第二章 ダーク・クルセイダー
結構なグロ描写があります。
猛吹雪だ。
ザルファは相棒のソルティアと一緒に、雪原の中を歩いていた。
一面は、白樺の樹木によって覆われている。
「ソルティ」
彼は略称で呼ぶ。ソルティアは言いにくいと。
その呼び方を、銀髪の人物は嫌っていない。
「俺は身体が弱い。ちゃんと守ってくれるよなあ?」
彼は相棒に言う。
男が纏っているのは。僧衣に似た、深緑色の服だった。
彼の瞳も、淡い緑をしている。
もう一人は。鎧を着込んだ、長い銀髪の髪の男。
二人共、眼の眩むような美女のような顔立ちの男だった。
華奢な身体だ。
「車が欲しい」
ザルファは言う。
彼の肌は雪のように、白かった。
「こんな吹雪の中じゃ、動かせないよ?」
ソルティは、呆れたように言った。
「それでも。俺は車が欲しいんだよ。運転してみてぇな?」
戦乙女と。
闇の十字架。
二人の事は、そう呼ばれている。
二人は、背徳者だった。
『グール・ブレス』と。
『ダーク・クルセイダー』の二人。
彼らは、ヒースとデュラス。二人の女帝を殺しに行く途中だ。
何故。殺したいのか。理由は無い。何となく、何かを獲得したいから。
「私は太陽が欲しいなあ」
青白い肌のソルティは言う。
「お前は太陽の下でも生きられるのか?」
黒髪の男は、意外そうに言った。
「ふふっ、私は、生きられるよ? 太陽の真下でも、私はね」
「なあ。車ってのは、太陽を模したものらしいぜ。車は地上にある自然のものを模したものじゃないからな。あれは、太陽を模したものらしい」
まあ、太陽ではなく、月とも言われているけどな。と、彼は付け加える。
日の光が欲しい。
胸の中に届く程の。……。
それにしても、いつの頃からだろうか。
二人が、闇に塗られた道を歩くようになったのは。
「それにしても。俺はこの吹雪の中、極寒の只中で。凍死するって事も在り得るわけだ。化け物なのにな? 笑えるだろ? なあ、ソルティ。お前は違うんだろう?」
†
ヒースの領地だ。
彼女は、自らの兵隊達を創っている。
若い女達を集めて。
自らの能力である『テンパランス・リバース』を注いでいる。
聞いた話によると、ヒースと対象者との接吻によって能力を浸透させる事が可能らしい。
悪趣味な話だ。
体液と体液の混合によって行われる、能力の浸透。薬物の注入のようなものなのだろう。女同士の絡み合い。自らを、獣そのものへと変えていく願望。
何故、彼女達は人間である事を止めたがるのだろうか。
理性の否定。
動物的本能。
ヒースの能力。
それは、人間が獣人へとなっていく能力だ。
彼女達は、何よりも獣性を帯びて。肉体が豊満になり、官能的になり、身体の所々が奇形的な獣の部位へと変化を遂げる。
胸の先端と。下半身の付け根を申し訳程度に黒い体毛や、鱗や甲殻で覆っているが。恥ずかしげもなく、裸体を晒して歩いている。
この能力の影響を受けた者は、理性が壊れていく。
彼女達は、手に手に、槍や斧などを持っていた。
彼女達は自身の肉体に誇りを持っているのだろう。陶酔感に酔い痴れているのだろう。
ザルファは見下げた眼で、見ていた。
卑猥な、ストリップ・ショーだな、とザルファは嘲笑った。
彼女達は、獣欲ばかりで生きている。
ザルファが嘲る女の、総体のような連中。
彼の深き、暗渠が燃える。
憎悪を込めた、深緑の眼。
「さて、俺にやらせろ」
ザルファはソルティを制した。
†
ダーク・クルセイダー。
闇の十字軍、という意味だ。
ザルファが、指している闇の十字軍とはつまり。
老いていく人間の事を指している。
老いて衰えて、醜くなっていく者の事を指しているのだ。
………………。
ザルファの力とは、……人間の肉体を老いさせる事だった。
ザルファの能力は、生命エネルギーを吸い取っていく。
皮膚が乾き、細胞が終焉へと向かっていく。
彼は老いを撒き散らせるのだ。
ザルファは他人から若さを吸い取る事によって、不老足り得る。
奪う事によって、生き長らえる生命。
相当、凶悪な能力だと、ソルティからは言われている。
しかし、大きな問題がある。
まず、何よりも身体が弱く、脆い、ザルファ自身には、肉体的な戦闘能力が皆無である事と。
老いないタイプの能力者に対しては、一切、攻撃が通じないという点だ。
従って。ヒースの兵隊達を全滅させる事は可能であっても、ヒースに対して、果たして効果があるのか。と問われると、疑問だ。
もし、効果が無かったら致命的だ。
殺す手段。倒す手段が、限られてくる。
獣の姿をした女達は、見る見るうちに、老い衰えていった。
顔が皺ばかりになり、乳房がひしゃげ、腹がたるんでいく。
そして、髪が白くなり。歯が抜け落ちていく。
その惨状を笑い転げながら、ザルファは見ていた。
本当に、無邪気な笑い。
本当に、彼はこの光景を。心の底から願っているのだろう。
やがて。全ての時間が奪われる前に、老いは停止する。
彼女達は、惨めな老後を過ごすのだ。
それにしても、特に女によく効果のある能力だ。
能力者でなくとも、男に対して効きが弱い時が多い。
しかし、女には本当に良く効く。
ザルファの持つ髑髏は姉のものらしい。
初めて殺した女。姉。醜いと思った女。
いつまでも、若く在りたいと執心した。年の離れた姉。
自分の方が美しかった為に、よく嫉妬してきた姉。
ソルティは思う。
おそらくは、彼の嗜虐性は姉に対する敵意が一つの原点になっているのかもしれない。と。何度も、何度も。夢想の中で、刺殺した姉。殺してもなお、殺し続ける姉。
姉と徹底して、違う生き方をしたい。そんな考えがある。男を渡り続けた女。
「さあ。ソルティ。死に近い場所に行こうぜ? きっと安らかな場所なんだ」
彼は紫紺の髪の男に言う。鼓舞する。
彼の双眸からは瘴気が放たれているかのようだった。
†
破裂した爆弾。
光の輝き。
星々の煌きのようでもある。
それは、輝く群れ。運河のようでもある。その跡地。
そこは。
ヒースの作り出した、実験場の一つだ。
沢山の武器が廃棄された場所。
降り注ぐ黒い雨。
黒く染まる大地。
生命が腐っていく場所。
ザルファはその敷地内に無断で入っていく。
監視の眼は無い。
おそらく、半分、放置されているのかもしれない。
彼はまるで、ピクニック気分でこの場所に入り込んでいる。
何だか、この景観がとても気に入ったのだと言う。
本当に。変な奴だなあ、とソルティは思う。
沢山の放置された死体。
黒い白骨。炭化している墨と化した、黒髑髏。
ザルファは次々と、それらをポラロイド・カメラで撮影していく。
「楽しいな。楽しいな」
うきうきとした邪気の無い笑み。
彼は両手に持った髑髏を撫でていく。
「さてと。ソルティ。お前はやるんだ。此処を支配しようぜ?」
死者達の復活。
それが、ソルティアの能力だ。
しかし、彼は首を横に振る。此処では、使ってはいけないのではないか、と。
「何だ。つまらないな」
ザルファは舌打ちする。
彼のように。非道になれない、それがソルティだ。
†
ザルファは人間の苦しんでいく惨状を見るのが好きだった。
核実験によって巻き起こった、焼け爛れた人間達の行進。
呻き声、悲鳴、啜り泣き声。苦しみが空に響き渡っている。
美しい、と。
そういった世界を、彼は美しいという。
美しいのだと、言い切る。
彼の肉体は脆い。その辺りの人間と何ら変わりはない。いや、普通の平均的な人間よりも脆いだろう。
彼は自らを戦禍の只中に置く。
