んでいっている。
ソルティは思う、一体、信仰とは何なのだろうかと。彼が信じるものは死体だ。彼は死体を愛している、亡骸を。
いつから死に耽溺し始めたのだろう。生の中で生きて幸せになるヴィジョンを思い描けない。
本当は酷く、諦めも知っている。
自分はまともな幸福を思い描いた事が無い。だからなのか、死という媒体そのものが美しいのだと考えている。
この街は二極化している。
貴族達の一部。官僚達は酒やトランプ遊びに耽っている。
その一方で、スラム街は増えていっている。
ソルティの育った国も、そのような場所だった。
ソルティは娼夫として生きる運命にあった。けれども、その運命を投げ捨てて今がある。
その筋の男達に身を捧げる事を教えられて育った。
思う事は、女性を愛する事は出来るのだろうかと。
不安ばかりが募っている。でも、まずはとても好きになってみるのもいいかもしれない。これから長い時間を二人、重ねていくのだろうか。
もしかすると、幸福という解答が得られるのかもしれない。信じる事が出来れば、それは未来へと繋がっていくのかもしれないから。悪い思念ばかりを抱えていても、仕方が無い事なのだから。
ソルティはテレサとザルファの事を考え続ける。
この先、未来は何が待っているのだろうか。
何十年後かにも、同じように。テレサと一緒に手を繋いでいられるのだろうか。
†
テレサは亡霊を見る。彼女は物心付いた頃から、亡霊と対話していた。
彼女は元々の性格が天真爛漫なため。それらの存在が怖いとは思わなかった。彼女が見えている世界は美しく幸福なものだった。
生きている人間よりも、彼らの方が優しいのだろうと。テレサはぼんやりと直感していた。寂しさを紛らわせてくれるのはいつだって、彼らなのだから。
孤独という感覚が彼女にはよく分からない、愛されて育ったのだから。
とてつもなく怖い存在ではあるのだが、それでも何だか違うんじゃないかと思う時がある。
彼らは何者なのだろうか。でも、やっぱり優しい。
非現実の狭間の中を漂っている者達、時折、彼女に助言を与えてくれる。
自分は幸せになれるんだと確信している。全てが、巧く巡っているのだから。故郷を出て、本当によかったと思った。
現実とこれから直面していくのだろう、見なければならないもの、言わば、直視しなければならないもの、対決しなければならないもの。
幽霊達はざわざわと戦慄いている。テレサは彼らを見ないようにする。
何故、自分には幽霊の姿が見えるのか分からない。
様々な亡霊達の幻覚が浮かんでは消えていく。果たして本当に実体として、彼らは存在しているのだろうか。ひょっとすると、テレサの根源にある何かが見せる不安が、彼女に幽霊を視せているのかもしれない。
一体、未来はどうなるのか分からない。けれども、今だけでいい。今だけでも、幸福の中を生きていたい。ソルティは自分の事をどう想っているのだろうか? 想い続けて欲しい。
自分は幸せになるために、生まれてきたのだと確信したいから。
今、どうしようもなく愛されたいのだと知った。
自分こそが、世界の中心にいるのではないかと思った。
導いてくれたのは、デス・ウィング。
此処まで来たのは、テレサ。
運命の歯車が回転していく。
他の誰かが、導きの証なんかじゃない。自分の道筋は自分で決めたいのだから。
ソルティはとても優しい。同じように世界を視られたら、とても嬉しい。
この空間を、ずっと共有していたい。
テレサはミルクとシュガーを沢山入れた、コーヒーを口にする。
この前、ソルティと行ったコーヒー・ショップのコーヒーの味が忘れられない。とても芳醇で、それでいて、身体の中に染み渡っていく感じ。
また、あのコーヒー・ショップには行ってみよう。巡ったパフェの店にもだ。
そういえば、人生というものはいつ終わるか分からない。
だからこそ、今を楽しもうと思っている。
今という瞬間はきっと、とても大切なものなのだから。
人はいつか死ぬんだと彼女は思った。
この街ではもうすぐ、戦争が始まる。テレサはソルティと共に逃げ出そうと思っている。けれども、何故かソルティはこの街に留まりたがっている。
†
プルシュは子供達の笑い声が見たい。
民族や国家を超えて、彼は子供を愛しく思っているから。
子供は未来の希望の象徴だ。明日へと託すべきもの。
希望は神聖さを生み出す、今よりも正しい未来を築き上げていくだろう者達、彼らの存在を守らなければならない。
その為に、彼はつねに命を捨てる覚悟がある。しかし、覚悟とは本当にどれ程のものなのだろうかとも思ってしまう。自分の持っている覚悟など、矮小なものでしかないのではないのかとも。
彼は異国の宗教に縋り付いている。
ヒースを殺せば、間違いなく救われる者達が出てくるのだ。
彼女は人類の進化を促進させようとしている。
遺伝の構造を破壊し続けて、新たなる地点へと向かおうとしている。
プルシュ一人の力ではどうにもならない。
自分はあまりにも、無力なのだと知る。
それだけ、自分とヒース、それから彼女の兵団の力の差は開き過ぎているのだから。
施される人体改造。人と機械、動物の区別が付かなくなっていく。
ヒースの力『テンパランス・リバース』を止められるものなどいないのだから。
人が人で無くなっていくという事。
背信、背徳。それは一体、何に対してなのだろうか。
神なのか、自然なのか。あるいは万物の理なのだろうか。
プルシュは重く潰れそう。泣き叫ぶ子供達の声によって、毎晩、毎晩、魘される。終わりの無いような悪夢。夢は叶わないまま、このまま朽ちていくのだろうか。けれども、まだ戦いたい。
自分はあまりにも無力過ぎる。あの兵団達に立ち向かう力なんて無い。
けれども、屈する事など出来はしないのだ。
子供達の笑顔を失いたくない。
それにしても、彼にとって子供とは一体、何なのだろうか。
やはり、彼自身が神聖なものだと思っている何かなのだろう。
†
何が幻想で何が真実なのか分からない。
ただ、状況の変革を望んでいるだけなのだ。
どうにもならない閉塞感。その中から抜け出す事が出来ない。
生きる意味だとか、生きる価値だとか。一つも見当たらないもの。
ザルファは戸惑いながら、この世界に対して苦しんでいる。
何の為に生まれてきたのか、何の為に存在しているのか。それがまるで理解出来ずに。空しくて、悲しい日々を送り続けている。何も見当たらないのだから。この世界に与えられたもの。
背中に刻印された闇色の十字架。
それは生涯、背負い続けるものなのだから。
自分は一体、何故、存在しているのだろう。それをずっと背負い続けなければならない。何の為に生きて、何の為に死ぬのか。
それでも、ただ真実なのは呪詛があるという事だ。
この世界に毒を撒きたいと願っているという事だ。
女に対する憎しみばかりが増大していって、その支配から抜け出せそうにないから。こんなにも苦しむのはきっと、自分は生きていてはいけないのだと何処かで知っているのだから。
†
運命は分かれていくのだろうか。
死体ばかりしか愛せなかった自分が、生きた人間を愛している。
けれども何故か、違う人生に進む事が怖過ぎて。自分の人生の形が分からなくなってしまっている。此れまで積み上げてきた自分の感覚、感性。それはきっと、テレサとは相容れないものなのだろうと分かっている。
だからこそ、幸福になる事が怖過ぎるのだろう。