自らの死を厭ってない。
あるいは、死という感覚が分からないのかもしれない。死の恐怖が何なのかも。
「戦争が早くみたいね。見たい見たい。沢山の焼け爛れた死体。焼夷弾で身体が焼けた人々が苦しみながら歩く姿が見たい。美しいんだ。あの光景は。理性なんて何処までも飛んで行くんだよなあ。人間のあるべき姿。あるべき美しさ」
彼の口調は、いつになく無邪気だ。彼は、時折、こんな感じの童子のような口調になる。
ザルファは、死体を。花や緑を愛でるように見る。
ザルファは、今にも死にそうな怪我人達を、美しい女に見惚れるかのように見る。
彼はそういう奴なのだ。
もう、どうしようもないくらいに。
ザルファは望んでいる。
たとえ、この世界の中、自分一人だけになったとしても。
平気でその世界を肯定出来る、と。
醜く老いていき、醜く腐って死んでいく人間達。
それらを嘲笑したい。
彼は。
醜く衰えていく女を眺めるのが好きだ。
彼女達は自らの価値が無価値になったのだと知って、絶望の只中へと落ちていく。その悲鳴こそが何よりも美しい。皺だらけの肉体。産む為の肉体の死。あらゆる女の持つ美しさが剥奪されていく瞬間に、もうどうしようもない美が生じていく。
うっとりとする気分。薫陶。
ザルファの哄笑が、響いていく。
ザルファは女に対して、異様なまでの敵意がある。
どろっ、としたような情念がある。
女の顔を醜く引き潰したい。その点ばかりに執着している。
彼のその時においての心は、酷く暗黒だ。表情もかもしれない。
何度も、何度も、顔の皮を剥いてやりたい、女達。
時間と美に縛られ続ける者達。可哀相な奴ら。
ザルファの、持っている。
女の顔に対する底知れない敵意。
化粧を。顔を、その表情を。相貌を引き剥がしてやりたいと思っている。反吐が出ると思っている。上っ面の顔。気味の悪い媚。赤い唇。何もかもが、嫌いだ。
女の顔を、何度も。何度も、ひき潰す夢想ばかりしている。
実際、現実においても実行に移す。
その時。彼は言い知れない程の愉悦に襲われる。
日々の倦怠が拭われるよう。
唇。醜いもの。おぞましいもの。声帯器官。抉り取りたいもの。
†
そこには、沢山の冷たい密室が並んでいた。
おそらくは、人間が沢山、収容されていたのだろう。
ザルファはカメラで、それらのものも念入りに撮影していく。彼は秘密の倉庫に、沢山のアルバムを収集している。ザルファは帽子を取る。そして、写真を帽子の中に押し込んでいく。彼の帽子は、底無しの暗黒が広がっていた。
帽子を取った彼の黒髪は、腰元まである。
ろくに、櫛を通していない髪だが。とても、質感が良い。
彼の帽子の中には。何が詰まっているのだろうか。
ソルティでさえ、分からない。無限の暗黒が広がっているのかもしれない。
…………それは、まるで彼の心の暗黒そのもので。
沢山の人間達が処刑された密室。
それが美しいと彼は言う。
その背景が。その質感が。
彼の闇に触れる時、ソルティは思う。ああ、彼に付いて行こうと。
彼の相貌。華奢な肉体。あの細い肉体の何処に、あの底知れない暗黒が詰まっているのだろうか。
彼は死面に似ている、生きた死体そのものだ。
彼が抱えているものとは、一体、何なのだろうか。ソルティは考察する。
死の先にあるもの。死後の世界ではない。何か。
ソルティは彼の撮影した写真を見た事がある。
生々しく、この世界の無情をただただ、集積されたような写真の数々なのだが。
何処か……寂しそうだと思った。
壁という壁ばかりを撮影している。
収容所や監獄など、沢山の人間の暗黙を、彼は写したがる。
ソルティは彼の写真を眺めて、気になったもの。
それは。不気味なものだった。形容し難いもの。
収容所の中。壁に書かれた文字。薄れ掛けた文字、時には鋭く尖ったもので削るように書かれた文字など。
ザルファは、そんなものを徹底して。写している。
それは、処刑された者達の怨念だ。何者でも無い、顔の見えない、その人間性も分からない人々。ザルファは、その文字こそが。この世界において、何よりも美しいものの一つだと言う。誰にも届かなかった言葉、それでも光を求め続けた。
美しいと。彼は言う。
†
実験場の奥。
ザルファは次々と、拾った道具を帽子の中へと放り込んでいく。
彼の帽子の中は、何処に通じているのか、彼自身でさえ分からない。
それが、彼の能力の一端なのかどうかさえも、よく分からないのだと言う。
とにかく、この帽子そのものが、正体不明の何かなのだと。
まるで、彼の心の暗黒そのものを実体化したような帽子だ。
「あっ」
ソルティは言う。
朽ち果てた建造物の一角に。
一人の女が立っていた。
そいつは、マントのようなものを身に纏っていた。
よく見ると、白い翼のようだった。
「お前は何だ?」
「わたしはジュゼット。お前らが何なんだ?」
ザルファは興味を持っていない。
廃墟の中の、盗掘を続けている。
「此処はヒース様の領地である事くらい分かるだろう?」
ソルティは身構えた。
辺りに、能力の要となるものがない。
ソルティ自身が戦うしかない。
彼は。周辺を見回す。困った事に、この辺りには。使えそうなものが無い。
どうするべきか。
そいつは。白い翼を広げる。
豹のような肉体をしていた。
「ねえ、どうする? ザルファ。あいつ、明らかに強そうだよ?」
「すでに、『ダーク・クルセイダー』を発動させているが。駄目なのか?」
「うん。効果が無いみたい」
「仕方無いな」
ぺきり、ぺきり、とザルファは首を鳴らす。
そして、明言と言った。
「逃げるぞ」
彼は迷わなかった。
走って、逃げる。全力疾走。服装のせいで、巧く走れない。
そして、すぐに息切れを始めた。
そして。地面にへたり込んだ。息を切らしている。
一度、戻ってきて。ソルティにおぶさる。ソルティは彼を肩車する。まるで、馬だ。
「走れ、ソルティ」
ソルティは呆れた顔をする。というか、完全に呆れていた。
彼はさぞ、滑稽に見えるだろう。
「車になるんだ」
「…………無理だよ」
「仕方無いな」
ザルファは、彼の背中から降りて。後ろを振り返った。
「えっ?」
彼は気付く。
遠くにいる女は、追ってこない。何か、奇妙だ。
まるで、彼女はいつでも、此方を始末出来る、といったような顔だ。あるいは、さながら、彫像のように佇んでいた。まるで、此方に興味を抱いていないといったような。あるいは、彼らのやり取りを観察しているのかもしれない。
彼は、ソルティに言う。
「なあ。あいつ、今。殺さないと拙いかもな? もしかして、俺達。ヤバイんじゃないのか?」
「とっくにそうだよ。私達は、ヒースの領地にいる。見つかって、追っ手を付けられて。迎え撃たないといけない。とっくに、知っているだろ?」
「いや。……何というか」
彼は立ち止まっていた。
「俺達が。遠くに離れる事を狙っているかのような」
「いや。違うんじゃない? 私達は彼女にとって、どうでもいいんだよ」
「味方陣を随分、殺したのにか?」
「……そう思う」
「どっちかは、分からないが。奴が、俺達を簡単に殺せる、ってのは、確かかもな?」
ザルファは考えていた。
女は動かない。彼らを見下ろしている。そこには、蔑みさえ感じられた。
「死の恐怖。脅威の只中にいるからこそ、立ち向かう意味がある。なあ、ソルティ。俺達は無力だ。だからこそ、あの女にも戦いを挑む必要があるな」
ザルファは武器を持たない。
いつも、何処か。死ぬ覚悟があるからなのか。あるいは。