遠い国から旅をしてきた。
故郷においては、娼夫という仕事に就くしか無かった。それがとてつもなく、嫌だった。運命を捻じ曲げようとしたのだ。
ザルファの事ばかりが、亡霊のように湧き上がる。
これまで、ザルファと共に生きてきた。生きようとした。
自分は一体、どうなるのだろう。
これまでの自分の全てを捨てる事になるのだろうか。
それもいいかもしれない。もし、これまでの自分を否定するだけの価値に巡り合えるのならば。
自分の力『グール・ブレス』。
それは、死人を弄ぶ力でしかない。
死んでいる者は美しいと思う。きっと、ザルファに惹かれたのは。彼が生きながらの死人のように映ったからなのだろう。けれども、今はほんの少しだけでいい。テレサの温もりに触れていたい。死者の世界の中でしか生きられなかった自分。ずっと、その中で生きていくのだろうと考えていた。それが当たり前なのだと。太陽の光など、欲しいと思った事さえ無かった。
自分の胸に触れる、命の鼓動が鳴り響いている。
そう、自分はまだ死体ではないのだ。生きた存在として、精神を有している。
生者の自分は、死体を本当に理解出来るのだろうか。分からない。
加工している死体がとてつもなく好きだ。
ネズミや蛇、トカゲや虫、それらは彼の力であるグール・ブレスによって動き出していく。動き始めると、まるでパーティーのようになっていく。
生きているものよりも、死んでいるものの方が好きだ。
それは歪な感覚なのだろうか。
しかし、何処か奇妙なまでの不可思議さ、あるいは自分自身の死の先が分からないからこそ。理解するものが不可能なものとして、彼は死を愛でたがる。
戦争が始まろうとしている。
テロリスト達も横行している。
けれども、二人の世界には関係が無い。犠牲者は積み上げられていくだろう。でも、せめて自分達だけでも幸福になってもいいんじゃないのか。そう思えて仕方が無い。
何に生きて、何に祈るのか。
それは大きな命題なのだ。二人自身の問題としても。
どちらもきっと、不器用なのだろう。お互いの事は分かり合えないのかもしれない。
不安定に揺れ動いていく感情は、着地地点が見えてこない。
今、どちらに転ぼうか迷って悩んでいる。
テレサとザルファ。
どちらの見えている世界が正しいのだろうか。
きっと、二人共、正しいのだろう。それは彼らの生き方人生が全然、別のもので。そうやって刻まれていった道標となって、今という自己を作っていったのだから。
闇と光という概念では単純に分ける事が出来ず。ただ、頑なに必死で二人共生きているのだとソルティは思っている。
不器用だな、と自分でも思う。
そういえば、女性に対する接し方なんて分からない。どういう風に、関わっていけばいいのか、本当に分からないのだ。
それにしても、婚礼か。そんな事、出来るのだろうか。
まったく現実感が無い。テレサは大きな意味では世の中の事を何も知らない。
育ちが良いのだろう。愛されて生きてきた事がよく分かる。
ソルティの中にある闇が消える日が来るのだろうか。
もし、消す事が出来るのならば。幸せの形を模索してもいいと思う。
†
ムシュフシュは軍人達を厳しく躾ける。
彼は国家の領土拡大も考えていた、グローリィ以外との国家と戦争する事も念頭に入れている。しかし、デュラスは傅かない。
国をより良いものにしていかなければならない。
旗を振り翳す。
ヴァーゲンの国旗が翻る。
旗印の男が喇叭を吹く、騎兵隊は歓声を上げる。
楽器隊が笛を吹き、ドラムを鳴らす。
レコンキスタが必要なのだ。
腐敗していく国家を立ち上がらせたのは、つねに愛国心だった。
この国の歴史を終わらせるわけにはいかない。
民は国とあるべきであり、国が滅ぶ時には、また民も滅ぶからだ。
そう、彼は信じている。
軍人である、という事は。使命を果たすという事なのだ。彼もまた、デュラス以上の愛国主義者でなければならないのだ。
デュラスには頑張って貰わなければならない。
この国の主として君臨して貰わなければならない。
†
ジルズは暗い牢獄の中を見る。
鉄格子から、星の明かりが入り込んでくる。
一体、自分の為すべき事とは何だったのだろう。
湿った地下牢。
時折、芥虫などが入り込んでくる。天井ではネズミが騒ぎまわっている。
床をよくよく見ると、長年、こびり付いた血液が残っている。
バケツの中にある汚物の臭いが漂ってきている。
ホームレスをしていたため、慣れたものだ。しかし慣れないのは、どうしようもない程の孤独感だ。この世界において、自分は一人きりなんじゃないのかと。
彼は望んでいる、たとえ達成されなくても。デュラスを始末しなければならないのだと。
デュラスを殺す事、その事によって、一体、何の意味があるのか分からない。それ自体がもはや、目的化している。しかし、それを行わなければならない。
それはもう、どうしようもない程の衝動なのだ。
自分は革命家として生まれてきたのだと思っている。
この国家を破壊する為に、新しい秩序を取り戻す為に。その為に自分は生まれてきたのだと。
人民を自分は愛しているだろうか。仲間達は愛していると思う。
自分が死ねば、どれ程の人間が悲しむのだろうか。
ホームレスの仲間達、彼を慕っている弟分、みんな悲しむ。苦しむだろう。
ザルファの事を考える。彼はどうしたいのだろうか。
自分はただ、処刑される期日ばかりを待っている。何か楽しかった記憶など無いのだろうか。脱獄するだけの体力が失われてきている。この牢屋、どうやっても抜け出せそうにない。日々、段々と、此れまで培ってきた自分の自信というものが崩壊していく。
自分は此れだけ、弱かったのだろうか。とても不思議でならない。
此処からは日の光があまり当たらない。そういう風に設計されているのだろう。昼になると、鉄格子は何故か閉じられる。けれども、夜空を見上げる祝福は与えられている。贈り物のつもりなのかもしれない。昼と夜では看守が違うから。
ただ、自身の死を待つばかりの中で。それでも、自分の生きた理由と死ぬ理由と対話させるために、星空を見せてあげようと。そんな配慮なのかもしれない。
そういえば、何冊かの聖書や聖典を渡された。ヴァーゲンに伝わる伝記なども。
それを開くと、宗教的な言葉がずっと並んでいる。学の無いジルズにはよく分からない。
しかし、行間から伝わってくるものもある。自分自身の生きた目的を、せめて終わりの瞬間には、赦してしまおう。そう、感じ取れる。
本を開いていくと、所々に文字が記されていた。
床にこびり付いた血液やカビなどで記していったのだろう。
色々な人間の心情などが書かれている。
この国の未来に対する嘆き、家族への手紙、恨み言、様々だった。けれども、みな、処刑台へと上っていく。ひょっとすると、拷問台へ向かって、何時間にも渡って殺されていくのかもしれない。
ジルズは今、判決を待っている。自分は敗北者なのだ、それは間違いない。
負けてしまった瞬間に、自分の全てが否定されていく。これまで信じていたもの、これまでの闘争、全てが無意味なものなのだ。
自分の人生の中で、幸福だった頃の記憶を思い出す。
子供時代、父と母の笑い声を聞いた気がする。彼らはどんな言葉で、ジルズに語り掛けたのだろうか。
記憶というものを辿っていく、幸せだった時間はもう二度と来ない。今は、その時の温もりが蘇ってきて、戻りたいと願っている。けれども、現実は牢獄の中なのだ。