「成る程な」
ザルファは言う。
確か、あの女。ジュゼットと言ったか。
「ソルティ……袋は」
「ああ。とっくに開いている」
彼は服の懐に閉まっている、小さな袋を開いていた。
彼の『グール・ブレス』の攻撃。それを放っている。
「あの女も。此方を始末しかねているんだ。馬鹿じゃあない。いや、いつでも。始末出来るかもな? あっちも同じなんだ。こっちの能力を分析してやがるんだ。攻撃し兼ねている」
くっくっ、と。ザルファは笑った。
そして、敵の方へと歩いていく。ゆっくりと。
「話し合おうじゃないか? ああ? 降りてこいよ」
ザルファは両手を広げる。
鳥のような姿をした女は答えない。
「いいか? お前。答えなければ、今すぐ、始末する」
それを聞いて。
女はようやく口を開いた。
「へーえ。お前、わたしを殺せるの? さっき逃げようとしていたじゃない。観念でもしたの? あんた、って何なの?」
完全に見下されているみたいだった。実際、そうなのだろう。
ザルファの行動。何処か、全てが滑稽だった。
くっくっ、と僧衣の男は笑う。
「降りてこいよ。お前を殺せる、って言ってんだよ。それとも、何だ。そこで、突っ立っていて、俺達を逃がしてくれるのか?」
「そうね。どーしようかって、今、考えている処なの」
「そうかい。じゃあ、頼まれてくれないかな?」
ザルファは女を見下げるように言う。
「俺達はヒースを殺しに行く。奴のド頭に鉄の塊を埋め込む。スパナで頭を砕いた後、奴の首をナイフで刺す。斧で頚椎を切断する。それまでの道中、邪魔しないでくれるかな。お前は何もしない。無能な部下であり続けるか、上司は気に入らないから謀反者を肯定するわけだ。どうかなあ? 俺達がヒースの墓を建てる事を労ってくれないか?」
あはっ。ははははっ、とザルファは笑い転げた。
そして、僧衣の中に大切そうに仕舞っている、髑髏を取り出して。
髑髏の頭を撫で続ける。
「お前、何だったっけ? 名前。じゃあ、俺達はヒースの処へ行くぞ。じゃあな?」
ザルファは、舌を出して。へらへら、と。肩を竦めながら言う。
ソルティはひやひやする。
「言いたい事はそれだけぇ?」
女はザルファの挑発には乗らない。というか。
こいつは、きっと頭がおかしいんだろう。ジュゼットは、彼の本質をすぐに見抜いていた。だから、先ほどまでの彼の行動を。ただ、傍観していた。しかし、問題は。どのような形で頭がおかしいか。それが、分からない。だから、ジュゼットは正直、彼を不気味にも感じていた。
「わたしは、お前を。秒殺出来るけど?」
「それを待っているんだけどなあ」
くっくっ、とザルファは笑う。
ジュゼットは、ますます。彼を掴みかねていた。
彼女の能力『ザ・モード』は、いつでも彼を殺せるだろう。その自負はある。しかし、いつでも殺せるからこそ奇妙なのだ。得体が知れない。だからこそ、攻撃をしかねている。情報も入ってきていた。ヒースの部下達が、大量に老化の攻撃を食らっていると。姿格好を聞いて、こいつらに間違いない。
だから、始末しなければならない。しかし……。
ソルティは遠くから二人のやり取りを見ていた。
ザルファは、何を考えているのか分からない。いつもそうだ。今回だってそうだ。いきなり、どうしたのだろうか。そして、ソルティは思うのだ。
ザルファはこの状況を楽しんでいる。底知れないくらいに。
一歩、間違えれば、自分が死ぬかもしれない状況。いや、敵がその気になれば、彼を殺せるだろう。けれども、まだ彼は生きている。何故か生きている。その状況を、彼は楽しんでいる。
ソルティは彼を守らなければならない。
たとえ、自分の命を捨てても。きっと。大切なものだから。
ジュゼットは結論に至った。
こいつではなく、向こうの男を先に殺してみるか?
彼女は周囲に隠して置いてあった、武器を取り出す。自動小銃だ。
それを、鎧を着込んだ銀髪の男に向けた。発砲。
…………。
彼女の狙いは性格だ。鎧で隠れていない、首の辺りに命中した。男は倒れる。
そして、緑色の僧衣の男。試しに、彼の肩に狙いを付ける。射ち込んでみる。
すると、男は苦痛の叫び声を上げた。
「……えっ?」
ジュゼットは、少し戸惑う。
あっけない。
もう一撃、試しに帽子越しに頭に射ち込んでみる。
すると、彼はそのまま痙攣して。倒れた。硝煙が上がっている。
ジュゼットは、翼を広げて。空高く舞い上がった。
「……何なの? こいつら?」
ジュゼットは、ふと。背筋に冷たいものが走る。
まるで、選択を間違えてしまったかのような。
「とにかく。ヒース様に報告しよう」
そう言えば、寒風が吹き抜けている。そろそろ、暖まりたい。
ジュゼットは直感的に理解している。
……彼らの死体に触れてはいけない、と。
報告の内容は、誰も見なかった、だ。
†
「あっはっはっはっ。あいつ、逃げていったぜ?」
しばらくして、ザルファは立ち上がる。
ソルティも立ち上がる。
「……ザルファ。お前は本当は死にたがっているんじゃないか?」
紫色の鎧の男は、少し悲しげに言った。
「何で?」
「あの女の判断次第で君は死んでいた。殺されていた。何で? いきなり、逃げようとしたり。かと思ったら、いきなり向かっていったり。何で?」
ソルティは首筋の皮膚をべりべりぃ、と剥がす。
防弾チョッキのように、鎧の外に出ている皮膚に貼り付けている。他人の死体で作った皮膚だ。硬く加工してある。
「だって。どんな反応するのか気になるだろう? 俺はてっきり、癇癪をぶつけてくると思ったんだけどな? そんな事を女はする。しかし、あいつは割りと明晰そうだったな? 残念だな」
彼はカメラを取り出す。こいつは。
……ジュゼット。あいつが、怒り出したら。その顔を撮影したかったのだろう。
そうだ。彼は好奇心で動いているんじゃないだろうか。しかも、どこか歪だ。
「どうするの? ヒースの領地。此処から先、進んでいく? 俺の『グール・ブレス』はいいとして。君の『ダーク・クルセイダー』は、ハマらない相手にはかなり弱いんじゃないのかな?」
僧衣の男は少し考えているようだった。
「そうかぁ。ヒースは無理か。じゃあ、デュラス。殺しに行こうかなあ」
ソルティは引き攣った。
突然の思い付きだろう。
いつも彼はそうなのだ。
彼に付いてきて。ずっと、振り回されっぱなしだ。
「デュラスの領地に向かおう。此処から、遠いかな?」
ソルティは大きく溜め息を吐いた。
ヒースの次は。デュラスか。……本当に、どうしようもない。
また。危険な目に合うのだろうか。
「ザルファ。君は馬鹿じゃないだろ? 何故、そんなに死にたがる?」
「ああ? 何だって?」
彼は本当に分からない、といった顔をする。
ソルティに言われた言葉を一通り考えて、唸る。ソルティは溜め息を吐く。……。
ソルティは苦悩している。彼は死体を愛するが。
ザルファの死体を見たくない。
何故、彼は自らの死が分からないのだろうか。
自らが死ぬという事実が分からないのだろうか。
あるいは。
死を望んでいるというよりも。むしろ。
もう、自分は死んでいるのだとでも考えているかのような。
彼の着ている僧衣は。屍衣なのだと思っている。
死人の着る服だ。
その事に対して、彼はうっとりと自分を愛でている。
「チョコレート。この前の街で買ってきた」
ザルファは彼に、チョコの束を差し出す。
ソルティは小さなブロックを口にする。
「美味しい……」
「だろう。生きているだろ? 俺達は」
彼はけたけたと笑う。
「チョコレートってのはすげぇな。色々な種類がありやがる。疲れた肉体を癒してくれるな。人類の遺産だな。これは」
彼は屈託無く、笑った。
二人は、また別の場所へと向かう事になった。
†
明日、デュラスを始末しようと思う。
それで、この国がどうなったって。水月にはどうだって良い事だ。
ただ。報酬が気に入った。
しかし、こうも約束している。
デュラスを必ず殺せるかどうかは分からない。
明日中に倒せなければ、依頼は断るとも。
前報酬として。犠牲者達の腐汁のこびり付いたロープを貰った。
ジルズは、もうすぐ。同胞を埋葬出来る事を喜ぶ。
デュラスの宮殿。
地図も渡されている。
大体、どの辺りで会議を行っていて。
デュラスが大体、どのような生活を行っているかも。
「人殺しは、久しぶりかな?」
水月は笑った。
「少数の犠牲者で終わればいいんだけどな」
彼女には、考えがあった。
もし、可能ならば。
……別の方法を取った方が、より自分にとって良い事になるかもしれない、と。
†
ジルズは念入りに。デュラスの宮殿の周囲を巡っていた。
デス・ウィングが失敗したならば、自分が殺しにいかなければならない。
仲間達の為に。
彼の能力『チャイルド・プレイ』で、デュラスを始末する。
問題は。どれだけ、標的に近付けるかなのだが。
周囲の地形と、行き交う人の様子を眺めながら。ふと、ジルズは気付く。
いつから、そいつはいたのだろう。
「後ろの奴。お前は?」
彼は彼の足音に合わせるように付いてくる者に訊ねた。
「トゥース・ファンガス。高官ムシュフシュ殿の直属。お前、テロリストだろ?」
「失礼だな。自由の闘士と呼んで欲しい。鎖を外さなきゃならないんだ。民のな」
「そうか」
深い緑髪の男は言った。
辺り一面に。ぼんやりとした蒸気が広がっていく。
ジルズは、咄嗟に。その場所から離れた。
蒸気。……いや、胞子を飛ばしているのか?
爆発音。
周囲には人がいない。無人の地区だ。
だからこそ、あの男は彼を始末する事を決行したのだろう。
彼は予め逃走経路として考えていた、下水道へと向かう。敵に見つかる事は、とっくに考察していた。
マンホールの蓋を開く。しかし。
周囲に。電流のものが走る。瞬間。
辺り一面が、爆破炎上する。
ジルズは、即座に下水道の奥深くに潜っていた。
ネズミの群れが、下水の通路を走ってくる。悪臭が鼻に入り込む。
この敵を始末するべきだろうか、考える。どうせ、デュラスの駒の一人に過ぎないだろう。しかし、思うのだ。ジルズの処刑された仲間達、彼らに一矢報いたい。
ならば。こんな敵くらい、返り討ちにしてやりたい。
計略を練り上げる事にした。
敵がどういう事をしているのかよく分からない。
取り敢えず、ガスのようなものを撒いているのは確かだ。
問題は。ジルズの能力は、何処まで敵に近付けるか、だ。
敵から遠ければ、不安が強まる。しかし、近ければ、確実に殺せるという自信はあった。
下水道の中は、酷い事になっていた。
黒い虫やら、ネズミやらが。わさわさと走っている。
生活廃水の臭い。
しかし、ジルズは半ば、ホームレスもしていたので。この程度の臭いならば、耐えられる。
しかし。下水道。ガスか。
「……こんなに臭いものだったか? 生ゴミの臭いでさえ」
違和感。
気付くと。周囲に、強い硫黄のような臭いが立ち込めている。
声が聞こえてきた。
「俺の『バイオ・ファクトリー』は。まあ、俺が特殊に開発した奴でな。特殊な菌糸類を使うんだけど。それを胞子状に飛ばせる。問題は密室である方が有効なんだ」
声が木霊している。こいつは、この辺りにいるのだろうか。
ジルズは。辺りを振り返った。
下水道。多少、広い場所に辿り着いている。
様々なパイプ。
ふと。思う。臭いがこびり付くが、汚水の中へと飛び込むか?
黒い虫の一体が。ぼんっ、と膨れ上がった。
それが、周辺。数十センチを爆破する。
黒い虫の行列。ネズミの行列。
それらが、行進していく。
そして。汚水の中。
その中にも、ドブの中を平気で泳ぎまわる気味の悪い姿の魚達が泳いでいた。
「まさか……」
こいつの能力は。
ジルズは迷わなかった。
両手から、自身の能力によって作り出したハサミを具現化させる。
そのハサミがプロペラ状に回転していき。
ジルズの身体を浮かせて、下水の中を飛んでいく。
背後では、次々と。生き物達が、爆裂していった。
黒緑の髪をした男は。ガスマスクを身に付けて。大きなパイプの一つの中に入っていた。彼はそのまま、パイプの奥深くに潜り込む。
ジルズは咄嗟に、後を追おうとして気付いた。
……罠だ。
手に持った巨大なプロペラの一部が変形していく。
プロペラの一部から、更に刃物が飛び出して。それが回転しながら、敵が逃げたパイプの中へと追跡していった。途端。
パイプから、勢いよく。炎が上がる。
火花が肌に散る。
「発火する胞子を撒き散らすのかな? そして、その胞子は。生き物に寄生させる事が出来るのか……」
やっかいな敵だ。
このまま、追撃を行いたい処だが。
此処は。一先ず、引く事にした。
引きながら、敵が追ってきたら。返り討ちにしてやろう。
†
ザルファは、女を食い物にし、女に食い物にされる人生を送ってきた。
……………。
ザルファは、沢山の乳香と花のエキスを溶かした湯船の中に浸かる。
今度の客は金持ちだ。
ザルファは行為を最後まで行わない。
行うのは、もう少し下の商売。下賤の者達。彼は行為を途中で終わらせる事によって、客達に神格化されていく。
風呂を出たら。顔に、万遍にクリームを塗れと言われている。
赤い口紅。眼の周りも、アイメイクで縁取っていく。
紅いドレスを着せられる。
彼は女の話を聞くだけでいいと言われた。商売をする上で、取り仕切っている者は、ザルファの容姿を見て。彼を高級品だと言ったからだ。
彼は自分の価値が何なのか分からない。
この仕事をする事が何なのかも。
天蓋の付いたベッドの上に寝かされる。
ずっと、女に話を語って聞かせる。
ザルファは絵本や神話を多く読んでいたので、そのエピソードを語る。
女は喜ぶ。
ザルファはきっと、少女人形の代わりなのだ。生きている人形で、語り掛けると語り返してくれるから。女達に好かれるのだ。
女達は寂しいのだろう。だから。彼は、喋る人形になる。
彼は彼女達の、お人形。
彼女達に合わせて、振舞っていればいい。
雪原の中で。二人、同じ毛布に包まる。
「体温。体臭、やはり。女のそれとは違うな。お前がどんなに女に見えて、肌の質、顔立ち。それらがどれ程、女のそれに近くてもな」
黒髪の美形は言う。彼は、相棒の首筋に触れていた。
「そうなんだ」
「男はやはり駄目だな。女も駄目だったが。そうだ、お前は恋愛感情とか誰かに持つのか?」
ソルティは答えない。
それにしても、寒い。凍えるようだ。
両手がかじかんでいる。
そっと、ザルファはソルティの頬に触れる。生命の温もり。
「それにしても。女装者ってのは、女の眼からどう映るのか知らんが。やっぱり、男なんだって思うな? 俺のこの感性。やっぱり、男の物だ。自分では男か女か分からない、って部分もあるんだが。何だろうな? この感性。やっぱり男のソレだ、って思うな」
†
書斎にて、デュラスは書類を整理していた。
企業から送られてくるものだ。
冷たい感触。
ひやりとしたもの。それは。
嗅いだ事がある。