友人達の笑顔が思い浮かぶ。明滅しながら、消えていく。
自分の人生、大層、幸福だったんじゃないかと思えてしまう。
叶うならば、今、死んでもいい。どうせ殺されるのならば、自らが自らの命を絶ちたい。けれども、自分の力はこの牢獄の中では効果が無い。封印のようなものが施されているらしいからだ。
自分の才能の全てを否定していく、災厄。
自尊心の何もかもが、崩壊していく。
鉄格子を握り締める。当然、硬い。何度目かの脱獄の発想。街の景色も見えた、ぽつりぽつりと屋根に付随した煙突の上から煙が上がっている。今頃、パンを焼いているのだろうか。ケーキかもしれない。そういえば、食卓の時間だ。
喉元に唾液が溜まっていく。
肉の味、野菜の味、香辛料の味、お菓子の味。色々と口の中へと運んだ。ひょっとすると、自分は幸福だったのかもしれない。それを忘れていただけなのだ。
可能ならば戻りたいと願っている。生きる意味なんて見出せなかったけれども、ロマンがあり、情熱があった。今はそれが失われてしまっている。
†
デュラスは落ち込んでいた。
今、ヒースに攻められたら。どれくらいの者達が殺されるのか分からない。彼女には愛国心があるから、何百年と続いてきたヴァーゲンの街を守る義務があるから。
国家を維持して行かなければならない。未来においては、貧困の差異が無くなっていくのかもしれない。しかし、それはヒースの国家を倒してからだ。
物質が明らかに不足し、権力者や資産家達は腐っている。
此処には、自殺者も絶えない。
つまり、自分自身の政策は問題ばかりだという事になる。
デュラスは自身が暴力を行使する立場にいる。
けれども、女性的な感性からか。それが男のようにとても割り切れそうにない。
これまでのヴァーゲンの主達は、ただひたすらに国家を維持する事に信念を抱いてきた。
彼女は、何とかして。彼女なりに、そういったものを変えていこうと考えていた。
やはり、女は駄目なのだろうか。デュラスは落ち込む。
まるで、ザルファが耳元で悪意的に囁き掛けてくるかのよう。
彼の瞳に狂いそうだ、悪魔の囁きのよう。
実態として、ムシュフシュやワーロックなどに支えられて、独裁者の地位にいる。独裁を維持していかなければ、国家が壊れてしまう。それは伝統なのだ。
革命の歴史の本を開く、革命家達は、みな敗北していっている。彼らは此方に届かないのだ。
それ程までに、国家というものは強く、巨大なものなのだ。
デュラスは身につまされる、人事では無い。
今、グローリィとの戦争が目前に控えている。兵糧が不足していると、戦争には敗北する。明らかに、ヴァーゲンでは分が悪い。自分自身は、テロリスト達と、一体、何が違うというのだろうか。
けれども、デス・ウィング。
あの存在。あの得体の知れない化け物が来てからが、何か歯車が壊れてしまうような気がした。秩序の全てが破壊されていくんじゃないのかと。
あれはどう考えても、悪魔そのものだ。
話して分かった。
あの女は、……ひょっとすると、姿形こそ女の形状をしているが。女ではないかもしれない、あの異形は。こんな国家なんて、簡単に捻り潰せる力を有しているのだ。
デス・ウィングの気まぐれ次第で、ヴァーゲンなんて滅んでしまう。
歴史というものが、徹底されて破壊されていく。
他の国の文献を読み漁る。五十年しか続かなかった国家、革命家達に権力を取って変わられた国家。共産主義や社会主義が確立していった国家、様々だ。
分からないのは。
ヒースの思想とは一体、何なのだろうか。
それは、究極のアナーキズムなのではないのかとデュラスは推測している。
人間という存在を止める事。進化への過程。
人間が人間で無くなれば、この世界のシステムの変革が巻き起こる。
それはとても、魅力的なのかもしれない。
しかし、万物に対しての大いなる冒涜も行っているのも事実だ。
デュラスはヒースの世界を受け入れる事なんて出来ない。
このヴァーゲンがヴァーゲンとして存続する意味、それは歴史に根拠性や宗教性を求めるしかない。この大地にだ。あるいは、何十年、何百年もの間、この地を照らし出した太陽と月に。星々に。
苦しみとは一体、何なのだろうか。
やはり、デュラス自身。今、苦しんでいるのだと知る。
†
ザルファを見た瞬間から、デス・ウィングは決して信用してはいけない存在なのだと思い知らされた。彼女は希望なんかじゃない。ただ、死を振り撒きに来た疫病のようなものだ。
あの二人からは同じ臭いがする。
何というか、死の向こう側を超えた存在とでも言うべきか。
とてつもなく、この世界に対して呪詛のようなものを抱いている。そんな処、なのだろうか。
ザルファは本当に恐ろしい。
デュラスは彼に近付きたくない。けれども、彼が切り札になる可能性は高い。
どんなに危険な武器も、使い方次第だ。それは勇気を持って使わなければならない。
勇敢さを失う事、覚悟を失う事は、何にも耐え難い敗北でしかないのだから。
情報によると、武力では。とうにヒースとグローリィに勝てない事も知っている。どうにもならない。どんな戦略を立てようが、圧倒的な物量戦と理不尽な暴力、強力な近代兵器の前では無力なのだ。
金がいる、土地がいる、人民がいる。あらゆるものがいる。
そして、ヴァーゲンにおいてはそれらのものが足りているのかどうか分からない。
戦争にとって犠牲は付き物だ。それはもう、どうしようもない事なのだ。
この世界は誰もが幸福になれるわけではない。犠牲は必要な事なのだ。その事に無自覚なものは、足元を掬われる。そして敗北していく。
デュラスは理想も現実も獲得しなければならない、この国を深く愛しているからだ。
官僚や政治に生きる人間というものは、実は深く孤独なのだ。
人は万能ではない、だから最善を尽くす他、無いのだから。
ヒースの兵器工場の設計図が、今。テーブルの上に広げられている。
デュラスは頭を抱えていた。
人体改造、幼少期からの戦闘訓練。
彼女は人の命を何とも思っていない。全ては進化のための過程でしかないのだと考えている。
しかし、それでも敗北する事が分かっていても、戦い続けなければならない。
デュラスには愛国心があるから、人民を守らなければならないのだから。
多くの者達の犠牲によって築き上げられた都市を、守らなければならないのだから。
自分には力はあるのだろうか。
決断しなければならない。
「私自身もまた、命を賭すか?」
答えは出ない。
†
ヴァーゲンの街に着いた。
街は活気付いている。
プルシュは此処の通貨も用意してある。まずは宿泊場所を探そうと思う。
落ちている新聞を拾う。どうやらテロの話や税金の引き上げの話で持ちきりだ。それから、新たに出版された作家の本や観光所におけるトナカイの増加。新しいジャンク・フードの紹介、最近の裁判の記事などが記されていた。
街の人間は何処か余所余所しい。もしかすると、外から来た人間が嫌いなのかもしれない。
戦争が始まろうとしている事が分かる。みな、不安によって彩られているのだ。それにしても、自分は本当に目的を果たせるのだろうか。
戦わなければならない、ヒースを討伐する為に。
やるべき事は沢山、並んでいる。どうしようもない程に。
成し遂げる事が出来るのだろうか、分からない。
しかし、どれ程、辛い現実と対面したとしても戦い続けるつもりだ。