たとえば、幼い頃に熱病に罹った時期。
戦争の最中に、凱旋として出向いた日。
あるいは、……そう、これは。拳銃暗殺を決行しようとした者達。その気配。
知っている。この感覚を。
そう。これは、死の気配だった。
背後に、死の気配が充満している。自分の死の可能性が立っている。
全身が、凍り付いた気分になった。
ああ。自分もまた、死ぬのだろうか。そう感じる。余りにも、死は近過ぎるものだ。
この敵は。本当に簡単に、彼女を殺せるのだろう。と……。
「お前を殺して欲しいと言われてな」
悪寒が、走る。
死は笑っていた。強い気配が充満している。一体、いつから背後に立っていたのだろうか。分からない。余りにも、当たり前のように。そいつはいた。
「貴方は……?」
「私はデス・ウィング」
冷たい死は名乗った。
返答を間違えれば。簡単に殺されるだろう。そうだ。噂を聞いた事がある、最悪の能力者の一人である。『背徳者』の中で、死の翼、死の風と呼ばれる者がいる事を。
観念するしかないのかもしれない。
返答を間違えれば、デュラスだけでなく。この国そのものを滅ぼされるかもしれない。
「もしかして」
デュラスは覚悟を決めて、屹然として言う。
「最近。うろつき回っている、この男からの依頼か?」
デュラスは写真を、デス・ウィングに見せる。
そこには。遠くから撮影された、ジルズの顔が写されていた。
「そうだな」
「ムシュフシュに言っておく。始末しろと」
そして。デュラスは彼女に、踏み込む事にした。
発想の逆転。こいつは、本当にヤバイ。しかし、逆に考えるならば。……。
「何で取引している?」
「死んだ人間の。人体のパーツと。彼らを縛っている首括りの縄」
デス・ウィングは、くっくっと微笑んだ。
「どうしても欲しい。だから、お前を殺したい」
「そうねぇ」
デュラスは、慎重に言葉を選んでいく。一歩、間違えれば死ぬ。殺される。
彼女は今はまだ死ねない。だから、選択を間違えてはならない。
「貴方って。裏切りとかは駄目?」
「ん。どうだっていいかな」
すすけた長い金髪の女は、肩を竦めた。
「依頼の内容は?」
「明日の夜までに。お前の首を差し出せと言われている」
「分かったわ。ほほほっ。こんな時の為に替え玉を用意していて。下層上がりの者なんだけど。いつでも、私に首を差し出すわ」
デュラスは少し陰鬱な顔をするが。すぐに、首を横に振った。
同情心など、振り払わなくてはならない。
「それで。私に付いて欲しいの。私のボディー・ガードになって欲しい」
強い信念。
デュラスはそれを持っている。
だから、折れるわけにはいかない。
恐怖など抱えている暇など、無い。
少し、悩むが。少し、偽善的に。言う。
「ヒースと戦争がしたい。そして、彼女の領土を奪って。下層階級を無くす。デス・ウィング。私は富と快楽の為に独裁をしているわけじゃないの。私は誰よりも国土と民を思っているつもり。ねえ、どう? 戦争は行わなければならない。でも、なるべく兵士達にも死んで欲しくない。彼らにも人生があり、家族がいるから」
少し、誤りがあるが。仕方が無い。意図的に普段の思考とはズレた事を話す。
攻め込もうとしているのは、ヒースの方。しかし、デュラスは敢えて嘘を付く事を選んだ。下層階級なんて無くせるわけが無いと思っている。
しかし、敢えて嘘を付く。
「私を悪だと断罪するのは簡単。けれども、私は正義の為に一党独裁し。ヴァーゲンを守ろうと考えている。祖国を。だから、テロリストに殺されている暇なんて無い。特に、ヒースの側も戦争を仕掛けたいと思っている。だから、あなたの御力が必要なの」
彼女は窓を開いた。
月がよく見える。
「お願い。デス・ウィング。ヒースの民は異常者ばかり。彼らの国家は駆逐しなければならない。そして、領土。食糧。産業を奪って、私の国民に与えないといけない。『背徳者』の力がいる」
彼女は使命感に満ちた強い瞳をしている。
曲げられないものがあるのだから。
「ヒースの異常者の兵団を私の国民に差し向けさせるわけにはいけない。私は国を、民を愛しているから。奴らは殲滅しなければならない」
少し、ヒステリックな口調で言う。
デス・ウィングは、そんな彼女を楽しそうに見ていた。
「この世界は誰かが支配者に。誰かが奴隷にならなければならない。残念だけど。歴史も証明している。だから、貧困も戦争も無くせない。ならば、受け入れるべき」
彼女は自分の理念を信じている。
デス・ウィングは、何だかとても可笑しそうだった。
「いいよ。お前に付こう。私はジルズの方は裏切る。何故なら、お前に付いた方が面白そうだから」
死の翼は、本当に楽しそうに言った。
デュラスは、肩の力が抜ける。
説得し切った。
†
デュラスは祖国の為に生きなければならないと考えている。
広がる領土。領地。
美しき国。ヴァーゲンからは、広い大地が見える。山河。深緑。全てが麗しい。それらもまた、守らなければならない。
自分は頂点という立場にいる。
勿論、国民が一定数、虐げられる状態を作っているのも彼女だ。
しかし。テロリスト達は何になるのだろうか。
経済は無限ではない。
この世界にあるものは、決して無限ではない。有限なのだ。
だからこそ。必要悪として。
酷い国家は、何処までも酷いのだろう。
やはり、自然には勝てないのだと思い知らされる。
物質が不足している。
どんどん。貧困街の方で死んでいく人間が増えていると聞いている。
デュラスは苦悩していた。
下層階級の者達を、救済する手段は存在するだろう。しかし、それは戦争によって。他国から搾取するという手段の強行だ。しかしそれもまた、国民は望んでいないだろう。
だが、それ以外では在り得ない。この世界とは誰かが幸福になり、誰かが不幸にならなければならないからなのだ。みなが幸福な世界とは在り得ない。
少なくとも、デュラスの眼からはそう映っている。
「デュラス様。パーティーに行きましょう」
親衛隊の一人である、アルバトスが言った。
彼は目深く、軍帽を被った。軍人だ。
「私は。今日はいいかな。そういう気分じゃない」
少し、一人で考えたい。それに、余り贅沢をしてよい立場なのかも悩むものだ。
「随分と。善人気取りじゃないか?」
デス・ウィングは、くっくっと笑う。
「沢山の人間の死体の製造。お前は一体、何を視ているのかな?」
「分からない。あなたの言う通りだ。私は何を視ているのだろうか」
デュラスは顎に手を置く。
そして、くすんだ髪の女を見つめた。
「報酬。欲しいんだろう?」
羽飾りを付けた、豪奢な衣服の女君主は言う。
「どんなものが欲しいんだ?」
「闇に塗られたもの。たとえば、邪悪なもの」
デス・ウィングは、自分の好みを延々と。デュラスに教えていく。それを聞いて、デュラスは呆れたような顔になった。
「分かった。手配出来る。本当に、私が依頼主になっていいんだな?」
「いいよ。何なら、テロリストも皆殺しにしようか?」
「……いや。テロリスト共はいい。それよりも、ヒースだ……」
彼女に余計な仕事を与えたくない。代償が怖いからだ。
解決出来るものは、自分達で解決しよう。そう、デュラスは判断した。
「了解」
不吉な風が、部屋の中に吹き抜けている。
†
デス・ウィングは。地下牢へと案内された。
ワーロックが彼女を連れてきたのだった。
一つのダンジョンみたいになっている場所だ。
地下牢の奥底。独房。
ひんやりとした感触が広がっている。