子供達の未来、希望、それらを守らなければならないのだから。
ヒースの国家は腐っている。きっと、この国家もかもしれない。
ただ、まだ此処はマシだ。階級によっては幸福な者達も多いのだから。
幸福とは何だろうか、とふと思う。自由を謳歌出来る事。それは、思考して、自らの意思で行動する自由なんじゃないのだろうか。
それでも、息の絶えるまでは戦い続けようと考えている。
粉雪が舞い落ちてくる。
空を見上げる、何処までも青い。
肌寒く、胸の奥まで凍えそうだ。それでも闘争は終わらない。きっと、自分も敗北するのではないのか。勝てる見込みの無い戦いを続けている。それでも、終われないのだから。
此処にも、社会の裏側がある筈なのだ。
それを探し当てようと考えている。
テロリスト……。もし、彼らに会えるのならば、協力を願いたい。
デュラスもヒースも倒してしまえばいい、プルシュはそう考えている。
†
希望とは世迷いごとなのだろうか。
這い回るハツカネズミ達、鶏達。全て、死体だ。
ソルティは動き回る生き物達を愛している。
白いネズミの方は、部分部分が腐り。市場で買ってきた鶏は羽根が毟られ、首を切り落とされているものもいる。
彼らは動き回る。まるで、生きていた時と同じように。
それを見ながら、彼は何だか安心感を覚えるのだ。自分でもおかしいと思っている。
ソルティは死体と対話し続けている。ずっと、死人と一緒だった。
自分は神話の戦死者の魂を駆り立てる女神なんじゃないのかと思い続けている。
女のような顔、身体。その上に甲冑を纏っている。
ソルティは彼らの声を聴いている。彼らは語り掛けてくる。それは、とても安らかな響きを持っている。
彼はもしかすると、生者を愛していないんじゃないのかと、自分を責める。
ザルファに死者の影を見ている。彼は生きながらにして死人なのだ。
†
プルシュは街中を徘徊していた。
主に路地裏を巡っていく。路地裏は入り組んでおり、明らかにスラム街のようなものが作られている。
ゴミ捨て場を漁っている子供。彼らは顔色が悪そうだった。
明らかに病原菌に侵されている、長くは無いだろう。顔には腫瘍のようなものも出来ていた。
プルシュは彼に、今日の食事代を与えようとする。
すると、子供は食って掛かって、財布ごと奪おうとした。
プルシュは溜め息を吐く。子供は彼を罵りながら、何処かへと去っていった。
「どうしようもないな、俺は」
少し、その子に本気で腹を立てた自分が嫌になる。
問題は、子供にあるわけではないのに。
この辺りでは、ホームレス達が台車を引いていた。彼らは古新聞や拾った家具などを売っていた。
この街の法律がどうなっているのか気になる。少なくとも、グローリィよりはマシな筈だ。けれども、何だかやるせない。
彼はスラム街の広場に行った。
すると、そこには晒し台が置かれていた。
沢山の者達が、吊り下げられている。
デュラスによって、処刑された者達らしい。
人々がその光景を遠巻きに見ながら、祈りを捧げている。
圧倒的な暴政を感じた。
最近では、謀反人は問答無用で処刑しているらしい。
感情が渦巻いていく。
その光景を目の当たりにして、プルシュはデュラスも始末しようと思った。
二人の独裁者、生かしておくべきではない。
何が秩序なのかと思う、そんなものに一体、何か意味があるのだろうかとも。
子供達の未来。自分もまた、テロリストなのだ。
グローリィにおいての、たった一人のテロリスト。
だから、同じように革命を望む者達を探している。
自分と同じ目的を有したもの。この秩序に反抗したいと望んでいるもの。必ずいる筈なのだ。
ジルズが捕まったと、誰かが叫んでいた。
プルシュは振り返る。ジルズが捕まった、と。その話ばかりが聞こえてくる。
ジルズとは一体、何者なのだろうか。訊ねてみたい。
直観が告げている、何か重要な事なのだろうと。
何かが言っている。ひょっとすると、自分と近しい者なのかもしれない。
咆哮のような叫び声が聞こえてきた。
更に遠くでは、労働者達のストライキが起きていた。彼らは口々に日々の鬱憤を叫んでいる。兵隊達は適当に彼らをあしらっていた。
†
国家は巨人のようなものだ。戦争もまた、巨人のようなものだ。
人間の手に負えなく、簡単に踏み潰されてしまうもの。
暗黒の画廊を、デス・ウィングは歩いている。
巨大な巨人の絵が描かれた絵を凝視する。それは都市の上を、巨大な巨人が覆い尽くそうとしていた。
この邪悪な画廊の中で、人々は何か恐ろしいものを見い出すのだろうか。
そんな事を、うっとりと空想するのは好きだ。
残酷な情景程、好ましいものは無い。
美術館を出る。それにしても、空がとてつもなく澄んでいる。
足元には雪が広がっていた。雪かきをしている者達も多い。
まるで、その情景、それ自体が不可思議なまでに絵画的だった。
美術館の中から出ると、あらゆるものに美的なものが宿っているように視えてくる。
デス・ウィングは人間の持っている闇を、悪意を嗜好する。
それは生まれ持った特質なのだろう。
この世界が嘘偽りだと、何処かで考えていた。
†
計画は練りに練っている。
まず、何よりもザルファをヒースの下へと送り込むべきなのだ。
ムシュフシュとその部下達をその警護に任せようと考えている。
ザルファの『ダーク・クルセイダー』の力さえあれば、ヒースを壊滅状態に陥れられる可能性がある。
問題は如何に、グローリィの領地の中に進入していけるかという事だ。
それは、諜報員達が練りに練っている。数部隊派遣して、一部は此方に戻ってきている。それで、ヒースの領地のルートはある程度、掴めている。
暗殺だったら、出来るぜ。と、ザルファは言う。彼の言葉は信用ならない。
彼は破滅的だからだ。自分の命を余り、何とも思ってはいない。それでは駄目なのだ。
信頼し合える仲ではない。
ザルファの恐ろしさは、自分がいつ死んだって構わないと思っている事にある。
処刑も拷問も、彼には通じないのだろう。
そういう眼をしているし、むしろ、拷問吏の方が彼に狂わされる恐れがある。それでも彼を手元に置いておきたいのは。戦力として多大に評価しているからだった。
彼の能力のヤバさは、皆がよく知っている。
女を老いさせていく力。
これによって、ヒースの部隊の中枢をなしている女達は、片っ端から駆逐する事が出来るだろう。
それにしても、やはり彼からは何とも言い難い異端とも呼べるべきオーラのようなものが漂っている。まるで底なしの邪悪さを帯びているかのような。
生命というものを憎悪しているかのような。
異質そのものであるかのような。笑む、その笑顔の裏には図り得ないばかりの邪気が潜んでいるのだろう。
それすらも、デュラスは買っている。目的を果たす為には、人ならざる力が必要なのだから。
デュラスは馬車の窓から外を見る。
どれくらいの犠牲者が出るのか、予測しなければならない。
国の存続の為に、国の栄光の為に。
†
きっと、この世界にずっと裏切られ続けられるのだろう。
それでも、ザルファは憎悪を糧に生きている。
心の中から湧き上がってくる、女に対する敵意を消す事を出来はしないのだから。
沢山の女達を殺害する事が出来る。
だから、デュラスの意見には賛同した。
デュラスは奇妙にも、珍しく不快にならない女なのだが。やはり、不信感は拭い去れない。