「デュラス様はおっしゃられるのですが。テロリスト共はこの際、どうでもよい。しかし、ですのう。ヒースの諜報員、あれは放っておけない。どうにかせねばなりません」
老人はねっとりとした、陰湿な声で告げた。
地下牢の中、老人が案内した場所。
そこには。両腕を鎖に吊るされた女がいた。
年の頃、二十代前後だろうか。幼さが残る。栗色の髪。二つのお下げにしている。
美少女と言っていい。
彼女は胸元と腰元のみを布で覆った、下着だけの姿になっていた。
「見ていて欲しいのです。そして、出来れば。あなたも手伝って欲しい」
デス・ウィングは了承する。
顔を布で覆った刑吏が立っている。彼らの一人が、荷車を引いて牢の中に入ってきた。
ワーロックは冷たく、無感情な視線を辺りに送っている。
「ヒースのヴァーゲンに対する見解は?」
刑吏の一人が彼女に訊ねる。彼女は首を横に振る。
すると。刑吏は、鉄の爪で彼女の脚の皮膚をなぞる。ぺりぃぺりぃ、と皮膚が裂かれていく。
美少女は苦悶の表情を浮かべながらも、力強く睨み付けた。
「お前らの部隊は何名いる?」
荷車の中から。ペンチと頭蓋骨圧縮機を取り出す。
†
夜が昼になり。夕刻を過ぎた頃だ。
「やっと。口を割らせる事が出来ました。しかし、時間が掛かった」
ワーロックは、ほっと一息付く。
顔を砕かれ。焼きゴテを当てられ。大量の水を飲まされ。爪を剥がされ、手足の指を切断され。目玉を穿られ。鼻を削がれ。歯を抜かれ。腹を裂かれ。両足の骨を砕かれ。両足を切断され。
拷問は、十何時間にも及んだ。
その間、デス・ウィングはずっと、その光景を眺め続けていた。
ありとあらゆる、体液と排出物によって床が濡れていた。
苦痛に次ぐ、苦痛。
どろどろの混合物が、床にこびり付いている。掃除夫が鼻を顰めていた。
他の囚人達が、歌い、喜んでいる。
そして、自分達の排泄物を投げ付けて喜んでいた。彼らの何名かは実際、完全に発狂しているのだろう。
ワーロックはかつて美少女だった物の死体を前にして言った。
「プレゼントです。デュラス様からの」
デス・ウィングは喜ぶ。
「ありがとう。デュラスに言っておいてくれ。私に出来る事ならば、何でも手伝おうと。気に入った」
可能な限りの情報は得られたのだと言う。最後の辺りには、虚偽の情報も沢山、混ざっていただろう。ワーロックは経験上、何が嘘で、何が真実の事なのか判別出来るという。
陰気な老人は、職人の相貌をしていた。
棺桶が用意される。
その中に、死体と。切り離したパーツなどが入れられていく。
デス・ウィングは鼻歌を歌っていた。とても、幸せそう。
「他にも。くれるの?」
「勿論」
「ああ。早く、宿に戻りたいなあ。ホルマリンに漬けて、鑑賞したい。彼女の言葉、悲鳴。抵抗。苦痛。哀願。全部、記録させて貰ったよ。ありがとう。本当に」
彼女は紙に書いて、終始記録していた。
後で、書いた文章をデュラスにもコピーして渡すという。
そして、掃除夫に言う。
「ああ。そうだ。液体とかも、嘔吐物とかも。出来ればくれないかな? それも瓶に詰める」
中年を過ぎて、髭が白味掛かった掃除夫は愕然としたような顔になる。
掃除夫は。しばらくの間、奥歯をかたかた、と鳴らす。
刑吏の一人は覆面を取った。率先して、拷問を行っていた男だ。
その顔は、悲しみに歪んでいた。
「なあ。俺に娘がいて。もう、その女くらいでな。結婚相手を探してるんだ」
彼は震えていた。どうしようもないくらいに、辛そうだった。
「俺はどうやって、娘に会えばいい? 仕事の為とはいえ。俺は娘みたいな女を凌辱し続けた。なあ、俺はどうやって、娘に会えばいい?」
「花を買って贈ればいい。花は全てを忘れさせてくれる。睡蓮がいい。あれは美しい」
デス・ウィングは優しげに言った。
五十代くらいの男は、涙を流し続けた。
そして、祈りの言葉を唱え続ける。
「ワーロック殿。お願いします。仕事を変えさせてください……」
「駄目じゃ。祖国の為じゃ」
「ワーロック殿……」
男はただ、ひたすらに泣き続けた。そして、懇願を続ける。
霊廟の臭いが漂っている。
此処で、沢山の者達が処刑されたのだろう。牢獄の壁には、じっとりと。血の汚泥がこびり付いていた。
「主よ。娘が結婚相手を見つけたら。私は自害します。私をどうか、地獄に落としてください。私の魂は汚れている。どうか、私が苦しめた者達に安らぎを……」
冷たい牢獄の中に、男の声は反響していく。
啜り泣き声が止まない。
やがて、男は。他の刑吏に手を貸されて。地下牢の外へと出ていく。
「駄目じゃのう。やはり、みな。途中で、意志が折れる。彼らを糾弾するわけにもいかないからのう」
「そうなんだ。お前は私と同じように、平気なのかい?」
「私には、祖国への愛があるからの。愛の為ならば、他人を苦しめる苦痛もまた、赦されるのじゃ」
「ふーん」
デス・ウィングは。自分のぼさぼさの髪を撫でた。指で解していく。
バルコニーに向かう。
宮殿からは、街の景色が一望出来た。
風が吹き抜ける。寒空だ。
†
テレサは幼年時代。この世界が綺麗なものばかりで包まれていると思っていた。
彼女は器量が良かったし。大抵の者達とは仲良くなれた。多くの者達に好かれもした。友達と喧嘩したり、アルバイト先で上司に怒られたりしても。彼女は一晩立てば、すぐに友達と仲直り出来たし、上司の方も、昨日は言い過ぎたと謝ったりした。
彼女は要領が良く。大抵の事は、何でもそつなくこなせた。
顔立ちも良いせいもあってか、異性からはとてもモテた。しかし、彼女はこれだという男性はいなかったし。何だか、恋愛感情というものがよく分からなかった為、付き合っても、深く踏み込む事は無かった。キスもした事が無い。
そんな純朴な生き方。だからこそ、此処では無い感覚に憧れているのだろうか。
何というか。……背徳感。
彼女がデス・ウィングと呼ばれている女と一緒に、旅をしようと思ったのは。何だか、そんな自分に何処か違和感を感じていたのかもしれない。非日常に対する憧れというか。
街の外を見てみたい。そう思っていた。
本の中でしか知らない世界。
めくる、めくる、絵本。写真集。怖いもの、不気味なもの、おぞましいもの。
知ってしまった後で、少しずつ後悔を始めている。
何故、この世界にはこんなに酷いものが蔓延っているのだろうかと。
更に言えば。
水月。……デス・ウィング。
彼女の底知れない程の暗黒。言うならば、邪悪さに惹かれている。
禁断の知恵に触れていくかのような感覚。
怖いものほど、見てみたい。
街の者達は、きっとこんな世界など知らないのだろう。夜のバザールでさえ、一部の者しか近寄らなかった。テレサは固く、近寄るなと言われていた。
踏み込んではいけない領域に向かっているのだろう。それだけは分かる。
世界の汚れ。生命の汚れ、そのもののような。
†
水月は何処かへと行ってしまった。
テレサは今日も、同じ温泉に向かう事にした。
今日は、一人で街を回った。
此処に来て、三日くらいか。
もうすぐ、水月と初めて会って、一週間が経とうとしている。
旅が此れほど、疲れるものだとは思わなかった。
見るもの全てが、真新しく思える。
こんなに世界は広かったのだと実感する。これからも、色々なものを体験として記憶していくのだろう。心がずっと躍っている。
彼女は部屋着に着替えて、温泉へと向かう。温かい湯気が辺りに満ちている。
何だか、この旅館はとても居心地が良い。一日中、街を歩き回った後に浸かる湯船はとても最高なのだ。
湯の中に行く途中に。
二人の美人と出会った。
テレサは旅の高揚のせいか、思わず。二人に話し掛ける。
「あ、あのっ。ちょっと、お話しませんか? わ、私。旅、初めてで。宜しければ」
二人は。
「女同士、大変かなっって」
二人は顔を見合わせる。
そして、お互いに言った。
「俺は男だが……」
「んん。私は女じゃないんだよねえ」
†
ソルティアとザルファ。この二人の名は、そう名乗った。
ソルティアは、長いと思うのなら。ソルティと呼んでと言う。
「テレサって言うんだね」
ソルティは笑った。
ザルファは、面倒臭そうとも。興味が無さそうとも、曖昧な顔をしていた。
ソファーの上に座る、三名。
テレサはまじまじと、二人を眺める。
どちらとも。美人だ。
ただ。
ソルティの方が、話し掛けやすそうではあった。
そして。もう一人の。
ザルファの方は、何処か不気味だ。何だか、底無しにその双眸が、暗く感じる。
テレサは。彼のような人間を見た事が無い。
デス・ウィングの何処か、狂った陽気さ。それから、昨日会った。ジルズの憎悪と敵意に満ちた意思とも違う。どう表せばいいか分からない。
†
テレサは。ソルティとザルファの二人と一緒に。風呂の中に入る事になった。お互いに、胸や腰に幾重にもバスタオルを巻いている。
湯気。
「友人が。一緒に。お風呂に入ってくれないんですよお」
「それはどうしてだろうね」
ソルティが不思議そうに言う。
「んーん、不潔なのかなあ?」
「只の変人なのかもね」
「そうなんですよ。変人なんです、それも。今まで見た事無いくらいに」
黒髪の方は、ずっと黙っていた。
何だか、彼の方は。冷たく、何と言うか。他人が嫌いな感じがする。けれども、テレサはいつもの癖で。彼にも笑顔を振り撒く。
どんな人間にも、優しい部分はあるのだと彼女は信じているから。
「一緒に。お風呂にか……」
ザルファは呟く。
「面倒臭いなあ。なあ、ソルティ。この女、気味悪いなあ? こいつの、顔の皮。剥いでいいかなあ? なんつーか、笑顔が凄くムカ付く」
「ザ、ザルファ。止めなよ。怯えたら、どうするのさ」
「なんてか。こいつの顔、鼻とか削ぎたくなる。果物の皮剥くみたいにさあ、くるくる、と弄くり回したくなるんだよなあ。幸せそうな顔しやがって。俺、ナイフ取ってきていいかなあ?」
「本当に、止めなって。ほら、怯えているよっ」
銀髪の男は、何とか黒髪の男の発言を止めさせようとする。
テレサは、ぼんやりとした頭で二人を見ていた。
「で、でもさ。私も確かに、どうなんだろうね? 男女一緒にお風呂に入るって」
「私は別にあなた達なら、大丈夫です。だって、美人だもの」
「やっぱ、俺。ナイフ取ってきたい」
ザルファは悪態を付く。
何だか、ちぐはぐだ。確かに、テレサ自身も変だと思う。
男二人と、女一人。
普通。女の方は、恥ずかしがるものなのだ。しかし。何だか、彼らは男とは思えなかった。かといっても、同性とも違うのだが。
思い切って。テレサは二人と一緒に湯船の中に浸かった。
テレサは裸体をひた隠しにした。
そして。男二人の裸体をまじまじと見る。
とても、綺麗だ。
ソルティは絵画の天使のような、身体付きをしていた。
ザルファは幽霊のよう。
二人共、美しいな。と思う。
「ふん」
ザルファは、少し嫌そうに。ソルティとテレサから離れた。
そして。彼は、背中と胸元を隠して、二人から距離を置く。とても恥ずかしそうだった。
「ご、ごめんね?」
テレサは思わず、はにかむ。
怒らせてしまったみたいだと、焦る。他人を怒らせてしまうのは、いつだって自分が悪い。その時は謝ればいい。そう、彼女は自分に言い聞かせている。
湯船は。薔薇の香りが立ち込めていた。他に客もいない為に。三名でオーダーしたのだ。
薄桃色の湯の中に、花が浮かんでいる。
しっとりと。肌に触れる湯気。
お互いの顔が、薄らぼんやりとしている。
†
ザルファは深く、暗い夢の中にいる。
彼は姉の弟。
姉は友達を連れてくる。沢山の嬌声。
ザルファは同じベッドの上で、女達と一緒に眠る。
女達の体温。体臭。肉の膨らみ。
彼女達は、次々に彼を抱き締める。可愛いね、と詠うように言う。
彼は、彼女達の愛玩物。
女は、髪を梳くのが大好き。ザルファは髪を伸ばし続けるように言われた。
彼の美貌は。女を迷わせる。特に、色香に咽ぶ女を。
翠の瞳がとても綺麗らしい。エメラルドのようだと。
ザルファは自分の容姿が分からない。みんな、綺麗だ、可愛いと言う。
肌が綺麗と彼女達は言う。指が細いね、と。睫毛も長いと褒め称える。
褒められれば褒められる程。彼は酷い喪失感に襲われた。
自分の存在とは一体、何なのだろうか。自分は只の愛玩物でしかない事が分かっている。すぐに飽きられてしまう存在なのだ。そうやって屈辱に耐えていくしかないのだろう。
全てが空っぽだった。
「ねえ。あなたの奴隷にして?」
「はあ?」
ザルファは声が裏返る。
彼女は未亡人だった。ザルファよりも、二回りも年が上だった。男の肉に溺れている。美貌の少年、美貌の青年に虐げられたいのだと言う。その倒錯的な願望を満たす為に、彼は選ばれた。
「最後までやらねえぞ? 俺は服を脱がないからな?」
そう言って、彼はその女を拒絶する。けれども、女は彼を離さない。
暗い寝室の中で。
女は彼の剥き出しの足に、舌を這わせている。彼は足を組んでいる。
彼はいつものように。姉から貰った異国の服を着る。赤い女物の装束。着物というものらしい。彼の足は乳白のよう。真っ白だ。産毛さえ生えていない。
彼は、女の言うように。罵りの言葉を吐く。そして、女の顔を足蹴にする。体重を掛ける。この女は、前の夫を溢れんばかりの情欲で追い詰めたらしい。
「うう、ご主人様……」
彼女は一人で、奴隷になりきる。彼を使って、一人の世界に入っていく。
「気持ちが悪いんだよ。ドブスが」
込み上げてくる吐き気を抑えながら、彼は言う。
ご主人様、愛してください、愛してください、愛してください。女は叫び続ける。
「気持ち悪いっ、って言っているだろうが。蛆虫が」
ザルファは、冷笑を込めて言う。彼が蔑めば蔑む程、女は喜ぶ。
もっと罵倒しろ、と女は言う。彼は疲れる。
女は一人で歓喜し続ける。彼は、ただただ心の中で蔑みが生まれるのだが、その感情がまた、女にとっては心地の良いものらしかった。
最後に、女は一人で絶頂に至る。
ザルファは、女と別れた後。一人、涙を零す。
しばらくして、三ヶ月程、経った後。ザルファは、その女から捨てられた。どうも、新しい美少年を見つけたらしい。黒髪よりも、金髪で健康そうな男子が今は好み、とその女は手紙を寄越した。この子は、ちゃんと最後までやってくれると書いていた。
自分は一体、何なんだ。とザルファは暗い部屋で、一人、へたり込んだ。
そして、一ヶ月近く、食が喉を通らなかった。心身共に疲弊していた。
二度と、この手の女には関わるか、と思った。酷い自己嫌悪と他者嫌悪に陥った。
自分自身が、何故、此れ程までに醜いのだろうか。
鏡を殴り付けたくなる。自分自身の顔面にナイフを入れたい衝動。
自分の顔は、醜いと思う。
しばらくして。数ヵ月後、またその女から手紙を貰う。
夫と、連絡が取れた。と。
「俺はお前のご主人様じゃねえし。お前なんて好きじゃねえ……」
その未亡人は、愛されたかったんだな、と理解した。
彼の心は沈む。自分は誰かを愛せるのか?