何を糧に自分は生きてきたのか分からない。ただ、姉の幻影を振り払いたくて生きてきたとしか言えない。それ以外に、自分には何も無かったのだろうか。
デュラスも含めて、女達の言葉が全て嘘ばかりに思える。いや、他人全てが嘘ばかりに思えるのかもしれない。
自分自身の心を、鏡で覗き込むように思考した時に。
やはり、自分には憎悪しか無いのだと知る。
まともに生きている者達に対しても、強く嫉妬している。
他人の人生が崩れ去ってしまえばいい。
そんな事ばかりを考えていたりする。
何度も何度も、反復していく過去の記憶を拭い去る事が出来ない。過去の事を消し去る事が出来るのならば。違った人生を生きられたのかもしれない。自分の人生は間違っている、それだけは理解しているつもりだ。
しかし、自分は何処まで行っても自分でしかない、呪詛に塗れながら、普通の人間を深く憎んでいる。
普通になれるという事実を憎んでいる。
自分が酷く踏み躙られている気分になってくるからだ。
裏切りによる不信感。他者を傷付けずにはいられない自分。
どうしようもなく、憎悪の刃を向けるしかない者達ばかりだ。
何もかも、老いて朽ちていってしまえばいい。
権力も資本も何もかも。女達も皆殺しにしてしまいたい。
ザルファは暗い夜を見上げる。ソルティは彼を救う事など出来ないのだろう。
青い悪魔の凄惨な虐殺を目の当たりして、彼をとても好きになった。
あの光景をまた、再び、見てみたい。
ひょっとすると、そればかりを今は生きる糧にしているのかもしれない。
†
ジルズの友人である少年がいた。
彼はまだ十五にも満たないのだろう。
プルシュは彼の頭を撫でる。とても柔らかい、少し癖のある毛だ。
彼は話してみると、早熟で。世の中に対しての色々な疑問を呈してくれた。
こんな少年が社交界にいたのならば、どんなに良かったのだろうかと、プルシュは思って仕方が無い。此処の領地も腐っている。
才能が沢山、潰えていく。未来に対する可能性が。
ジルズは思い詰めていたと言う。彼の兄貴分が処刑されて以来、ずっと復讐を企てようとしていたのだと。
プルシュは子供達が可愛い。だから、彼らのためにこの世界を赦したくはない。どうやっても彼らの無情な死は賄えないと思うのだから。だからこそ、この世界に復讐が必要なのだと思っている。独裁者達を倒す事、それにプルシュは未来を賭けている。
倒した後の次の時代を考えるだけの余裕は無い。プルシュには情念ばかりがある。
その情念をこの辺りの者達も共有している。
国家、体制の破壊。それによって何かが変わるのではないのかと。
少なくとも、今よりも良いものが誕生する筈なのだ。希望を持つ事というのは、そういう事なのだから。
何故、この世界は弱き者が暴力に晒されていくのだろう。
体制という存在。
もし、体制の裏側にもう一つの世界を作る事が出来るのならば。
プルシュはこれ以上は思考出来ない。感性がそれ程、優れているわけではないから。ただ、子供達の辛さが苦しい。いつもいつも苦しく思っている。
きっと、酷く幼い頃の自分と重ねているのだろう。
ぼんやりと強い疎外感のようなものを覚えている。
子供の頃の記憶が薄い、彼はネグレクトされて生きてきたような記憶を覚えている。それは仕方が無かった。彼の住んだ地域では、子供というものは親の所有物みたいなものだった。そういう環境だった、みな、同じように育った。
しかし、プルシュには、そういった環境が苦しかった。
それはきっと、幼い頃に読んだ他国の絵本を開いてからだ。
そこには、親や仲間達に愛される黒い肌の子供の絵が並んでいた。不思議な感触を覚えた。ああ、自分の生きている体制のルールはおかしいのではないのかと。
それから、彼はこの社会に対して、あるいは世界に対して、疑問を持ち始めた。
そして、彼は子供というものを神聖視するようになった。
堕胎児さえも愛しく思えるプルシュ。決して、彼らは生まれなかったわけではないのだから。
国家の存続、未来の軌跡は。何によって賄われるのだろうか。
可能性が死んでいく。どんな才能を死んでしまえばそれで終わりなのだ。
†
ヒースの全貌が見えてこない、明らかに情報が不足している。
それでも、倒さなければならない。
デュラスは悩みに悩んでいた。
自分一人の存在が、何万名、何十万名、何百万名以上もの国民の運命を左右するのだ。
国家の頂点に立つという事は、重荷以外の何物でもない。
自分にはどれだけの力量があるのだろうか。しかし、意志を保ち続けるしかないのだ。
どんな犠牲を伴ってでも、国家を守り抜かなければならない。
感情を鉄のようにしなければならない。
そうでなければ、闘争は不可能だろう。
情報によれば、近代兵器を作り出していっているという。
それには相応の奴隷を使っているのだと。
無数にある兵器工場。
メタリックな世界。
人間は進化の過程で、いらないものを排除していかなければならない。少なくとも、ヒースはそう考えているのだと聞く。創造する為には、此れまで培ってきた人間の遺伝子や文明などを再構築していく必要があるのだと。
しかし、それ以上の情報が不足している。どうすればいいのか分からない。相手がどれだけの力を有していて、どれだけの威力のある兵器を持っているのか。
そして、此方側の戦力は。どれだけの犠牲者が出るのか。
権謀術数をどれだけ練り込んでも、限界は見えてくる。
物量戦において、此方の数が幾ら多くても敗北するかもしれない。明らかに情報が足りていない。デス・ウィングに頼りたくなる。あの化け物に。
時間というものは暴力そのものだと思う。日々、刻々と迫ってくる。
終焉の日が近付いてくるかのようだ。このままでは、グローリィによって占領されてしまうのだろう。このままでは、ヴァーゲンは滅びてしまう。
どれだけの者達を救えるのだろうか、今や貴族達は退廃している。そんな者達を守る理由などあるのだろうか。違うのだ。大切なのは、祖国そのものの維持だ。
過去の同胞、未来の同胞の為に、ヴァーゲンを維持しなければならない。
既に数え切れない同胞達が死んでいる。
抱え込んでいる問題が、あまりにも多い。思考を整理するだけでおかしくなりそうだ。
†
みなが苦しんでいるという現実。生きるってのはそういう事なのかもしれない。
全てが滑稽で、道化みたいなものだ。
ジルズは経過していく時間の下で、ただ処刑される事を待っている。
自分の人生を振り返ってみる。後悔する事が余りにも多過ぎる。しかし、自分という命そのものによって何かが報われるのならば、それでもいいんじゃないのかと思ってしまう。
生きる事は滑稽だ。窓の外は雪が降っている。そういえば、自分の年齢は幾つなのだろう。
幸せな時間はもう永遠に来ない。この世界との別れが、これから待っている。
牢獄の中にいると、色々なものを夢想してしまう。
全てはネガティブなもので、全ては突き付けられた現実だ。
処刑台の事、拷問の事、沢山の妄想が広がっていく。それは妄想ではなくて、直面している現実なのだ。これから訪れるであろう破滅、胸を掻き毟られそうだ。
今、死というものが目の前に迫っているのだ。それを受け入れるのは時間が掛かるのだろう。
あのザルファという男、彼とはもう少しだけ会話をしてみたかった。だが、それも叶わない。彼はデュラスの下で、どうするのだろうか。
どうにもならないのかもしれない。
どうせ未来には何も無いのだが、それでも足掻いてみるべきだろうか?
しかし、強い無力感ばかりに襲われている。どのようにしても、現実は変わらないのだから。
ジルズはジンクスを信じていた。あの時にああやっておけば、ああなるだろうだとか。
幸運の印みたいなのは、あるものだ。そして、今はそれが見つからない。当然だ、もう牢獄の中で終わりの鐘は鳴り響く運命にあるのだから。
どうにもならないのだと、覚悟している。
だから、今はただ、自分が何故、生きてきたのかを思索しなければならない。
大切な仲間達の顔が浮かんでは消えていく。
それは孤児の頃からそうだった。野垂れ死んでいく仲間達を見ながら、彼は一人、物思いに耽った事がある。
階層の頂点にいる連中は、どんな奴らなのだろう。もう、妬ましいとかそんな感情を超えてしまっている。今はもう折り潰す事ばかり考えていたいのだから。
殺意と敵意と憎悪と呪詛を、自分の中に溜め込んでいこう。
もしかすると、そうすれば。自分以外の誰かに怨念が憑依して、目的が達せられるのかもしれないから。
だが、つねに挫けそうになる。もう、何もかも終わってしまっているという事実は変わらない。
牢獄の中にいると、少しずつ自分が弱くなっていくのが分かる。これまでの人生に対する後悔ばかりが湧き上がってくる。しかし、それはどうしようも無い事なのだ。
全ては彼自身が選んだ道なのだから。
そういう結末に向かって、此れまで歩んできたのだから。
食事は美味くも不味くも無い。
残飯ではなく、それなりの味をしたコッペパンにジャクサンド、ミルクティーを与えられる。城の者達からしてみれば、貧しい食事なのだろう。しかし、ジルズは残飯を貪って暮らしてきた。腐った魚を食べる事にも慣れているし、物乞いをして生きる事も当たり前だ。拾った道具だけで生活していくのが日常だった。
皮肉にも、以前よりも良い物が与えられている。それは死刑執行人のせめてもの、手向けなのかもしれない。
冷たい風が吹き抜ける。
他人の人生を今、羨ましく思う。何故、此れ程までに弱ってしまったのだろうか。
理想は崩れていく、国家を破壊しようとする理想がだ。
あの美少女のような美青年は、これからどう生きるのだろうか。
彼のその後が見れない事が、一番の悔恨なのかもしれない。
幸福にとって必要なものは小石だ。角の無い丸い小石を探す事、そうすれば大抵、生き残れる。見つからなければ死ばかりだ。
運命というものは、ジンクスのようなものが存在する。それはたしかな事なのだ。しかし、彼は、今回、幸運の小石を見つけられなかった。だから、今、この状況にいる。
未来には果たして届くのだろうか。
どうすれば、理想を獲得出来るのか分からない。決断する前は、自分にはどうにでも出来ると思っていた。しかし、いざ動いてみると、無情な現実に晒されている。
未来が閉ざされていく中で、過去をどう肯定すればいいのか分からない。
崩壊していく精神を繋ぎ止める為に、自分の右脚を引っ掻いて、傷を付けていく。
しかし、ストレスで遮断されているのか、感覚がよく分からない。
冷たい壁の苔が、酷く此方の心を陰鬱にさせる。
一番、辛い拷問は希望が叶わない事なのかもしれない。夢見ていたものが全て崩れていきそうだ。ただ、死を待つばかりの今は何を考えればいいのだろうか。
それにしても、いつか何かに届くのだろうか。
彼は気を紛らわせるために、音を聞いていた。風の音、雨の音、雪の音、雷鳴、それから夜の景色。牢獄の中において、自由を感じるものは窓だった。
†
ザルファはナイフを研いでいた。
ダーク・クルセイダーだけでは心許ない。
どうせなら、毒を塗ったナイフを突き立ててやりたい。
感情の全てを込めて、敵を殺してやりたい。
デュラスから、ヒースという存在の概要は聞かされている。
あのヒースの兵団とは以前、戦っている。ザルファにとってはとてつもない、楽しみだった。帽子の中には、無数のナイフが入っている。
この帽子は、異空間になっているのか。無限に物が入っていく、ひょっとすると、肉体という時間を操る彼の力と何か関係しているのかもしれない。
「楽しめるんだよね?」
ザルファはムシュフシュに囁く。
筋骨逞しい男はとても嫌そうな顔になる。
何というか、彼からは血の臭いを感じる。血が好きで仕方が無いといった者の臭いだ。それは本当に毒々しく、少しずつ辺りの者達の心を蝕んでいくようだった。嫌でも、自分の業を突き付けられていくような感じ。その狂気を理解してしまうと、此方側まで闇の底を引き摺り出されてしまうかのような。
そう、言うならば。
彼からは。まるで、民話の森に住まう悪魔や魔女のような印象を受ける。
死の向こう側に生きている存在であるかのような。
言うならば、この世界の者ではないのだ。異質的な空気ばかりが漂い、そのような禍々しさを周囲に振り撒いている。見る者は、ぞっとするような怖気に襲われる。
親衛隊は集まっている。
計画としては、ヒースのいる本拠地に潜り込んで。ザルファがダーク・クルセイダーを使った後、ムシュフシュ達が突入して。ヒースを殺害するという事になっている。
†
プルシュは息を飲んだ。
見慣れてこそいるが、見慣れない光景だ。
あるいは、何度も、見ているからこそ。過去の記憶が映像となって反復して、此れまでの記憶も重なって、この光景がより重々しいものとなっているのかもしれない。
一人のテロリストが、今日、処刑されたらしい。
それは白髪の少年だった。
プルシュは自分と同じものを感じていた。
彼は“力”のようなものを持っていたのだろう。
そして、その力を巧く活用出来ずに敗北していったのだろう。
もし、生きているうちに出会う事が出来れば、良い友人になれたのではないのかと。悔やんで仕方が無い。
胸が張り裂けそうだった、まるで同胞の死のような。
来るのが遅かった。もっと早く出会っていればと惜しんで仕方が無い。
まるで、未来の自分自身と重なるかのようだった。
此処は死臭が漂っている、いつも見ているプルシュの世界。
死は存在するのだろうか、少なくとも、子供達は彼の中では生きている。生きているものとして、肉体を再生させている。
何がこの世界にとって苦しみなのか分からない。
どうすれば、解答が得られるのかも分からない。
連鎖し続ける悲嘆を賄う事は出来るのだろうか、プルシュには出来ないだろう。彼は彼自身が無力である事を知っている。
†
立場を変えれば、人間は様々な形で映る。
一方から見て、悪い人間でも。別の方から見れば、良い人間だったりする。当然、逆も言えるのだが。というよりも、人間は立場によって、見方が違うのだろう。
ワーロック。
ムシュフシュは、彼を見ながら。そんな事を考えていた。
ワーロックという老人は、祖国について熱心に語る。自然の素晴らしさ、美しさ。民族の持つ力強さの歴史。デュラスが戴冠する前から、この老人はこの地位に付いている。
祖国を愛している。だからこそ、この老人は他民族を幾らでも殺せる程に、憎めるのだろう。正義があるから、何処までも汚くなれる。
それは国家にとって必要悪なのだろう。それがあるからこそ、国家というものは維持する事が出来るのだ。
ワーロックは。国民達に、如何に敵国である『グローリィ』が汚い国であり、ヒースとその民族が劣等人種であるかを宣伝していた。
それこそが、彼の役目であり、彼が望んで行っている事だった。
ヒースをコケにした、張り紙も街中には撒かれていた。
これから。戦争が始まるのだろうか。
ムシュフシュでさえも、困惑している。おそらく、デュラスもだろう。
戦争が始まれば、国家の維持どころではない。
只でさえ、この国は物質が限られている。大自然の驚異の只中にもいる。
†
ザルファは白い拘束服によって。身動きを封じられていた。
彼と一緒に、城に侵入したテロリストの男の方も。今、身動きを取れなくしている。あちらの方は、ワーロックが何とかしてくれる筈だ。
デュラスはすぐに理解していた。