そもそも、自分が底無しに嫌いだ。
病弱な肉体。すぐに、風邪をこじらせる。
そもそも。この身体は生きる事に向いていないのかもしれない。
筋骨逞しい男がいて。男らしい男がいて。健康な男がいる。
ザルファに男らしさなんて無かったし、暗い感情は強かったが。いつも、妙に癖の強い女ばかりが彼の下に寄ってくる。彼を好きだと言う。気味が悪い。
自分の肉体の欠陥。彼はそれを沢山、知っている。けれども、女達からはそれが見えないのか、見えても気にならないのか。見たいものしか、見ていないのか。
†
ザルファは身体が弱い。おそらく、彼以上に。
だからこそ、ザルファに強い好意があるのかもしれない。
ソルティアも、病弱な子供として生まれた。
よく、風邪らしき者に掛かって、何故か血を吐いた。
その時の苦痛が、忘れられない。
ずっと、死体になりたいと思っていた。
もう、自分の生は終わっているのだろうと。
死体を見ていると安心する。たとえそれが、動物の死体でも、写真に写った死体でもだ。
ある種の安息さえ覚えるのだ。生命の抜け殻に触れると、彼らと友達になれるかのようだった。
ソルティが成りたいもの。それは。
魂を運ぶ者。
たとえば、蝶。
彼は蝶が好きだったし、粉雪や木の葉が好きだった。
舞い散るもの。
何だか、人の魂のように思った。
懐かしい景色のよう。
前世など、あるのかどうか分からないが。何処かで嗅いだ景色みたい。
人間は、生まれる前は何をしていたのだろう。
彼は、そんな空想にばかり耽る。幼年時代は、ずっとそうだった。
綺麗な景色の中に、耽溺していたい。
感受性の強い、少年時代を送った。今もそうだ。
真っ赤な血。自分の色だ。自分の中から吐き出される生命。
自分は、長く生きられないんだと。ずっと思った。
強い肉体。生命力の証。何だか、それは歪なものに思えた。
自分の肉体の中で、違和感を感じるものだ。
自分は死者なんじゃないのか。生きながらにして。
紫が、冥界の色だろうと思って。よく紫色を好んだ。
死に触れる瞬間に。生の弱さを感じ取れる。
その時に。自分の心臓が動いているのだと確信する。
死の先の事を考える。死は永遠に届かないものだ。分からないもの。だからこそ、ソルティは死に惹かれる。それは甘い憧憬で。どうしようもないくらいに、彼の心を揺らす。
彼は死んだ者達を強く、深く、愛している。
それは彼の生まれ持った気質だった。
死体が好きだ。
何時間も。何日でも、死体を観察していた。
死体を鉛筆で、異様に。異様に書き写す。腐乱していく狐の身体。蟲が集る。その光景が何処までも美しい。匂いもだ。人は、死体の匂いを嫌う。けれども、ソルティはその腐敗の匂いこそ好ましいものだと考えている。
言わば、死人の姿を。永遠に刻印し、残し続けたいのだと。
生きた証として、刻みたいのだと。
死体と共に生きたい。彼はそう思っている。死体に集る蟲。白い蟲。蛆虫。可愛いと思う、黒い蝿もだ。彼らは、ソルティと。とても、分かち合える友のように思えた。
ふと。この景色が、永遠なのだと思う。
永遠と溶け合うような感覚。彼は死体が好きだ。
何故、みんな生きた人間ばかり見ているのだろう。そんな事ばかり考えて、幼年時代を過ごした。青年になってからも変わらない。
死にたいとは思わない。自殺願望が強いとか、世界に絶望しているとか、そういった感覚じゃない。むしろ、ソルティは世界という存在を信じていた。
むしろ、死後こそが生きているんじゃないかと思ってしまう。
死の先には、何があるのだろうか。
自分自身の願望が。……。
他人を壊すものだと知ってしまった時に。
ああ、自分は生まれてきたのが間違いだったのだろうなあと思った。
それでも、良かった事だってある。生まれてきて良かったと思ったもの。
彼にとっての救済は、ザルファだった。
彼の異常なまでの自己肯定。
彼の持つ、邪悪さに惹かれた。
いっそ、彼のように他人に対しての痛みが分からないような人間になれれば、と。そんな事を思った事が何度もある。
彼は、人を人と思っていない。
「人間の苦痛が沢山見てみたい」
そう言いながら、旅を続けている。
何故、そんな彼に惹かれたのか。ソルティとしても分からない。
彼の言い分が本当ならば、ソルティも悪徳の道へと向かっている。
彼はいつも、宝物のように髑髏を抱えている。占い師の水晶球のように。
それは何か、と訊ねたら。初めて俺が殺した相手だ、と答えられた。
そう言った時の彼の顔。何とも言えない。どう言葉に現せばいいか分からない。
命の価値が分からない。
永遠に生きなければいけないものの定め。
背徳者とは、そういったものを背負っているのだろうか。
あるいは、死の否定へと向かう者達。
背徳者なるものは、何処へ行くのだろう。
生が無限ならば。
たとえ、この世界の全てが無くなった後も、その瞬間から別の世界に移動して、生き続ける事になるとするのならば。
そんな空想を抱えながら、ソルティは生きてきた。
死ねない、というのは恐怖以外の何物でもないのだ。
生きた死体。
彼は、自分の事をそう思っているし。思い込んでいる。
この二重な矛盾に満ちた感情は何処から来るのだろう。
死に対する憧憬と。死への強い不安。
その相反する矛盾律こそが、ソルティの心を形作っているのだ。
ザルファ。
彼は人間の命を嘲笑している。嘲笑し続けている。
人間の残虐行為。人間の苦痛、それらを最前列で眺めたい。
その衝動ばかりに突き動かされている。
なので、彼は普遍的な人間にとって、おぞましく悲しい事象は、彼にとってはエンター・テイメントなのだ。
初めて彼に出会ったのは、火刑台の前だった。
未だ残る魔女狩りの余韻によって、生きながらに焼かれていく女。
それを見ながら、観衆達は嬉々とした視線を浴びせている。
観衆達は、蔓延る疫病などの為に、苦しんでいた。
だから、疫病の元凶となる存在を作り出す事が必要だった。
所謂、スケープゴートという奴だ。
観客達の憎悪の眼が、火刑台には集まっている。
しかし、一番、前列で見ていた美少女。
そいつには、憎悪ではなく。嘲笑と歓喜しかなかった。
それが、彼だった。
彼はうっとりと、その女を見上げていた。
火の粉が舞う。女は悲鳴を上げ、神や処刑人に赦しを乞い続ける。
それを見て、腹を抱えて彼は笑っていた。本当に、本当に心から楽しそうだった。
彼は住民達のような、敵意が無かった。
ただ純粋な歓喜。それだけがあった。
やがて女は生皮が落ち、顔が溶け、黒髑髏が剥き出しになっていく。
住民達の一部では、顔を覆う者、嘔吐を催す者まで現れている。
けれども、まるで食い入るように、ますます彼はその光景を眺めていた。