このザルファが発しているものは、異常な現象を引き起こす能力などではなく。彼の持つ、異質な雰囲気のようなものだ。
「ヒース。殺してやるよ、俺は元々、それが目的だったからな」
くっくっ、と彼は笑う。
デュラスは困惑している。
この男。……怖い。
これだけ無力化したにも関わらず、何をやってくるか分からない。
「俺の能力『ダーク・クルセイダー』。お前には効果が無いらしいが。ヒースの兵隊達には通用した。どうかな? 俺を送り込んでみては」
彼は愉悦を浮かべている。
何処か余裕があるかのよう。
こんなにも不自由なのにも関わらず、彼はとても自由そうだった。
その魔性の眼には、取り込まれてしまいそうだ。
「俺の身体に毒物や病原菌を注入してみてはどうだろう? 奴らにとって、最高のプレゼントになるんじゃないのか?」
ムシュフシュは、大型の剣を彼の首筋に向けた。
「デュラス様。どうします? こいつ。わたくしめが、彼の首を落としましょうか? 余り長く生かしていても、どうかと思いますぞ」
「…………。いや、彼と話がしたい」
デュラスは屹然と、緑の瞳をした黒髪の男を見据える。
「私の下には。デス・ウィングがいる。お前は奴よりも、扱い易そうだな。どうかな? 命を助けてやるから。私の下に付いてみてはどうかな? 別にお前はテロリスト共に、執着なんて無いのだろう?」
「ああ、無いね」
†
ザルファは女達の血を絞り上げた湯船へと浸かった。
肉体が満たされている感覚。
彼は本当に幸せそうに、血の湯船の中へと浸かっている。
女の死をとてつもなく、愛しく思っているように。まるで、何か大きなものに対して復讐を果たしてしまいたいかのように。
エリナはザルファの身体を、タオルで拭く。
死体のように冷たい肌。
艶然とした唇。
妖艶な顔。エメラルドの眼。
†
純白のドレスを纏って。棺のような白い硝子ケースで眠るザルファ。
エリナは高揚感を覚えながら、そんな彼に仕えている。
硝子ケースを閉じる瞬間。彼を永遠のものとして所有しているような気分になる。
エリナはザルファの脚に触れる。毛の無い滑らかな肌。
若い女の血を吸って。より、透き通るような質感を帯びているように見える。
ぞっとするような、足首。まるで、聖性さえも感じさせる。
とても男とは。……いや、人間のそれとは思えない身体。
エリナはこれから、ザルファに嬲られるのだ。
ザルファは、エリナの頬を指先で撫でていく。
「脚。怪我しちゃった……」
見ると、彼の踵の辺りが真っ赤になり、血が流れている。
「わ、わたしが綺麗にします……」
エメラルドの瞳をした男は、くっくっ、と笑う。
エリナは夢中になって。ザルファの脚に舌を這わせていた。
タオルケットで隠された、彼の股の付け根。……掴み取りたい。
どうしようもない程の欲情に、女は焦がれている。
彼の背中を見る。
黒いさかしまの十字架。
思わず、エリナは彼の下半身のタオルに手を伸ばす。
エリナの頭の中に。獣欲が過ぎる。
彼を食ってしまいたい。
ヒースは、強く欲望を肯定していた。こういう状況になった場合、女は自分の欲望の赴くままに動くべきだ、とヒースは言っていた。
ザルファはそれに同意する。女というものの存在。彼が憎むべきものの対象。
「させないよ。これでも、食ってな?」
ザルファは人差し指を、エリナに差し出す。
彼女はそれを口にする。激しく舐める。
「美味しい?」
「……え、ええっ。とっても、美味しいです……」
彼の皮膚は、とても甘い。飴のよう。砂糖菓子みたい。
「そう、良かった。俺の肉体は、幼い頃から乳香などを練り込まれている。姉がね。施したんだ。俺の体液、血の味など。凄く美味しい筈。そういう風に、創られたから」
†
夢の中。
エリナはザルファをバラバラに解体している。
首だけのザルファ。彼はサラダや子羊の肉によって盛り付けられている。
香辛料を振りかけられた、ザルファの解体された肉体。
エリナは、それを熱心に口に運んでいる。
彼の全てを飲み干してしまいたいという妄想。
彼に瞬く間に、取り込まれていくのが分かる。
ザルファの世話をして、数日が過ぎた。
ヒースの諜報員として、この街に派遣され。捕まり、無残な死を待っていたが。……。
ザルファには、感謝している。
それから、彼の持つ色気。眩暈がする。
……美味しそう。
実際、ザルファの体臭は甘い。
彼女を含めて、宮廷の女達や。ワーロックが捕らえたヒースの捕虜達は、次々とザルファの僕となっていった。
†
ザルファ。
彼の拷問吏としての、力は優秀だった。
強い意志を持って、睨んできた女達は。彼の前ではすぐに白状した。
ワーロックが息を呑んでいた。
こんな男を此れまでに、見た事は無かったからだ。
背中の服を開かれる鎖で繋がれた、女達。
彼女の背中に向けて、ザルファは鞭を振るう。
女の背中が、引き裂かれる。
ザルファが何事か囁く。
彼は、凍える雪原のような微笑を浮かべていた。
ザルファは女達を魅了していた。
結果的に、彼の拷問は。女達の肉体をそれ程、損壊せず。彼女達の命を救う事にもなった。
彼には異様なまでのカリスマ性がある。魔性の魅力が。
女達は、それに惹き付けられていくのだろう。あるいは、男もかもしれない。
デュラスが創らせたザルファの部屋は。彼の信望者となった女の召使が増えてくる。
信仰の対象が、ヒースからザルファへと移ったのだろう。
元々、女達は。ヒースの魔性によって、彼女を崇拝して。此処に送り込まれていた。彼女は、その崇拝対象をザルファに乗り換えたのだろう。
それくらいに、ザルファという存在は圧倒的だった。信心さえも、塗り替えていくだけの狂気。
デュラスは絶句していた。
ワーロックは感嘆する。
「人間は。分かりませんな……」
デュラスは彼の言葉に頷く。
確実に。デュラスの宮殿は、ザルファに浸食されていっている。
デュラスは、それを苦笑しながら眺めていた。
捕虜の女達は。嬉しそうに、可愛い、という言葉を叫ぶ。
デュラスは、なかば呆れていた。
女達は口々に、ザルファに畏敬の言葉を放つ。
「ザルファ様。お姉さまと呼んでいいですか?」
「いいよ。でも、俺は男だよ。それでもいいの?」
「呼びたいですっ。お姉さま」
彼は笑った。それは次第に、高笑いへと変わっていく。
実際、ザルファは女王だった。
デュラスは、彼の女達を惹き付ける力に戦慄していた。実際、これまで培ってきた男性的な強い意志が無ければ。デュラスもまた、彼の虜になっていたのかもしれない。
「デュラス殿」
シャックスは言う。
「余り、彼を自由にしてはなりませんよ?」
「分かっている……」
†
たまに折れそうになる時は。
何かに気付いてしまった時だ。
デュラスは雄々しく振舞っているが。やはり、自分は女性なのだと思う。
デス・ウィング、あれは違う何かだ。女性とは違う何か。
デス・ウィングと対面する事によって、彼女は自分がどれ程、女性的であるかを思い知らされた。所詮、自分は女でしかないのだと。
見ないようにしている、貧困層側や他国の苦しみ。
けれども、情報は入り込んでくる。
国民全てを守らなければならないというのに。
†
……あなたの子供よ。
姉は布で包んだものを、ザルファに差し出す。
彼は今日も病床に臥せりながら、その布切れを眺める。
異臭を放っていた。
その時の記憶は、錯綜していて、よく分からない。正気と狂気の狭間が何度も、何度も、反復していき、もはや何が何なのか理解が出来ない。
姉のザルファに対する行為はエスカレートを続けていた。
もはや、彼女自身、正気というものを失いつつあるのだろう。
自分は女の慰め物にされる為に生まれてきたのだろう。
彼は、絶望というものを味わう事になる。
生かされているという事実。
本来ならば、自分など野垂れ死んでいるのだから。
このか弱い肉体は、本当に、どうする事も出来そうにない。
姉は彼にチョコレートやケーキなどを与える。
美味しいでしょう? と彼女は言う。ザルファは頷く。
そして、姉は仕事をしに外へと出掛ける。
ザルファの生活の為に。
彼はずっと、姉の呪縛から逃れたいと思い続けていた。
けれども、肉体がそれを許さない。
弱過ぎる身体。
自分の存在など、結局の処。全ては顔でしかないのだ。
もし、それが無くなってしまえば。自分の全ては無価値になる。
置かれている果物ナイフ。
それをそっと、喉に当ててみる。
強く強く押し当てようとする。けれども、何度も一定以上、押し込める事が出来ない。
終わらせる事はいつでも出来る筈なのに。いつでも出来るわけじゃない。
まだ、何に縋っているのだろうか。
それすらも、何処かで忘れてしまった。
巨大な光の玉が外では上がっていた。
遥か彼方の地域にて、火薬を筒に詰めて。空へと打ち上げているらしい。
まるで、光の環のようだ。
綺麗だなと思わず思う。そして、自分は何処までも醜いなとも。
その混成された感情こそが、彼の正気を彼岸へと引き離していく。
悪意や敵意があるから、立ち向かえる。
いつか弱さを克服する事は出来るのだろうか。
もし、その時が来れば。この肉体を超えた意志が、強靭なものとなるのかもしれない。
弱さの極地があるのだとすれば。自分以上に弱い人間などいないのではないのかと、彼は思い続ける。
彼は星を見ていた。届かないもの、手に入らないもの。
ソルティは何の為に。彼に優しくするのだろうか。
こんなにも汚濁に塗れた自分に対して……。
自分自身を消してしまいたくなる。まず、顔こそが何よりも汚らわしい。
ふと。気付く。
自分がどれだけ、傷付いて生きてきたのかを。
自分自身と対面する事が怖く。
他人を恨み、憎み、妬む事でしか生きられない。
ザルファは知っている。
自分が生まれてきた事が、間違いだったのだと。
†
「処で俺を調教し、支配しようとしたクソは死んだ。お前はどうなんだろう?」
ザルファは自分の足首に舌を這わせる女を見下げる。
彼は女を全員、皆殺しにしたいくらいには思っている。敵意と憎悪ばかりが膨れ上がってくる。
「あたし、あなたが大好きなんです……」
「そうかぁ。俺は反吐が出る程、お前が心の底から嫌いなんだけどな? 何なら、今、此処で自殺してくれないかな? 飛び降りがいい。俺が好きなら、それくらいするよな?」
女の舌は芋虫のように、ザルファの肌を這っている。
どうしようも無い程に、この女を傷付けたい。心以上に特に顔を。
鼻と両眼、どちらを無くしたら。この女は生きていけなくなるのだろう? そんな事を考える。
このサディスティックな歓喜は、どうしようもない、彼自身だ。
顔で男を支配して、自分の所有物にしたい。哀願物に、寒気がする程、醜く汚い。ザルファが見ている暗い世界。抑え切れない敵愾心、どうしようもなく湧き上がってくる恨み辛み。それを消す事は出来ないのだろう。
全ては姉の幻影のようで、全ては刺し殺してしまいたいもの。
自分はずっと、姉に凌辱され続ける存在なのではないのかと。屈辱の炎が燃え続けている。彼は只、女を憎む事でしか生きられない。
そうやって自分の人格を完全に、形成してきたのだから。
デュラスは、賢明だろうと思った。彼を見て、すぐに彼の心を見抜いていた。だから、余り近寄らない。代わりに、城の使用人などがザルファに寄ってくる。
ある意味で言えば、使用人達は生贄のようなものだ。彼女はその事に関して、どれくらいの自覚を持っているのだろうか。ザルファは強く、ほくそ笑む。
彼は首をがっしりと掴まれる。女の胸が身体に当たる。全身が揺れ動いている。自分はいつもそうだ、こうやって慰め物にされる。身体が弱いからだろう。女以上に華奢だから。
『ダーク・クルセイダー』を発動させてやりたい。しかし、デュラスの側近達が面倒臭そうだ。いつものように、彼は振舞う。女の方が寄ってくるから。
そして、女はザルファの為に破滅していく。まるで、滑稽な予定調和の劇のように。
それにしても、早くこの女、飽きないかなあ? そんなに面白いのだろうか? こっちは過去の映像などがフラッシュバックしたりなどして、大変なのだが。
しかし、今、生かされている。それはとても良い事なのだろう。
ジルズは処刑されると聞かされている、それに比べれば、ザルファの待遇は、とても良いものなのだ。
他の男と違って、性欲が根付く前から。姉によって、無理やり支配されていた。だから、彼は同性もよく分からない。
†
デス・ウィングは、生きる事に何の意味も見い出してはいない。
彼女はこの世界をつまらなく思っている、だから悪意を振り撒きたいと思っている。
この世界の人々に対する、無価値さは、死にたいと願い続ける自分にとっては呪詛以外の何物でも無い。ありとあらゆる人々に対して、彼女は呪いを撒いてしまいたい。
それは、一体、どのような感情が基盤になっているか、もはや分からない。
憎悪なのか、嘲笑なのか、嫉妬なのか、どれとも違うような気がしないでもない。
自分は死ねないのだ、それはどうしようもない事実だ。
その地点で、どうこの世界を面白くひっくり返すべきかと考えている。
それは、楽しむ、という事だった。
この世界の者達を、駒のようにして楽しむ。
そうすると、心の底から愉悦が込み上げてくるのだから。
人間の持っている総体的な悪意。
それが見たくて見たくて、仕方が無い。
だからこそ、旅を続けている。
旅の先に、何かが見つかるのだろうと考えている。
ひょっとすると、死ねない中で生き続けていれば。面白い人間が面白いドラマを織り成していくんじゃないのかと。人が生まれ、死に。人生を歩んでいき、どのような結末へと向かっていくのか。それを傍観しているのがとてつもなく楽しい。
死にたいという願いを忘れた先に、何かが見つかるのかもしれない。
点在している様々な悪意。
それらはきっと、人々が生きる中でどうしようもなく誕生してしまったものなのだろう。
絶望や狂気、それらこそが、人間にとってとてつもなく、必要なものなのだろう。
生きる事に根拠なんて無いのだが、少なくとも、生きていく倦怠の流れの中で。どうにか価値のあるものを探そうと考えている。
彼女は自嘲する。
全ては、見世物劇なのだと。
空の星々、あそこにも生き物が存在しているのだろうか。
デス・ウィングは楽しみ方を知っている、自分の在り方もだ。
災厄を齎していきたい。
それは、とてつもなく彼女の心を慰めてくれるのだから。
遥かなる雲上の下、世界が凍結していくように。
自分の心は蒼白の只中に置かれているのだ。
先は闇ばかりの人間達を集めて、それらを傍観していくのがとてつもなく楽しい。
それは愉悦を伴うし、最高の娯楽なのだから。
†
ヒースは狂っている。それだけは間違いが無い。
狂王は自身の理念を行進させる事を止めようとはしない。彼女はこの世界に背信している。遺伝子の組み換え。力を手にしてしまったものの宿命として彼女は生きている。
彼女もまた、この世界を憎んでいるのだろう。だからこそ、自分の好きなように、この世界を弄繰り回してしまいたいのだ。
人間は脆過ぎる。だからこそ、動物や機械の部品と混ぜていく必要がある。
それが進化にとって必要なのだ。
グローリィは強くならなければならない。この世界の覇権を握らなければならないのだ。
永遠に渡って、栄光を手にしなければならない。
ヒースは願っている不老不死を。
増強していく肉体、きっと何処までも強くなっていくのだろう。
皮膚も、肉も、骨も、内臓も、人ではない別の何かへと変わっていく。
彼女は部下達に命令する。謀反人も、敵国の者達も、全てを粛清し、血祭りに上げる事をだ。
もはや、独裁などという概念は存在しなくなっていくのだろう。
ヒースは神そのものになる事を願っている。
この力も、この意思も。全てを手に入れた瞬間に、世界は新たな秩序が誕生するのだろうから。